2001年5月

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5月26日(土)
  例によって疲れでボーッとした一日を過ごしてしまった。ところでぼくが今勤めているこ
の「オンライン書店」という奴、儲からないのに悲しくなってくる。店頭に並んでいないよ
うな本が幾らでも検索でき、手に入るという、考えてみればものすごいサービスを行ってい
るのだが、競争を気にし過ぎて必要な手数料を回収できず、赤字に陥っているという情けな
い状況。お客様の数は確実に増えているのだから、社会的な需要を満たしている立場にある
わけで、そのことにもっと自信を持っていいのではないかと思えてくる。ライバルとの横並
びを気にする段階から一歩抜けて、利用者はサービスに対してお金を払ってください、とい
う姿勢をそろそろ強く取ってもいいのではないか。
  ただ、ここに集まっている若い連中のことははっきり言って気に入っている。ウチの会社
は従業員の拘束が少なく、フレックスタイム制だし服装も自由だが、そのことでサボる人間
は少ない。拘束の少なさゆえに余計仕事をする、というところもある。人間は本質的に仕事
が好きな動物なのだなと思えてくる。あとは、この一匹狼族を束ねる組織論があればいい。
その時、リーダーシップを取る人間には小泉首相のようなトップダウン型ではなく、調整型
の人間がなるのがいいように思う。個人が個人に直接対していくコミュニケーションが累乗
化されたものが組織の決定となるのが、こういう若い人中心のベンチャー企業ではいいんじ
ゃないのかなあ。

  杉澤加奈子さんから手作りの小詩集「ママ」をいただいた。ふと空想に傾く時の、心の呟
きが瞬時に美しく結晶化したような短詩が8編集められている。例えばこんな具合。


絶縁体

僕の目覚まし時計は猫の鳴き声がする
今日も猫の声をききつけて
二階で寝ている姉が階下へ降りていくと
すでに僕は死んでいた
持っている中でいちばんいいパジャマを着てた

とりすました顔で花輪の文字を読んでいた
読めないはずの漢字も今日は読めたので
世界が思い通りになった気がした


  日常から剥がれ落ちる瞬間の気持ちを大事にしたいという作者の願いがことの他よく聞き取
れる作品だなと思う。どんな賑やかな人でも、人の輪からそっと離れて、独りになって気まま
な空想に耽りたいと考える時があるだろう。いわゆる「孤独癖」、社会的な自分から離れた自
由な存在としての自分を遊びたいという願望は誰の心の中にもあるだろう。しかし、社会生活
・家庭生活を送らざるを得ない人間という動物は、そうした空想を「空言」として自ら笑い飛
ばし、また集団の中に紛れていかざるを得ない。集団の中で初めて自分が自分として機能する
という考え方による自分に戻らざるを得なくなってしまうのだ。
  そして、杉澤さんの詩は、自己が社会的存在としての自己から解放される一瞬の悦びを表現
したものと言えるのではないだろうか。
  この詩の「僕」は、自分が「死」によって社会的な自己から解放されたことを素直に悦んで
いる。単なる解放ではなく、「読めないはずの漢字が今日は読めた」という一行からもわかる
ように、生前より一段高い智恵の獲得をもなし遂げている。社会的存在としての自己よりも空
想に耽る自己のほうが徳が高いというわけ。いったん、自分を巡る関係の輪を御破算にして、
最早人間でないものに成り果てた、孤独だが自由な自己。その存在性が周囲に響かせる微細な
音をマイクロフォンで拾うように言葉を配置する。このようにして作品ができあがっているの
ではないかと思われる。
  ヒューマニズムという考え方が一般化した今、そこから解放されることは容易ではない。人
間中心という考えが、個々の智恵ある存在を「人間」という名で縛ってしまう。そこから逃れ
るにはどうするか。杉澤さんはその答を詩作品によって出そうとしているように思えるのだ。


5月20日(日) この2週間ばかりモーレツに仕事が忙しく、土日はほとんど寝て過ごすという情けない 状態だった。できてまもない会社だからやらなければならない仕事が次々見つかり、どん どん割り振られてくる。それを一つも断らないばかりか、自分から進んで新たな仕事の提 案までしているのだから、ぼくも結構なお人好しだと言える。しかしそろそろセーブ゙する ことも考えないとまずいかな。業務なんてものは、ヤル人のところに集中するもんだし。 職場ではメデタイことがあった。馬場さんという社員の人に初めての赤ちゃん(女の子) が産まれたのである。彼はホームページを持っていて日記も公開しているのであるが、パパ になる心の準備でウキウキしていたことが文章のそこここに感じられて面白い。もちろん、 無事産まれてからは娘一色という感じである。で、こういうものを読んでいると、子どもと いうものは昔は女性が産むものだったけれど、今は男女が一緒に産むものになっているのだ なあと考えさせられる。つまり、子どもが産まれるのだから俺も一人前の家の主なのだ、と いうような父権的な意識が日記のどこをどう読んでも感じられなくて、愛する異性との血の つながりができることに手放しで夢中になる母性的な意識が濃厚なのである。誤解を生むと まずいのでつけ加えておくと、馬場さんという人はなよなよした人では全くなく、決断力の ある男らしい男なのである。しかし、こと子どもに対する愛情の注ぎ方に関しては、実際に おなかを痛めて産む奥さんと意識の上で非常に近い地点に立っているように思える。 政治・経済を握っているのはまだまだ男性だろうが、感性の主権は女性ががっちり握って いるのではないだろうか。もののデザインを見ても、女性向きの、柔らかさやかわいらしさ を表にだしたものが多い。サイトのデザインなどは特にそうだ。家庭内での子どもとのつき あい方も変わってくるだろう。性的役割分担の境界線も消えつつある今、母親が家に二人い る、という感じに近くなるのではないだろうか。男性が子育てや家事に荷担していくことは 当たり前になりつつある。そうなってくると、今度は社会の仕組みや倫理を教える男性的と 言われた領域に、母親が積極的に入っていかなければならなくなるんだろうな。 ともあれ、おめでとうございます。 昨日、佐藤真監督のドキュメンタリー映画「SELF & OTHERS」を観た。夭折した写真家、牛 腸茂雄を対象としたものだ。彼自身の動いている映像はもちろんごく少ないので、彼の残し た写真作品、映像作品、彼が書いた手紙の朗読が主な素材となっている。相当に自意識の強い、 また抽象志向の強い芸術家であったことがわかる。派手な対象は一切撮らないかわり、ターゲ ットにしたものにはものすごい拘りを持って向かっていたようだ。一見、穏やかで微笑ましく もある、引いた感じなのだが、よく見ると、風景の体の奥に手を突っ込んで内臓を掴み出す、 というようなグロテスクさを秘めた表現なのだ。佐藤真はそこのところを微妙に意識していた ように思える。何でもないものを何でもなく撮っていかに異常≠表出させるか。映画終了 後に、佐藤真、ホンマタカシ、島尾マホによるトークショーがあったが、そこで佐藤は、牛腸 茂雄は自分の写真のモデルとなった人間に執着することがあって、撮影後も会いたがったり、 モデルに会いたいがために何と撮った写真を町内に貼り出して自分のところに会いにくるよう に求めたという話を披露。ならば、そうした性格の異常な部分をもっと強調してもよかったの ではないか。
5月4日(金) 5月恒例の実験映画の祭典「イメージフォーラム・フェスティバル」が開催中だ。 毎年楽しみにしているが、今年も既に4本のプログラムを見た。 昨日見たBプログラムの中では鈴木志郎康さんの「極私的にEBIZUKA」が面白かった。 「EBIZUKA」というのは、彫刻家の海老塚耕一氏のことで、志郎康さんの勤務先と同じ 多摩美で教員を勤められているそうだ。志郎康さんは海老塚氏の作品と思想に興味を 抱き、約1年もおつきあいしつつ映像を撮りためていったのだという。 海老塚氏の作品は、鉄などの比較的硬い素材に加工を施し、そのまま自然の中に放 置し、時の力によって素材が変化するに任せるというものだ。この「素材の変化」に は、錆つき、摩耗、破損など、日常の意識ではマイナスの価値を持つとされることが 含まれる。海老塚氏の作品は、厳めしい美術館の中で文化的価値を持ったり、ギャラ リーの中で資産的価値を持ったりする美術品≠ニ逆のベクトルを指向している。「 内面のお話」や「物語以前」などの近作において、作家の内面が作品を支配しきって しまうことに疑義を呈していた志郎康さんが共感を抱くのも当然だと言えるだろう。 海老塚氏の作品は都市で安置されるとは限らない。志郎康さんは海老塚氏の作品が 放置≠ウれている瀬戸内海近辺の小島にまで出かけていき、それらの映像を映しなが ら、芸術に対する考えをナレーションしていく。 多摩美の演劇・映画学科の学生に板の単純なフロッタージュ(元になる素材の上に 紙を置き、鉛筆などでその形を擦り出す)をやらせ、主観を入れない表現、自分の外 にある自然の姿が滲み出るだけの表現を教えていく姿を撮った最初のシーンからして 印象的だ。表現というと、何がなんでも自分を全面に出さなければならない、という 先入観を解きほぐし、今まで見えなかったものを見せていく通路を作り上げることが 表現なのだという基本≠ノ帰ることを教えるのだ。自我などは、大きく見れば自然 の一形態に過ぎない。それに囚われず、まず周囲の自然のあり方を見てみよう、とい うことなのだ。芸術家としての自我の育て方ではなく、逆に肥大した自我意識を除去 することを教育する。多くの詩人には耳の痛い話ではないかと思う。 瀬戸内海の小島の海岸に無造作に置かれた鉄の作品は、一見とても美術品には思え ない。近所の人が海老塚氏の作品の上に乗って釣りの足場にしたりしているのである。 錆も出ているし、鳥のフンなどもこびりついている。その風化作用が、気に止めさえ すれば誰の目にも明らかになる「通路」を作ること、自分が語るのでなく、鉄なら鉄 という素材に語らせていく「通路」を作ること−−刺激された志郎康さんが、手持ち のDVカメラを回しながら、作品の上に乗っかった周りを歩きまわったりして、「通 路」を潜り抜けていく様を視点の移動によって見せていくのが面白い。 辺境といっていいような土地に無造作といっていい置かれ方をされた芸術作品(ほ とんど人も通らない場所に、更に通ったとしても芸術作品とは気づかれないかもしれ ない置き方がされている)が、芸術としての確かな機能を果たしていることを示した 上で、芸術とは何だろうと改めて問い掛けてくる志郎康さんは、商業主義と文化主義 という現代芸術が立っている二つの大きな基盤を双方とも批判しているように思える。 意味というものに関わらずにはいられない詩の書き手として、物言わない自然を相手 にしている海老塚氏のことを羨ましく思ってしまうが、逆に考えてみると、意識という ものだって自然の一形態なのである。作者が自分自身の言語意識を自己の所有物とは 思わずに、自然の生成物だと突き放して考えることができれば、海老塚氏の彫刻に近い 位相で詩作ができるのではないだろか。一つの意識が別の意識の中に転がり込み育って いくための通路としての詩作品。すると問題は、その過程に侵入する余計な混ざり物( たくさんの人に読まれるほど「いい」とか、文化価値を持つことが「いい」とかいう) をいかに除去するかということになろう。これがなかなか難しいのだけど。人に媚び もしなければ拒否もしない、自立した「通路」であるものとしての言語芸術、なんて かっこいいなあと思う。 手持ちカメラが映し出す視点の自在な移動は生き生きしてとてもよかった。作者が海 老塚作品を鑑賞するというよりは、「体験」しているのだなあと感じさせられた。ただ、 ぼくは自律神経というものが余り頑丈でないので、ああいう視点が激しく動く映像を見 ると船酔いにかかったように気分が悪くなってしまうのだ。普通の自動車でのドライブ というのも苦手なくらいで。情けないったらありゃしない。