2001年12月

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12月31日(月)
  遂に21世紀最初の年も残すところ今日のみとなった。今年はぼくにとって
それなりの転換点となる年だったような気がする。まず、会社を辞め、そして
再就職したこと。再就職してからは、「会社」に忠誠を誓う、といった終身雇
用制的発想が希薄になってきたことに、我ながら驚かされる。「サラリーマン」
という言葉は今や安定を意味しない。その不安を快感として受け止めようでは
ないか、と考える。そして詩集を刊行したこと。今度の詩集は「詩壇」という、
表現者の「上位」にある組織を意識せずに作れたことが気持ち良かった。代わ
りに職場の人に配って読んでもらい、「よくわからなかった」も含めたなにが
しかの感想をいただけたことはとてもありがたいことだった(詩を書いている
ことをひた隠しにしてきたそれまでとは大きな違いだ)。このホームページを
開いたことも自分としては大きな出来事だった。時間と知識の不足でたいした
コンテンツも作れず、更新も頻繁ではなかったが、それでも現在4800回を
超えるアクセス数になっている。サイトのアクセス数としては大した数字では
ないが、紙媒体で同人誌をやっているだけではとても獲得できない数字なのだ。
  自分勝手に自分を開く、という意味では、閉じこもる一方だった数年来の自
分から多少脱皮したかなと思うが、充分ではなかった。好きなことなんだから
もっとファイトを持ってやろうぜ、と来年の自分に言い聞かせたい気分。

  自分が「大衆」の一人として作品を書いていることを自覚する。と言っても
「大衆」は二通りの意味合いに分かれる。一つはマスコミなど資本を持つ側か
ら見た、その嗜好をできるだけたくさん捕らえる対象物としての「大衆」。も
う一つは個々の嗜好を誰はばかることなく表に出す個々の人間の集まりとして
の「大衆」。後者の場合、その「嗜好」に共感する「数」は問題ではないこと
になる。自分が好きであればそれでいいわけだから。この「自分が好きである
ことを誰とも知れない誰かに表明できればそれでいい」という想いを徹底する
には精神力がいる。詩を発想した時の心のトキメキを信じきることだけが、詩
を書く(トキメキを発展され、他の誰にも共有できるようにする)原動力にな
るし、目的ともなる、というような行為だ。今年、そのような幾つかの無償の
行為に触れることができたのは幸いだった。とりわけ奥野雅子の詩作品群。自
分の人生をよっぽど噛みしめなければ生まれてこないであろう真剣さに満ちて
いるように思えた。どんな些細な事柄からもするすると彼女の生きてきた歴史
を取り出してくる手つきにびっくりさせられた(同人誌「Intrigue」で彼女の
作品が読めます)。

  昨日、イランのアボルファズル・ジャリリ監督の映画「トゥルー・ストーリ
ー」を観た(三百人劇場)。あるテレビ用の映画を作ろうとして主役の少年を
探していたジャリリ監督が、パン屋で偶然足の悪い少年サマドと出会い、最初
のプランを放棄して少年の人生を語るドキュメンタリー映画を撮る、ことにす
る行為を映画にしたもの、である。つまり、映画を撮ることと少年につきあう
こととの間にほんのわずかのズレしか生じない映画を目指すわけだ。それでも
少しはズレが出てくる。このズレが伸びたり縮んだりする様が、強い緊張感を
生む。映画は、少年の足を実際に治すことをクライマックスに持っていくもの
であるが、最初協力的であった医師が、医師会の反対で撮影に尻込みしてしま
ったりする。少年を過去手荒く扱ったクリーニング屋の主人が妙に少年に親愛
感を示したり、監督に気に入られたいばかりに少年がウソをついたり、映画に
出演したいという女の子が現場を訪問したり。ジャリリ監督は起こる全てのハ
プニングに対しひたすら丁寧に寛容に接していく。全ては真実だが、全てが「
映画を撮る」行為なしには存在しなかったものである。生活を映画にする、と
いうより、映画が生活している様を眺めているかのようだ。他の作品も観てみ
たいものだ。

  それでは来年もどうぞよろしくお願いいたします。


12月23日(日) 今年も残り僅か。忘年会が幾つも入って楽しいけれど少し疲れ気味。でも出 版界の人と飲むと話題は暗くなりますね。来年はどこどこが危ない、とか。ド ンブリ勘定の取り引きがとうとう破綻しかけているわけで、来年は再販の見直 しも本格化するかなあ。それにしても、お客様の数に比べ出版点数がまだまだ 多すぎるように思う。余裕がないからどこも「すぐ売れる」本を作ろうとする。 つまり今売れている本のマネをした本を出す。だからどの本も似たりよったり になってしまって、本全体の価値が下落する。商業出版社は無理してひと山あ てることより、経理関係をしっかりさせることから始めたほうがいいのではな いでしょうか。 パリで研究活動をしている詩人の関口涼子さんから自訳のフランス語版の 詩集をいただいた。「Calque」(P.O.L刊行。ISBN2-86744-855-7)。訳 出されている作品の原詩は知っているものばかりのようだが(タイポグラフィ の独自さを打ち出した作品が中心)、フランス語が読めないのでどんな感じに 仕上がっているかはわからない。ただ、日本語で読んでも集中力のいる詩作品 を異国の人々に理解してもらおうと苦闘する姿勢が感じ取られ、すがすがしい 緊張を覚えた。関口さんによると、この詩集を出した出版社は、小規模ながら 文芸専門の出版活動を行っており、先鋭的な詩集を自費という形でなく定期的 に刊行しているのだという。商業的にやっていけているとしたらたいしたもの だ。日本でも昔は中央公論社が吉増剛造の詩集を出したりしていたが、現在で は一般的な文芸出版社が現代詩の本を出すことなどなくなってしまった。フラ ンスにはまだ「インテリ層」が生きている、ということなのだろうか。風土の 差というものを感じる。ポンピドゥー・センターのような美術館が堂々と存在 していたり、ブーレーズのような現代音楽の作曲家が膨大な国家予算を貰える のも、「文化」というものに対する認識の深さの証なのだろう。 日本の場合、現代芸術というのは「文化」として認められていないように見 える。自費以外の詩集の刊行など考えられないし、よほどのことでもなければ 前衛的な試みをする若手のアーティストに資金の援助がなされることはない。 そしてぼくは、これはこれでよし、と考える。援助がないということは、表 現者は完全な自由の中にいるということだ。完全な自由とは世間からの「無視」 を容認し、「無名」であることを引き受けることだろう。「無名」だから気が ねなく自分の好きなことに没頭すればいいだけだし、読んでもらいたいと思っ たら読んでくれる人を探しにいけばいい。好きなことをやっているうちに同好 の士が集まってくる循環を作れればそれでいいというわけだ。「好き嫌い」だ けで無責任に集合離散するこういう関係はとても「大衆的」だなあと感じるわ け。インターネットの中にたくさんあるポルノのサイトだって、情熱の感じら れるものはいいなあと思う。 もちろん、文化を育てることに志を抱く出版社や団体を否定するつもりは全 くなく、その逆だ。個々人が「好きでやっていること」が誰でもそれとわかる ためには個人の力だけでは足りないこともあるだろう。批評と編集を外部から 与える必要もあると思う。その場合、文化団体は、抽象的な「文化」の側でな く、実際にそこにいる「人」の側に立って欲しいと思う。「人」から出発して 「人」に届くまでが表現のサイクルであって、それ以上の意義を持ち込むのは 危険だと思うのである。読解に手間暇のかかる作品を書く異国の詩人関口涼子 の詩集を出したフランスの出版社は、その意味で信頼できる出版社であるよう に感じられる。フランスで、同好の士を集められるといいですね。 クリスマスだというのに街にはたいした飾り付けがされていない。予算を切 りつめているのかなあ、とも思う。渋谷のような繁華街でさえそう。でも毎年 ギラギラしたイルミネーションには辟易しているからこのくらいで丁度いいか も。そして不況にも関わらず、わがロス・ボラーチョスの新宿ミントンハウス でのライブは満員の盛況だった。来てくれた方、ありがとうございました。サ ルサは楽しい音楽ですよ。一度は聞かなきゃ人生損します。
12月8日(土) どうも風邪の治りが遅い。熱は下がったものの、咳と鼻水が止まらなくて 困った。とにかく睡眠を取ることを心掛ける。周りでも何週間も具合の悪い 人が続出。ホント気をつけましょう。 人文書を中心とした書籍取次、鈴木書店がとうとう倒産。柳原書店に続く 2度目の取次の破綻ということになる。取次さんが倒れると、出版社の連鎖 倒産ということもあり得るし、鈴木の場合は人文分野では最大手だっただけ にその影響は大きい。と言っても業界では前々からヤバイという噂はあった ので驚きはしなかったが。朝日新聞が、「良書」を扱う「硬派」な取次が倒 れて残念、といった書き方をしていたが、賛成できない。需要があり商売に なる可能性があるから専門書を扱ってきたのであって、「硬派」を目指して いたわけではないだろう。もしそうだとすれば出発点から失格である。専門 書は「良書」のほうが長く売れるし、単価も高いから、品物の質を見極めき ちんと物流を管理すれば薄利でもそれなりの収益は出たはずだ。問題は、そ の物流を管理できなかった点にあるのだろう。一部の大手版元から高正味で 仕入をし(実はその版元の責任が大きいのだが)、生協などの顧客に多額の 分戻しをしてしまう無理が積もり積もってここまで来た。 本は「文化」の産物である場合と(詩集のように?)、商品として店頭に 陳列して収益を上げることを目指す場合にきちんと分けて考えるべきで、そ れをごっちゃにしてしまったらとんでもないことになる。後者の場合は、バ ラ撒くのをやめて、おおざっぱでも市場調査をした上で部数を決定し、きち んと置いてくれる店に限って陳列させるようにしなければならないだろうし、 前者の場合、売れる数でなくも表現としての手応えを実感することに徹底し てほしい(詩人の場合「自己満足」が目的、ということになるが、本当に「 自己満足」をすることは思いのほか難しいだろう)。 悲しいニュースであることは事実。鈴木書店の現場には有能な人も多く、 前勤めていた会社ではだいぶお世話になった。こまめに棚のチェックをしてく れたり情報をいただいたりしたので、お世話になった人たちに再就職のあてが あるのかどうか、とても心配だ。 出版はどうなるのだろう。実はバブリーに売れすぎていた部分が淘汰され削 ぎ落とされて、本来の市場規模に戻っている、ことなのかもしれない。 ユーロスペースで「UFO少年アブドラジャン」(ズリフィーカル・ムサコ フ監督 1991年)というウズベキスタンの映画を観た。以前、「不思議惑星 キン・ザ・ザ」というロシア映画を観て大笑いさせられたが、この映画も負け ていない。村のUFO騒動について、一介の守衛さんが、かのスピルバーグ監 督に手紙を書くという形式が枠となっているが、格調高い「未知との遭遇」と は大違いの何とも庶民的な映画である。カッコ悪いナベのような宇宙船が墜落 して、遭難した宇宙人の少年をある一家が家族として遇する、という話。ウズ ベキスタンという国がアジアの一部であり、イスラム教が主流ということを確 認する。少年の超能力のおかげで、畑におばけスイカができたり、村人がクワ にまたがって飛行できたり、何とも矮小な欲望が満たされていく。少年は知能 は高いが、情緒的には子どものままで、彼が一家の人間になついていく様子は なかなかに感動的で泣かせる要素もある。 こういう美男美女のスターに頼らないでも見られる映画というのは、娯楽と しては最高ですね。近所のおじさん・おばさんたちの“味”をみる楽しさなん て日本映画には滅多にないですからね。
12月1日(土) この一週間ずっと風邪をひいていて調子が悪かった。先週の土曜、六本木 のクラブでサルサの演奏をしたのだが、途中で悪寒がして帰ったら40度近 く熱があった。それがなかなか下がらない。一週間たってようやく治りかけ てきたところ。どうも空気が悪いんじゃないかという気がする。オフィスの 中も戸外も。皆さんも気をつけてください。 皇太子妃が「ご出産」なさいましたね。良かった、良かった。本当にそう 思います。なにしろ「子なし」だと「責任」を問われそうですからね。ああ、 でも、生まれたのが女の子だったから男の子を生むまでまだ安心できないか。 もう皇室の方々をいい加減「人間」に戻してあげたいですね。テレビから 聞こえてくる不自然な敬語を聞いていると、あの人たちは「市民じゃないん だなあ」ということが実感されてくる。どこかの国の皇子は元ヤンキーかつ ジャンキーだった女性を嫁にしたというのに対し、日本のこの品行方正の押 し付けぶりときたら・・・。いっそ皇室は完全に閉ざして人目に触れないよ うにしたほうがよいのではないでしょうか。 金曜に仕事仲間プラス元仕事仲間と飲んだ。風邪気味だったので料理の味 がわからなかったのは残念だったが、楽しいひとときだった。それにしても 人とわいわい飲んでいていつも自覚されるのは、自分の未成熟ぶりと世間離 れ度のひどさである。みんなそれぞれ、結婚や将来のことを考え、人生設計 に悩んでいるらしいのに、自分にはそうしたことがほとんど問題になってい ないことに気づかされてしまうわけだ。ぼくは先のことは余り考えないし、 とりあえず今自分の周りにいる人を家族と思えばいいやというくらいにしか 考えていないし、結婚などして「人並み」になろうなどという考えも特にな い。何事もどうでもいいし、なるようになればいい、と思うばかりなのだ。 これは個人主義に徹しているということとはちょっと違う。子どもの時から、 皆が当然のように信じたりすがったりしているものに対して、反射的に違和 を感じてしまうのだ。昔、ぼくが第一詩集の出来を鈴木志郎康さんに見てい ただいた時に、志郎康さんから「辻君の詩は広い意味での<教育>を受け入 れられなかった人の詩だね。<教育>といっても学校で教えてくれるものだ けじゃなく、例えば祭りでみんな一緒に御神輿かついだりしながら学んでい くというものもあるんだけど、そういう共同体からの教化を拒否してきたと いう感じがする。<教育>を拒否してきた人が、唯一<教育>から受け入れ たのが<言葉>だった、そんな人が書いた詩かな」というようなことを言わ れたことがあった。びっくりしたので覚えているのだが、確かに当たってい るなと思ってしまう。 「他人」との違いというのは、飲み会などの席で冗談めかしながら人生観 などを語り合ったりする場面でいつも強烈に意識させられる。 自分ではこういう自分の性質が別に悪いと思ってはいないが、時々不安感 に襲われることはある。ま、仕方がないかな。 ぼくは十年ほど前、同人誌に「ぼくの少女時代」という題のエッセイを書 いたことがある。少女マンガに耽溺していた学生時代を回顧して書いた文章 だったが、そのエッセイの扉にちばひさとのマンガのセリフを書きつけたも のだった。その文句はこうだ− 「お前は花の子どもだから、大人にも男にもならなくていいのよ」。