2001年10月

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10月28日(日)
  昨日、詩集の版元の書肆山田の人々と飲んだ。池袋の鬼子母神の近くに
ある小さな飲み屋さんだったが、料理がおいしかった。鈴木一民さん、大
泉さん、千田さんの他、書肆アクセスの門野さんらが加わり、楽しいひと
ときだった。詩集のカバー写真を撮った写真家のサイトウノリコさんもい
らっしゃるはずだったが、風邪で来られず残念。
  しかし、こういうメンバーで飲むと話題はすぐ書籍の流通のことに集中
してしまう。出版社・取次・書店、どこも現場が疲弊してしまって余力が
なくなっているということ。不況で返品が増え、人件費は削られ、日常業
務をこなすのに精一杯で、それ以上の付加価値のある“何か”をやろうに
もやりようがなくなっている。でも、お客様が求めてくるのはまさにその
「付加価値」。出版社・書店側が面白さをきちんと演出できなければ、本
は広告で紹介されるもの以外、探し出すのが困難になってしまう。出版点
数を抑えて、仕入れ条件を多様化させて、中間のコストを減らして、など
と言うは易しだが、今のようにパターン配本制・再版制を基軸とした流通
の仕組みを逃れるのは容易ではない。

  ところで、詩のような非商業型文学はいっそ値段をつけないで、気に入
ったら持ってっていいよ、というようなやり方もあるかなあなどとと思っ
たりする。著者たちがお金を出せばいいんでしょ。「ぱろうる」のような
詩の専門店を詩人たちで運営して、売るのでなくてタダで持っていっても
らう。どうせ食べられるだけのお金は詩集では得られないのだからせめて
読まれるようにしよう、ということ。
  冗談の話ではあるが、現に詩人たちの作品発表の場は、同人誌からネット
に移りつつあり、ネットというのは基本的にタダ。贈与という形態で作品
が流通する仕組みが主流になりつつあるということ。

  じゃあ、誰が第三者的な眼で編集したり分類したりするの? という問題
につながる。いずれにせよ、詩人は読者と編集者を自力で見つけなくてはな
らない、という時代がきたように思う。


10月20日(土) アメリカ軍はタリバーンへとの地上戦に突入した。空爆も続行している という。同時にアメリカ国内で郵便物に封入された炭疸菌発症者が8名に 増えた。アメリカ大統領は「戦争に犠牲はやむを得ない」と言っているら しいが、本当は逆で、地域格差によって「犠牲」が先にあったから独裁政 権が誕生し、テロも起きたのではないかなあ。 注目している漫画家奥浩哉の「GANTZ」4巻(集英社)が発刊にな った。GANTZという名の不思議な生命体が、死んだ人間を蘇らせ、異 星人と戦わせるという奇妙な物語。平和な日常を送っていた者らが、いき なり「死ぬか、殺すか」の瀬戸際に立たされる。ナンセンスといっていい ような設定なのだが、戦闘のシーンは描写が具体的で緊迫感がある。死へ の恐怖が切迫してくると、現実からの遊離感が生まれて、感情が冷酷にな っていく様が生々しく描かれる。ぼくも戦場に立たされたら、やはり人を 殺すのだろうか。 ぼくの前の詩集は95年発刊だったが、その年にオウムの事件が発生し、 今度の詩集の発刊の時にはテロ/戦争が起きた。もう詩集は出さないほう がいいかもしれない? グルジアの映画「シビルの悪戯」(渋谷ル・シネマ)を観る。グルジア の小さな村に住むことになった14歳の美少女シビルが大人の男性を愛す るようになったことから起こる騒動を描く。セクシャルなシーンのサービ ス(?)も多い、一種のアイドル映画なのだが、アメリカやフランスの映 画とは感覚が違う。整理されていない社会制度や自然が生活に強い力を持 っている点が目につく。それによって登場人物たちの行動が突拍子もない ものになっている。沼に体を沈めて蛭に血を吸わせる、なんてことを普通 の人が普通にやっている社会なのだ。まずまずの楽しさだった。
10月14日(日) 今週の後半に体調を崩したこともあって、週末はとにかく寝て疲れを取 ることに務めた。ぼくには自律神経失調の気味があって、疲れが溜まりす ぎるとこの症状が現れて船酔いにかかったような状態に陥ってしまう。今 の仕事は自宅でも作業ができてしまうことがあって、気をつけないとワー カーホリック化してしまう。疲れを取るには寝るのが一番、と昼寝をして みたら、いくらでも眠れてしまうのには我ながら驚かされた。まるまる半 日くらい眠っていたのではないだろうか。これだけ眠ると起きるのが結構 しんどくて、また布団を敷き直してしまったりする。いかに自分が眠るの が好きで労働が嫌いかを思い知らされた。 渋谷のユーロスペースでロシアのアニメ映画「チェブラーシカ」を観た。 70年代初め頃の子ども向けのアニメだが、とても楽しい。チェブラーシ カというのは小さなサルのような格好の、正体不明の動物である。オレン ジの箱の中で眠っていたのを果物屋のおじさんに発見され、チェブラーシ カ(ばったり倒れ君、という意味)と命名された。チェブラーシカと、わ にのゲーナ(アコーディオンの名手で、昼間は動物園で「わに」の役を勤 めている)、意地悪ばあさんのシャパクリャクらと騒動を繰り広げるという 話。世の中を、予備知識ゼロの状態のくりくりした瞳で見つめる様子がか わいらしい。ドタバタはあるが、悪ふざけは一切なく、チェブラーシカは 行為者というより世の中を学ぶ傍観者だ。こういう無力な存在を慈しむス タンスの児童作品というのは日本には余りない。「正体不明の動物」とい う設定は、彼がこれから「正体」を作っていく、つまり大人になっていく 存在であることを示すためだろう。実際にそこらにいる小児の低い視点で 世の中が語られていく。70年代のロシアは経済的にも政治的にも困った 状態にあったが、子どもたちは愛されていたのだな、と思った。 それと、松宮純夫さんの個展に行った。ぼくの第一詩集のカバーはこの 方の絵で飾られている。未来の建物か乗り物を思わせる無機的な物体の集 合を描いた迫力のある作品群だ。怪物の姿のようにも見えてくる。こうい うスタイリッシュな作品が好きな人は、特にSF好きの若い人に多いよう な気がするのだが、そういう人にこの作品を見る機会があるとは思えない。 美術が画廊を単位として流通するのはそろそろ限界があるんじゃないかと 思えてきた。表現の問題は、その流通の問題とともに考えなくてはならな いところまで来ているのではないだろうか。
10月6日(土) 遂に第二詩集となる「Ver.μの囁き」ができ上がった。さんざん直したり 作品の順番や装丁に迷ったりした挙句の完成なので、とても嬉しい。版元の 書肆山田の皆さん、ありがとうございました! 作品のおおよその意図につ いては「錨」9/1分をご参照ください。サイトウノリコさんの、風景があ の世から手招きしているかのようなカバー写真と大泉さんによる凝った紙の 扱いに感動。 カバーに使わせてもらったサイトウさんのこの写真とは、東京写真文化館 5FのギャラリーSTAGEで偶然出会った。彼女はここでグループ展を開 いていていて、人っ子一人いない広い空き地を撮った2枚対の写真にぼくは 目を釘付けにされてしまったのだった。柔らかで穏やかに見えながら、どこ か「人の生息を許さない」厳しさを秘めたような風景の表情はぼくが求めて いたものだった。ぼくの詩は一行が比較的長く、言葉数も多い。しかも口語 体や擬態語を多用する。だから騒々しい作品と思われてしまうかもしれない が、ぼく個人の意識としては、これらの言葉は沈黙と空虚の裏返しとしてあ る姿なのだ。余り感動したので即、その写真を買い求めることに決め、同時 に「次の詩集の表紙はこれにしよう」などと勝手に決めてしまった。それが 本当に実現するとは。 三鷹の市民美術ギャラリーで宇佐美圭司の個展を見た。細かい個所までよ く考え抜かれた、隙のないしなやかな抽象画。表現主義のタッチとイラスト デザインが組み合わされたような独自の構成に惹かれる。反面、物足りなさ も感じた。ロス・アンジェルスでの暴動を報道した写真を元に人間の型を作 り、抽象的な背景の中に投げ込むということを宇佐美氏は行う。そしてそれ に意味深なタイトルをつけるのであるが、自分が直接見たわけでも参加した わけでもない暴動のことを、報道写真数枚から把握することができるのだろ うか。個々に生きる「人」より「人類」のイメージが優先されてしまってい る印象を受けた。表現者が描く対象と具体的にどう関わっていこうとしてい るかがよく見えてこない気がしたのだ。 先週の日曜日は甲府のラテン・フェスタに出演した。バスを借り切ってメ ンバー以外の有志も募り、ちょっとした日帰り旅行気分。風土記の丘公園で の野外ステージ。バーベキュー可だったので、ほうとう汁とサンマ焼きを作 って楽しんだ。途中から雨が降ってきたのにお客さんが全然帰らなかったこ とに驚かされる。ラテン系の人たちが家族連れで来てくれているのも嬉しい。 でも、犬を連れてきた集団がいて、木に繋がれてキャンキャン泣いている犬 の姿には胸を痛めずにいられなかった。犬は人間よりずっと運動を欲してい る生き物なのに、生活の大部分を鎖につながれて過ごすというのはやっぱり 残酷だ。しかも目の前でみんなご馳走を食べているんだよ。