2001年11月

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11月18日(日)
   ロジャー・ノリントン指揮のシュトゥットガルト放送管弦楽団の演奏
を聞く(サントリーホール)。ウェーバー「オベロン序曲」、メンデルス
ゾーン「交響曲・イタリア」、シューベルト「交響曲7番ハ長調」の三曲。
ヴィブラートをかけない、古楽器演奏風のスタイルが実に新鮮だった。い
つもは感情移入たっぷりに弾かれ、べったりと聞こえるフレーズが、聞き
違えるほどに歯切れよく流れる。寝そべっていた音符ひとつひとつが立ち
上がってくる、という感じ。細かい動きまでよく聞き取れて、「この曲に
こんなパッセージあったっけ?」と思えてしまうほどだ。20世紀の初め
までは、管弦楽団の演奏はこのようにヴィブラートをかけないのが普通だ
ったらしい。ティンパニや金管楽器も作曲当時(19世紀初頭)のものに
近いものが使われていたようだ。とりわけティンパニの、突き抜けるよう
な音の衝撃が快い。個人主義的な余計な思い入れを廃したこのような新し
い演奏スタイルが、今後流行っていくのではないかと思わされる。大当た
りのコンサートでした。

  ところで、帰りにコンサート仲間である数人(みんな出版関係者です)
とお茶を飲んだのだけど、人文書の取次である鈴木書店の経営不振に話が
及んだ。取引先版元は一部債権放棄を余儀なくされるとのこと。「新社設
立」ということなので・・・まあ、ほんとに大変ですね。連鎖倒産する出版社
が出なければいいけど。
  出版社はあまりヘンな本を出さないようにする、書店は必要以上に仕入
れて返品しないようにする、そうやって流通のコストを下げないと。この
業界はリストラが進んでいないから、売上不振がいきなり「経営不振」に
変わりかねない。それにしても、一部の出版社の給料のバカ高さはいった
い何?といいたいほど。書店人の給料なんて、10年働いたって30万に
も満たなかったりするんですよ。
  根にあるのは「お客さまの顔」が見えていない、ということ。必要以上
に作って、必要以上に流通させて、へばっているということ。

  土曜日はまたも丸一日寝て過ごしてしまった。どうにも疲れが取れなく
て。ガムシャラに仕事するだけが能じゃないってわかってるんですけどね。


11月11日(日) 一週間ぶっ続けで終電帰り。さすがに疲れてきますね。 昨日、岩波書店主宰のミヒャエル・エンデ「はてしない物語」のシンポジ ウムに行ってきた。ぼくは第2部から行ったのだが、作家の赤川次郎、女優 の岩崎ひろみ、エンデの翻訳者上田真而子、評論家の鶴見俊輔が「21世紀の <ものがたり>」という題目のディスカッションが催されていた。 エンデの作品は、中世ヨーロッパの聖杯伝説などを下敷きにしたファンタ ジー。現実の側にいる落第生の少年が本の中の世界と交感する形式で、空想 の国の勇士と自分を同一視することで成長していくという一種の教養小説で ある。赤川次郎はエンデのこの教訓的な面を強調し、鶴見俊輔は小説が「接 ぎ木」されるかのように自己成長を遂げる面を強調していた。 ぼく自身は、どちらかと言うと、「部分」が「全体」に成長していくとい う赤川氏的な見方より、「部分」が一つの生命体として生きていくうちに偶 然また別の「部分」と出会い、生命の火を手渡していくという鶴見氏的な見 方のほうに共感した。ただ、「はてしない物語」は完全に部分の突出に焦点 が当てられた作品ではなく、健全な児童読み物としての常識的な展開を踏み 外さない。エンデ自身は「はてしない物語」を、教訓の呪縛から解き放ちた かったようだが、個々のイメージの自立を徹底させるところまではいってい ない。それをやってしまうと、作品は難解になりポピュラリティを失う結果 になる。ある程度の定石を踏まえないと大衆の共感を得るのは難しいが、定 石に沿うと物語は自立性を失う。エンデの方法を発展させるには、本を作家 という主体が支配する形態から脱し、物語が物語自身を主体としなければな らないのではないかと思う。 ともかく、鶴見俊輔が赤川次郎の大ファンだということが判明した。 狂牛病がらみの肉骨粉の処理の話。今度は牛だけでない、肉骨粉全般が流 通しない事態に陥っているらしい。「全体」を機能させるのは難しい。個々 の一見平和に見えていた部分がひとたび異常を引き起こすと、全体が崩れ落 ちてしまう。
11月3日(土) 終日雨。どこにも行かず、寝転がりながら本を読んでいたら一日が終わっ てしまった。でも悪くない気分。こうして引きこもって非生産的でいる時が、 自分としては一番生産的で充実した気持ちになれる。昔、ロマン・ロランの 「ジャン・クリストフ」という大小説を読んでいた時、登場するサビーネと いう女性にとても惹かれた覚えがある。このサビーネという人は、ぐーたら で、「料理をするくらいなら食べないほうがまし」「何もしない時は退屈し ないが、何かしはじめると途端に退屈する」というようなことを平然と言っ てのけるような性格である。で、ぼくはこの人の考え方に痛く共感してしま うわけだ。何か特別な仕事をしない人、つまり積極的に社会参加しない人に は生きる権利はない、といったような考えには大反対である。ほっといてく れ、という人はほっておけばいい。人と同調していくだけが人生ではないし、 企業や家庭だけが人の生きる場ではない、と思う次第。 昨日はヘンシェルの独唱でシューベルトの「冬の旅」を聞きにいった(王 子ホール)。淡々とした「冬の旅」でなく、熱のこもった「冬の旅」である ことに感動。この歌曲集は、人生をあきらめてしまった人のものではなく、 人生をあきらめきれない人の気持ちをうたったものであることが鮮明に伝わ ってくる。この作品を書いた時、シューベルトはまだ30歳だった。希望を 抱く人間は必然的に挫折する。この挫折の痛みを昇華したのが「冬の旅」で、 その裏側には「希望」への意志が脈打っている。激しさと沈うつさ、暗さと 明るさが入り交じる、感情の転換の機微がじっくり聞き取れた。 インスタレーション作家コイズミアヤさんの個展も見に行った。今回の作 品は小味で勝負している。よくなったなあと思った。箱の中に家や家具をし つらえた抽象的な作風で、以前は神話的なある類型を基に造形がなされてい たが、今回の個展では作品がぐっと具体的になった。うまくは言えないが、 その抽象的な空間の中で“何か”(それは人間とは限らない)が生活してい る様子が見て取れたのだ。ぼくたちの日常生活とは別次元にある者の「生活 臭」が嗅ぎ取れた。今後の活躍が楽しみだ。