2001年2月

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2月25日(日)
  風邪をひいてしまい、まるまる土日が潰れてしまった。全くいまいましいことだ。こう
いう出かけられない日は、本を読むかホームページを見るかして時間を過ごすということ
になる。そして川本真知子さんのホームページで雑誌「intrigue」の新しい号がアップさ
れたのを知った。そしてこんな詩に心を動かされた。


《体温の差をなくすには》
                            恩地妃呂子


あなたと 手を つないどると
指先は かなり つめたいが
「あったかぁ」って つぶやかれると
    ずっと 握っとってあげたくなる。

わたしが すっぽり隠れるほどの
でっかい体に 抱かれとうと
今度は あたたかいと感じるが

あなたは わたしの体を つめたいって思いよるんやろか
  それを ちょっと愛しいなんて 思ってくれよるやろか

このまま 抱き合ったまんま 熱を吸い合って  固まってしまいたい。


  フォークソングの歌詞のような、どこがどうってことのない内容の恋愛の詩、に見える。
こういう詩を仮に詩の雑誌に投稿してみたらどうだろう。選から漏れちゃうんじゃないだ
ろうか。でも、この詩をゆっくり読むと、語られている内容以上の内容がじわじわ胸に染
み込んでくる。恋人と体を寄せ合っている最中の女性の、相手の心を測りかねる「不安」、
微小だけれどガラス片のように鋭い「不安」にはっとさせられる詩だ。別に恋人は不実を
働いていてはいないし、むしろうまくいっているのである。でも、恋人は家族でなく他人
だ。彼女は存在を丸ごと受け止めてくれることを望み、性愛はその保証にはならない。自
分と彼が違う意識を持っているという当たり前のことが、彼女の小さな不安の素になる。
そんな結論の出るはずのないつぶやき≠、彼女はきちんと言葉にしている。現場にい
る話者の中で心が動いた瞬間の、その素早く消え去る動きの軌跡を刺しとめる言葉を、注
意深く選んでいる。「それを ちょっと愛しいなんて 思ってくれよるやろか」の「ちょっ
と」に注目してみよう。相手が他者であることを承知し、遠慮しつつ、しかし決して高望
みでない彼女にとって絶対必要な希望を「ちょっと」の一事で表わしているのだ。
  この詩には方言が使われている。恩地さんは九州門司の出身なのだが、だから自然のな
りゆきとして故郷の方言を使ったというのではない気がする。標準語(考えてみると奇妙
な名称だが)で書かれることの多い現代詩の中で、方言を使うことは「敢えて方言を使う」
ことであることを、恩地さんは知り抜いているように思える。方言が、叙述の親密度を高
める魔法の杖の一振りであることがよくわかっており、「でっかい体」とか「抱き合った
まんま」とかいった口語的な言い方とうまく連動させ、それらの言葉が発せられる「現場」
のリアリティを「仮構」することに成功している。この詩は作者の体験に基づいて書かれ
ている部分もあるかもしれないが、むしろ、恋愛につきものである不安な心の状態という
ものを、自分自身(及び読者)がじっくり味わうために、語り口に工夫を凝らして言葉の
中に「現場」を出現させたのだと言えるのではないだろうか。
  恩地さん本人とは、ぼくはまだ一回しか会ったことはないが、こうして詩を読んでいる
と古くからの知り合いのように思え、その暖かな人柄に好意を感じてしまう。一生懸命生
きている姿が手に取るように感じ取れ、頑張れ、と思わず声をかけてあげたくなってしま
うのだ。その「一生懸命生きている姿」というものを、ぼくは詩作品を通じてしか知らな
い。しかし、詩作品を通じては彼女を知らない彼女の近隣の人たちよりは、恩地さんのこ
とがよくわかっているつもりになってしまうから恐ろしいものだ。


2月18日(日) 昨夜はぼくが所属するサルサバンド、ロス・ボラーチョスのライブがあり、横浜中華街 に行ってきた(今年になって中華街に行くのは早2回目である)。たいした宣伝もしてな いのにお客様がメチャメチャ入って(113名!)、小さな店内は大変な混雑を示した。座っ て黙って聞いている人はほとんどいなくて、皆踊ってくれた。ダンス・ブームが、最早ブ ームとは言えないくらい一つの「趣味」として定着してきた感じがある。ぼくは客として どこかのバンドのライブを聞きに行く時でも、体を揺らすくらいのことはするけれど踊る ことは実は少ない。感情を体で表わすことに対して、どこかにテレが残ってしまうのだ。 でも最近のお客様はそこが違う。若い女の子が多く(男性がやや足りず女の子同士で踊る 光景がちらちら見られた。ガンバレ、男の子)、争うように元気にバンドの真ん前で踊っ てくれるのは演奏者としては嬉しい。ついつい力を込めて楽器を吹きすぎて、後半ちょっ とバテ気味になってしまった。それと、夫婦でダンスしにくる中年層が増えてきたのも最 近の傾向だ。人間は本質的に踊ることが好きな動物なのだろうな。ぼくも今更ながらダン スの練習でも始めよっかな、と思ってしまったのだった。 踊りに限らず、参加するということは黙ってみているよりずっと楽しいことなのだ。鑑 賞と参加が一致しない形態が当然という表現の世界も、この観点から、少し反省してみた らいいのではないだろうか。一部のメディア・アートと呼ばれる芸術みたいに鑑賞者に「 自由な参加」を強いる、のではなく。つまり、表現の受け手を、潜在的な表現の発信者と 考えて、その内なる創造意欲をくすぐるように詩人も創作をするのがいいのではないかと 思う。詩を書くのに資格はいらない。よい詩を書くためには特別な技術が必要なのは確か だが、詩の世界に参加するのに前提とされる技術水準が設定されているわけではないのだ。 「自由詩」の「自由」とは、詩型の自由とというよりは、誰でもそれを書けるという参加 の自由のことではないだろうか。漢詩を書くには漢文に関するそれなりの教養がいる。「 自由詩」にはそれがない。字がかける人は誰でも参加できるはずだ。だが、その誰でも参 加できることの自由を、自由詩とは日常語を芸術表現の素材として扱うものという原理を 盾に、制限してきたのが現代詩の歴史であったと思う。言葉で読む人に踊ってもらうこと を考える余地などなかったのだろう。 本番前にメンバー全員で食べた中華料理は安くておいしかった。林立する雑貨の店を眺 め歩くのも、知らない国々をさまようみたいでとても楽しい(何も買わなかったけど)。 また行きたいなあ。
2月12日(月) 多摩美一年生の作品発表会「多摩王」のことがいまだ頭を離れない。ものすごい傑作に 出会った、というのではないが、ある意味ではもっと根本的な衝撃を受けたと言える。ぼ くは今まで芸術作品というものは個人の自己表現を核にするものだと思っていた。それは 大袈裟に言うと、作品によって作者が自己実現を計ることを目指すものだ。ぼくははシス テム化が行き着いたところにある社会の中でなおも唯一無二の「個」を主張するために、 言語主体を倒錯させる方法で詩を書いた。具体的には、人間ではなく「物」とか時によっ ては「概念」を発話者とし、逸脱に逸脱を重ねる物語を作って、人間としての作者の「私」 が消失していく様を描くというものである。社会生活をおくる、名づけられ機能を負わさ れた存在としての自分と、大小の欲望や妄想に穴だらけにされたような現実の自分は違う。 作品で単純に「私」を主張してしまうことは、ふわふわした「私」の現実態を掴み損なう ことになる。社会的存在としての側面を否定することによって、言語的存在としての「私」 を勝ち取ることが詩作行為の本質なのではないか。この考えに今も基本的には変わりはな いが、「個」を主張することが以前のような重要性を持たなくなってきたことに気づかざ るを得なくなっていた。そのことが多摩美一年生の発表会を見ることでハッキリした。 この言語的存在としての「私」は、最早日常における「私」ではないのだから何の社会的 責任もなく、従って無責任に倒錯的表現を繰り広げられるはずなのだが、どうもそうはい かなくなってきたのである。この自分の中の「言語的存在」を、「個」と呼び「私」と呼 ぶ限りにおいては、結局どこかの時点で社会的存在としての「私」に頼り、表現を「私」 が持つ規範に帰着させしまうのである。また、社会的存在としてのぼくが詩を読んでもら う主な相手と言えば「現代詩人」たちであるので、彼らの美意識に寄りかかってしまうと いうこともある。作品主体として「私」を意識しすぎると、詩の言葉は、「個」と「共同 体」の関係、詩人としての作者とそれを取り巻く現代詩人たちの関係の中に、限定され矮 小化され、その独自の生命を失ってしまうだろう。 詩の価値というものをぼくの側でなく、詩の側に立って考えてみると、詩の言葉が言葉 自身を超えていくことにあるのではないだろうか。もちろん作者は自分がより主体的な生 を生きたいと願って詩作に向かうのだし、自分の生のあり方を言葉に注ぎ込んで詩を書く のだが、書かれた詩は作者の生を吸い込んで自分自身の生を力強く生きなければならない のではないだろうか。 自分の中にある「言語的存在」を直立させ、これを受け止めてくれる人の胸にダイレク トに投げつけてみたいものだ。 多摩美の学生の創ったものを見ると、彼らにとって自己表現とは作者の隠れた「個」の 秘密を曝け出すことではなく、自己が「面白い」とか「楽しい」とか「カッコいい」と思 ったことをダイレクトに観客に投機することであるように思えてくる。面白いと思ったこ とを想念の中から直接掴み出して形にすると、見にきた観客たちの中に爆弾のように投げ 込み、観客のあたふたした反応を見て楽しむ、それだけなのである。自己と観客が直接向 き合って相撲を取ることが自己表現。自分を表現によって「見せていく」ことはしても、 表現を自分の「説明」の道具にはしない。文脈作り・論理の組み立てがまだ若干弱く、ふ らりと発表会を見に入ってきた町の人あたりを唸らせるにはもう一歩という感じもあるが、 見にきた仲間たち自身を驚かせるには充分のパワーがあった。そして会場には盛んな反応 があった。これが大事。表現を投げつける相手が、抽象的な理念や顔もわからない不特定 多数の大衆(マスメディアが相手にしているような)ではなく、目の前にいる観客に想定 されている。まず、創った自分たち自身が思う存分楽しむことが目指され、次に目の前の 観客をギャフンと言わせることが目指される。ある意味で、とても自然で常識的なプロセ スなのだ。表現自体より表現の裏舞台を重んじるこれまでの現代芸術の鑑賞形態の方が異 常なのだ。自分たち自身が本当に面白いと思ったことは、うまく形にすれば、アカの他人 にもきっと面白いだろう。 この「面白い」の輪を広げたり繋げたりして確実に読者に届けることを考えていけば、 詩もまたきっと面白くなると思うのだが。 鈴木志郎康さんのホームページ(「曲腰徒歩新聞」2月12日) 北爪満喜さんのホームページ(「Memories」2月8日) に詳細な関連記事があります。


2月6日(火) 多摩川美術大学上野毛校の映像演劇学科一年生による「空間表現基礎発表会」に行って きた。ここの教授である鈴木志郎康さんに教えられて興味を覚えたのだが(志郎康さんは 自ら「多摩王」と名乗る王様の扮装をして宣伝写真に収まっている)、行ってよかった。 本当によかった。昼の2時から夜の9時過ぎまで7つのプログラムを全て見たが、始めか ら終わりまで、少しも退屈することがなかった。一年生の初めての発表会であり、お世辞 にも表現が熟しているとは言えないが、初めて表現に向かう高揚した気分が伝わってきて 楽しかった。また、こちらが思いもよらないような角度から視点を提供してくれるものも あり、刺激になった。 一つ一つの作品について短評を述べてみよう。まずはミュージカル「The Fantasticks」 (台本トム・ジョーンズ)から。互いの息子と娘を結婚させるために、父親たちがわざと いがみあい家の間に壁を作り、文字通りの「恋の障壁」を設けてみせ、親への対抗心から 恋の炎を燃やさせるようにして、目的に達するというコメディ。とにかく大変な難曲なの で歌は一部聞きづらいところもあったが、「壁」の役に一人を当て黒子のように舞台をう ろちょろさせる演出が面白い。役者も個性を出して一生懸命頑張っていた(2回見たが、 2回目の方が断然よい)。ビデオ作品「大学生≠大学生」は途中から見たから筋が完全に は追えなかったが、「大学生のふりをするサークル」の部長になってしまった男の子の話 らしい。描き方は淡白すぎるが切り口は独自。同じくビデオ作品「足をゆらせば」は,足 が不自由なふりをしたマゾ指向の男の子が「女王様」の女の子にサド行為をしてもらう話。 映画や漫画の中でしか見たことのないSMをこの機会に作品にしてみようかという軽いノ リがいい。ドロドロした情念がまるでないのだ。但し筋の練り方に不足あり。映像つきの パフォーマンス「more more more TV」は若い女性の意識を描く。しかし決して人生の深い 問題には足を踏み入れず、生活意識の表層の部分をひたすら迂回する様がかえって新鮮。 ややせわしない照明効果も「カッコよさ気だからこうやってみました」という感じ。暗喩 的な意味を全く背負わない。その素直さが恐ろしくなる。但し、表層をうろうろするなら するで、それをアートにして人に伝えることにどういう意味があるかについては、もっと 論理立てて考えて欲しい。「mutton」も映像つきパフォーマンス。こちらも「カッコいい」 と感じたことを素直に形式化してくる。頭上の位置にセットしたカメラの視点が開く視界 が面白く、例えばブランコをこぐ映像は、頭の方から見るとかなり奇異な印象を与えるも のなのだと教えられる。ダンスも悪くないが、全体にスタイルに頼り過ぎている印象も受 けた。「彼女はピーチ・ジョン」は人形を使ったビデオ作品。最初は「人形アニメ」とい う感じだが、人間の女性が現れてから一変し、女性が路上や野原で人間大ののっぺらぼう の人形と争ったり抱き合ったり。最後は劇になり、人形と女性がダンスを実演。楽しけり ゃそれでいいという姿勢に好感を抱く。女性と人形の関係にもっとひねった回路をこしら えることはできないか。「4℃のライオン」は今回で一番衝撃(?)を受けた作品。これを見 られただけでも来た甲斐があった。「ドキュメンタリー・アニメーション」と銘打たれてい るが、どういうものかと言うと、小学生の時野外実習(確か課題は俳句を書いてみよとい うもの)で山に入り何とサンショウウオを発見してしまった!、それをどうしてももう一 度見たくなり、友達とともに山に探しに行く−が、その実際探しに行った過程をまずビデ オに収め次に何千枚かの絵に仕立ててアニメ化するというものである。サンショウウオを 見たくなって、さんざん探して、疲れてくじけそうにもなるが遂に見つかって大喜びする、 だけ。オチも何もない。他人から見れば誠にくだらない(笑)。しかし、当人たちはそれな りに懸命でありそれが伝わってくるし、サンショウウオ探しに協力してくれたおじいさん の表情なんか妙に味わいがある。作者たちの思い入れが篭もっているのだろう。「4℃」と はサンショウウオのいた水の温度でありサンショウウオの体温でもある。当事者・協力者・ 観客である多摩美の学生や先生、そしてサンショウウオ、との関係以外の一切のものとこ の作品は無関係だ。作品が関係する人や事象を限定しているのである。しかし個人的なだ けのメッセージというのは物凄くユーモアがある。笑いすぎて息も絶え絶えになってしま いました☆。 総じて言えることは、表現が極端に直接的であること。私の内面とか社会の不安とかい った観念を決してベースにしない。表面に現れたものが全てなのだ。カッコよさが欲しい と思ったらパッとカッコつける。余計な意味は付与しない。そして、作品が必ずしも作品 内で完結しない。パフォーマンスと映像を組み合わせた作品が多かったが、作者たちが生 きている(比喩的にではなく、現に)空気を伝えることに主眼を置かれているようで、比 喩の力を信じていないから、メッセージが伝わりにくいと思ったらさっさと観客の前に出 てきてしまう。志郎康さんと一緒に御飯を食べたのだが、その時志郎康さんは、「私探し」 の時代は終わったんだ、ということを話されていた。その通りなのだろう。面白いと感じ たことをただただ直接的に出してくる世代が、芸術家の卵の位置についている。複雑な世 の中の事象が、一定の「内面世界」を通さず、どう論理づけられていくのか。その先を考え るとワクワクしてしまう。と同時に自分も新しくなってやるぞとの意欲も生まれてくる。 これからは学生さんたちの作品を鑑賞する機会を増やしてみようと思った。


2月4日(日) 渋谷ユーロスペースで、日活ロマンポルノの巨匠と言われる小沼勝監督の特集をやって いる。この名前は昔、今は亡き大井武蔵野館で「夢野久作の少女地獄」を見て以来、気に なっていたのだ。夢野久作の原作を遥かに超えるダイナミックな構成(少女たちの欲望に 従って時空をバラバラにする)がたまらなく魅力的だった。先週は「生贄夫人」を見て、 昨日は小沼監督をテーマにしたドキュメンタリー「サディスティック&マゾヒスティック」 (中田秀夫監督)を、今日は「花と蛇」を見た。 「生贄夫人」は生け花の先生をしている上品な女性が、いきなり現れた行方不明だった夫 に誘拐され、監禁されて性的な卑しめを受けるが、やがてマゾヒズムに目覚めて性行為に積 極的になり、恐怖を覚えた夫が逃げ出してしまうというもの。「花と蛇」は、若い美貌の妻 を持つ社長が、妻に相手にされないことを怒り、社員(彼の母親がSM映画の製作を行って いる)に命じて、妻にサディスティックな懲らしめを与え、彼女を「調教」させる。部下の 社員は「調教」に成功するが、彼女を愛してしまい、結局、社長・夫人・社員の三人で放埓 な性生活を送るようになる、というもの。粗筋はこのように実にバカげたものなのであるが、 撮られた映像は実に生き生きしている。ポルノ映画というのは、男の性的妄想を映像化する ものであり、話の辻褄合わせなどは二の次なのだが、この「性的妄想の映像化」というのが 実に周到に構築されているのだ。こんなシチュエイションはあり得ない、こんな女性なんか いないよ、とはわかっていても、その虚構の場が持つ迫真性に飲まれてしまうのだ。どちら の映画にも、男が手足の自由を奪った女に浣腸をし、脱糞する様を眺めて興奮するという場 面が登場する。女優たちにはもちろんそうした経験がないからイメージが湧かない。小沼監 督は撮影やアフレコの収録の際、前もってそうした場面の表情作りや声の出し方を自ら練習 し、現場の女優たちの前で手本を見せて演技指導をしたという。その結果、妄想ならではの 現実性というものが生々しく現出することになった。まず映画が作り物であること、次にポ ルノ映画というものが男性観客の性的興奮を求める期待に応えるために作り出されるもので あることを徹底的に意識した上で、フィクションでしか表わせない現実性を改めて問い、性 的イメージを喚起する絵を一枚一枚描くように映像を重ね合せていく。人間を精神的存在と して扱わず、画像として処理していく手際は最高だ。画像になりきるため、俳優たちは大変 な苦労をしたことと想像する。 小沼監督は日常生活では全く普通の人だったらしいが、撮影現場では豹変するというタイ プの人であるようだ。倒産の危機に陥った日活は、ロマンポルノの製作に踏み切った時、10分 に一度はセックスシーンを入れること、制作費は一本700万円までにすること、などの条件を クリアしさえすればあとは何を撮ってもよいと製作者たちに言ったという。映画好きな者にと っては、口出しされることの多い一般映画の製作より、かえって好条件だったかもしれない。 それにしても、どの映画もギラギラのポルノであるにもかかわらず、ぼく自身はほとんど性 的興奮を覚えなかったのはどういうことか。女優たちは皆美しく、豊満な肉体の持ち主なのだ から少しくらい興奮したってよさそうなものなのだが、小沼監督が設定したエロスの仕掛けと 波長が合わないのだ。製作されてからたった20年程しかたっていないのに、映像が江戸の春 画のように「芸術品」として受け取れてしまう。落ち着いてじっくり映像美を鑑賞できてしま うのである(ちょっと損した気分にもなる?)。緊縛などの日本的なエロスの意味合いが、ぼく にはもう取れなくなりかけている。エロスというものは何と時代と密接な関係にあるものなの だろうか。