2001年3月

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3月18日(日)
  ナスダック株の暴落に引きずられた日米の大株安! ITバブルはいつかははじけるだろ
うと思っていたが、遂に来たか、という感じ。これでは政治が少しくらい変わったからと
いって景気が上向きになることはないでしょうね。それどころか増税と福祉の切り捨てが
待っていることでしょうね。まあ、はじけるべきものがはじけるのは自然なこと。経済が
不安定になったからといって命に別状があるでなし、気楽に行きましょう。この本格的な
底無しの不景気を機会に、自分の「時間」を楽しく生きることを改めて考えてみてはどう
かな。お金は空間の充実を確保してくれるけれど時間をもたらしてはくれない。そしてぼ
くの考えでは、楽しく生きるということは自分独自な時間を過ごすということ。自分独自
な意識の働かせ方をし、それを他人と交換しあうこと。金を稼ぐために自分の大事な時間
を潰されては元も子もない。だから失業はすばらしいことだ。失業したら布団でもひっか
ぶって、積ン読のままになっていた本でも読めばいいのだ。いかに今まで溜め込んでいた
空間を活用していなかったかがわかることだろう。
  とは言うものの、先週一週間は極めて忙しく自分の時間などこれっぽっちも取れなかっ
た。今週の目標は「時間を楽しむ」こととしよう。

  今日、インスタレーション作家コイズミアヤさんから案内状をいただいた展覧会「JIN
 Session 2001 vol.2」に行ってきた(3/27まで。吉祥寺のGallery Jinにて)。コイズ
ミアヤさんは以前詩人の関口涼子さんとコラボレーションを組んだことがあって、言葉と
造形をただ併置させたのではない、両者が交感しあう空間をギャラリーの中に出現させる
展示が印象に残った。
  彼女の作品は、白を基調とした木の箱の中に独特な“建築物”を拵えるというものであ
る。お城のような、塔のような、神話か童話、寓話のような物語の存在を暗示させる、脆
い程に繊細で精巧な“舞台”。住人は一切描かれないが、長い時間をかけて眺め、目を凝
らすと、この舞台上で上演されたドラマが浮き上がって見えそうな気がする。今回の作品
にはいつもより物語性が強く感じられた。いつもは閉まっている水門が開けられて水が流
れ出した様子を表わしている? と思わせる光景の作品他である。
  作者の言葉を引用してみよう。

「立体作品4点を展示します。作品テーマは「予感の風景」。「予感」とは主観的で個人
的な出来事です。「なんだか予感がしない?」と人に共感を求めるようなことはあまりな
いと思います。でも、誰もが感じることのあるものです。 私は箱という作品形態をとり、
内側の世界の出来事を表現しています」

  ここでコイズミさんの作品は言葉との関わり合いが非常に深いものであることがわかる。
作品は単に視覚的な美を追求するのでなく、「内側の世界の出来事」を表わしているとい
うのだ。「『なんだか予感がしない?』と人に共感を求める」ことはしないが、でも「誰
もが感じることのあるもの」でもあるものが作品のテーマ「予感」であるという。この矛
盾ぎりぎりの言い方は、次のように解釈できないだろうか。
 −作者は自己の「内面世界」を「聖なるもの」として扱い、それを祭る手段として創作を
行う(表現行為そのものが儀式である)。しかし、その「祭祀」は作者(=祭祀の執行者)
一人では成立せず、鑑賞者(=祭祀に参加する民)に見られることによって初めて成るも
のである。しかし、祭られているものは「神」という元々超越者として認められたもので
なく、超越的であることを志向するがそうであることを認められているわけではない単な
る一個人の「内面」に過ぎない。そこで作者は自分やその周囲の人間が(曖昧さを伴った
としても)何らかの共通した観念を抱くであろうような(神話的・寓話的な)イメージを
箱≠ニいう形態で提出し、それに「内面世界」を「聖なるもの」として象徴させた。従
って鑑賞者(祭祀に参加する民)は、象徴的なイメージから逆に作者の「内面世界」の在
り処を探知し、それを「聖なるもの」として位置づけることを求められる−と。
  コイズミアヤさんの作品は、まず作者自身が自分の「内面」を自分より高いもの、自分
が及ぶことのできないもの、として信仰することから始まるのだと思う。(ここまで書い
てきて、宗教の比喩を繰り返し使うと何だか怪しい雰囲気を醸し出してしまい、誤解を招
きかねない怖れを感じたので強調しておきたい。彼女の作品はいかがわしさとは全く無縁
なものだ)。誰でも「自分」の存在は謎であり、しかもそれは人生最初の謎であろう。幼
少期から持ち続けたであろう「自分って誰?」という素朴な問いを具現化し、共有化する
ことを意図したものがコイズミさんの一連の作品であるように思う。あえて共感は求めな
いが誰もが感じているもの、とは、この「自分って誰?」という問いの形そのものではな
いだろうか。即ち、「内面の謎」性がこれら作品のテーマということになろう。それはコ
イズミさん個人から出発しはするが、誰もの胸の中にもしまわれているものでもある、普
遍的なテーマなのだ。
  
  その上で若干の不満を言うと、彼女が持ち出してくるイメージは鑑賞者の「曖昧な共感」
にやや頼り過ぎているきらいがあると思うのだ。「神話の一場面」を思わせる舞台づくり
に過ぎるのではないか。暗示的表現に頼る分、作品が平板になっているように思える。も
っと独自な言葉と造形の結びつきを工夫してもいいのではないか。鑑賞者に対する説明責
任が重くなるだろう。この説明責任に耐え、鑑賞者とのより鮮烈な出会いを切り結ぶこと
を目指さない限り、「現代美術」が曖昧に共有する美意識の網の目から逃れることは難し
いように思うのである。「予感」という言葉が示す範囲が広すぎる故に、それが回収され
る想像の範囲は思いのほか限定されてしまっている。そこは逆でなければならないのでは
ないか。

  展覧会にはコイズミさんの作品以外にも面白いものが幾つもあって、とりわけ、「動
物の体内に展開される住居や劇場」を創ったという荒木珠奈さんのオブジェ作品がよか
った。出品者は皆30歳前後の気鋭の表現者ばかりで、こういうものに接すると身の引き
締まる思いがする。


3月11日(日) 森首相がようやく退陣しそうである。ぼくは昨年の12月に70万円の投資信託を買った のだが、それは銀行の人に「株価は最悪の状態にありますけど今が底値と考えれば買時 ですよ。政局が変われば一気に上昇するかもしれません」と言われたのを真に受けたか らなのだ。あれだけポンポン無邪気な失言を繰り返すということは、人間としてはとて も素直な「いい人」なのかもしれない。隣りにランボーとかゴッホが住んでいたら落ち 着かない気分になりそうだが、ああいう人が隣にいたらいつもニコニコしている「人の いいおじさん」だと思ってしまうだろう。政治家というのは笑顔を武器にその影で複雑 な策略を練るものだが、森首相は笑顔だけでやってこれてしまった。自民党という政党 も国民もそれを今まで許し続けてしまった。景気の悪くなった現在、ようやく首相とい う職務にいる人間に「技能」が求められるようになり、運悪くもそれを持ち合わせずに 首相になってしまった「森さん」という「おじさん」が責められている。一番悪いのは 本当は「森さん」を首相にした自民党を与党に選んだ国民自身なのだろう。自民党政治 というのは、ぼくのカンでは、政治に対して無関心であり自分の行動に責任を持ちたく ないと考える国民が政治的権利を放棄した結果としてあるものだ。だいたい政治家で「 ずる賢い人」や逆に「いい人」はいても、「面白い人」というのは最近では覚えがない。 先鋭的な芸術表現や自然科学に関心がある政治家なんてのも一人くらいいてもいいはず だが、ものの見事に一人もいない。政治で世の中を面白くする、つまり表現意識を持っ た政治家を必要とするだけの頭が我々のほうに欠けていたとしか言いようがない。 「保守」するだけの政治の退屈さに、さしもの国民も音を上げはじめているんだろう。 長野の田中知事に人気が集まっているのも、彼の政策に共感してというより、彼が政治 で「表現」を行おうとしていることへの興味のためのように感じられる。しかし、表現 としての政治には危険な面ももちろん内包されていて、ファシズムも政治の芸術化の一 形態と呼ぶことができるだろう。ヒーロー政治家を一人選んで全権委任すればそれでよ し、ではまずいのではないか。その意味では田中知事人気も危うさを秘めているという 気がしてならない。 ぼく自身は政治に対し全く無知だし関心もない。が、小さな事柄でもおかしいと思っ たらいちいち声をあげていく風土が作られなくてはいけないなとは感じる。発信してい く力、突き返していく力、反抗していく力を個人が持ち、権利を自衛することが重要に なってくると思う。
3月4日(日) 知人が出演している劇を観にいった。「Elisabeth 彼方へ」というタイトルで、オース トリアの后妃エリザベートの生涯を描いたものである(プロジェクトSANS−SOUCI 作・ 演出 大吉広海)。SANS−SOUCIは、役者は全員女性ばかりの半アマチュアの劇団。こう いう題材だから宝塚っぽくなる可能性があるかなあと不安だったが、メロドラマ仕立て ながら意外とさっぱりした演出で好感が持てた。演技はぎこちない面もあったけれど、 生真面目な熱演でなかなか楽しめた。 劇は、19世紀、オーストリアのフランツ・ヨーザフ一世に嫁いだハプスブルグ家出身 のエリザベートの少女期から暗殺される晩年までを描いている。そしてその中心的なテ ーマは「死」である。大胆に「死」という役に一人をあて、各登場人物の間を歩き回ら せる趣向が面白い。自然流に育てられたエリザベートは、皇帝に見初められて后妃とな り、姑である大后妃をはじめとする宮廷の保守的な勢力と対立し、宮廷を変えていく考 えも持つが、次第に個人主義的な傾向を深めて宮廷から離れ、各地を旅行する生活を送 るようになる。当初から「自分が自分であること」を主張していたエリザベートは、宮 廷との対立が深刻となる最中においても(自分の子どもの養育にも口をはさむことも禁 じられた)「死」の誘惑を遠ざけ、個人の意志による生活の権利の獲得に奔走し、抑圧 されたハンガリー民衆に理解を示すなどの積極的な革新の意志を持っていた。が、やが て「自分が自分であること」に閉じこもるようになる。宮廷生活から離脱するだけでな く、家庭や政治からも離れていく。いとこのルートヴィヒ2世の現実離れした生き方に は共感を抱くが、民主主義の思想にコミットしていく息子ルドルフの苦悩には何の力に なってやることもできないあり様である。民衆から遊離したそうした生活は憎しみの対 象にもなり、最後はテロリストの手にかかって殺害されることとなる。劇では、その様 子が、長い間忌み嫌っていた「死」を遂に受け入れる、一種の「解放」として描かれる。 この劇は基本的にメロドラマとしての骨組みを崩してはいないので、エリザベートが 自身の浮遊するような生活に対して抱いていたと思われる不安感をメインテーマとして 描き切るところまではいっていない。ぼくとしてはそこが非常に残念なところである。 しかし、輝く「自己イメージ」を求めて、伝統的な衣装を廃し先鋭的なファッションを 研究したり「ダイエット」を世界で初めて自覚的に敢行したような女性(そういう細か な部分も描くべきではなかったか?)が、次第にその「自己」を「虚無」に投影させる ようになる姿がきちんと描かれていたことはよかったと思う。話が進行するに従い、周 囲に対する興味が減じてきて、関係の糸を自ら断った「自己」だけが残る。これは今、 わたしたちが直面している問題と同じである。以前、女性雑誌をパラパラめくっていた ら、「今一番興味があるものは何か」という30代の女性に向けてのアンケート結果が載 っていて、読んでみたら一位は「自分」だったことにあきれた覚えがある。「子ども」 は三位くらいで「仕事」はもっと下だった。「一番興味があるもの」が「自分」、それ って特別何にも興味がないってことなんじゃないの? 資本主義順応型女性の先駈けであ る后妃エリザベートは、宮廷との争いの後、「自分が興味があるものが自分でしかない」 という反復の図式に苦悩していたのではないだろうか。 ところで、劇場は中野の新井薬師の近くのクエストエンドスタジオというところだった のだが、あの辺りは結構いいトコですね。食べるところもいっぱいあるしね。中華屋台で 買った焼き鳥はなかなかの味でした。