2001年6月

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6月30日(土)

  実験アニメ映画の特集「新世紀アートアニメーション」を観に中野武蔵野ホール
へ行った。日本の若い非商業アニメーターたちの作品を集めた特集、目玉は、イメ
ージフォーラムフェスティバルで特別賞を受賞したことのある岩井天志の新作「玉
蟲少年」だ。前作「独身者の機械」は、手術を受ける双子の姉妹の姿を寓意的に描
いた、抽象的で難解ながらも作者の内面の痛みを感じさせるすばらしい人形アニメ
だった。今回の「玉蟲少年」はより平易な内容。時計の中に組み入れるとその原動
力になるという「時計虫」を探しにいった少年が迷い込んだ先が、実は「時計虫」の
体内だった、というメルヘン的な設定。高画質のデジカメで一コマ一コマ撮影し、
35ミリの映像にレコーディングする「世界初」の方法で製作されたもの、らしいが、
確かに映像は実に鮮烈だ。美術の小濱伸二が製作したセットは、まるで生き物のよ
うな有機的な複雑さに満ちていて、時計虫の体内の様子など、角度によって風景が
余りに一変するので、全体像が掴みきれない程だ。
  ただ、面白くはあったけれど、物語自体には前作のような鋭さが欠けているように
思った。「少年時代の思い出のノスタルジー」という意味合いに作品の内容が結構簡
単にまとまってしまっているのだ。シーンの流れがスムーズすぎる。迷い込んだ少年
の心の時々の傾きに従って、一場面一場面がもっと普通でない、不整合ぎりぎりのつ
なぎ方をするべきではなかったか。また、前作では物語の枠を使って物語られている
こと以上の、作者の欲望とか焦燥とかを暗示する表現の暴力性を感じさせるところま
でいっていたが、今回のものは映像が通常の物語の枠に収まってしまっているように
思えた。もちろん水準以上の作品なのだが期待している人なだけに少しガッカリした。
主人公を型通りの純な少年≠ネんかにしてはいけない、生きている不純≠ネ存在
としてのダイナミズムを出さなければ…。スポンサーがいろいろついて製作された映
画らしいなので、自己表現の方はやや抑え目にせざるを得なかったのかもしれない。
  他のアニメーターの作品も楽しかったのだが、どれも物語が弱い。社会が複雑化し
てヒーローが成り立ちにくい時代にどう物語を作るかは、全てのジャンルのアーティ
ストが真剣に考えなくてはいけないことなのではないだろうか。

  詩人の野村尚志さんから小詩集「窓の西空」をいただいた。お母様が癌で亡くなら
れる前後のことを綴っている。お母さんの様子、自分の心の様子、室内室外の様子が
ひたすらきめ細かく書かれている。余計なものが何一つ書かれていないので、澄んだ
感情のシーツに包まれたような気持ちになる。
  
「薬で延命させてるんや、顔があかくむくれてるやろ。副作用や」「選択のもんだい
やな」「なんの選択や」「終わらせかたのや」、わたしがそういって父親はなにもい
わなくなった。終わらせかたの選択、わたしがそういって。なにか作品のようにいっ
てしまって。終わらせかたの問題なんて。すこしでも長く生きていてほしい。でも本
人がすこしでも苦しまないように、すこしでも、比較的にでもしあわせな気持ちのま
ま、終わったほうがいいと思う。そう父親もたぶん思っているだろうが、わたしがそ
れをさらりと口にできたのは、わたしが遠くはなれて暮らしていて、月にいちど帰っ
てくるということだからだろうか。終わらせかたの選択。作品のようにいってしまって。
                                       (「作品のようにいってしまって」より)

  
  こういうものを作品のように批評なんてしてはいけないのかもしれないのだが、自
分が母の死について関わっている事柄を何一つ逃さないで書く、という詩人根性を感
じてしまう。「作品のようにいってしまった」自分に対する責めまでもがこうしてき
ちんと文字に残されることになるのだ。

  あっ、そうだ。来週から今アルバイトしている会社(オンライン書店)の社員にな
ることになりました。昨年の9月末に会社をやめて、一年は何もせず遊んで暮らそう
と考えていたのに、1月からこのオンライン書店でアルバイトすることになり途端に
めちゃくちゃ忙しくなり、遂に就職。当初の優雅な計画はおじゃんになってしまっ
て、おめでたいんだか情けないんだか、よくわかりません。とりあえず頑張ります。


6月24日(日) ゴダールの初期の映画『はなればなれに』を観に、吉祥寺のJAV50に行った。大金 を狙うチンピラの男二人と金の隠された家の娘(アンナ・カリーナ)との関係を追 った話で、アメリカB級映画を脱構築したスタイルの作品だが、感性の初々しさと 攻撃的なまでの戦略性がミックスされたいい映画だった。ルグランのジャズも気持 ちいい。映像の中で虚構の生を精一杯生きている登場人物のピチピチした動作の魅 力と、それでもこれはあくまで虚構の空間なのだということを観客に意識させるナ レーションや編集の意地悪さの魅力。理屈が先に立つ最近のゴダール映画にはない 良さがあるなと思った。 ところで、吉祥寺には本当に久しぶりに出かけたのだけど、改めていい街だと思 った。おシャレな食べ物屋さん、小物屋さんは健在だし、井の頭公園にはストリー トミュージシャンや大道芸人が溢れている。この年になるとちょっと照れくさいの だが、小物屋さん(特にアジア系の)を一軒一軒見て回るということをしてみた。 珍しい模様やデザインのお皿とか置物とか楽器とか、こういう役に立たないけれど キラキラしたモノたちというものが、ぼくは実は大好きなのだ(何も買わなかった けどね)。これらは、モノ自体というより、そうしたモノを楽しむための小さなキ ラキラした時間の欠片なのだ。そして小物が商売になるということは、街全体に流 れる時間がゆるくできている、ということではないだろうか。時間を自分のために いくらでも使い流してよし、という雰囲気がここにはあって、いつか住んでみたい ものだなあと思わせる。確か、大島弓子が吉祥寺の住人で、この街を死ぬほど愛し てる、みたいなことを書いていたことがあった。 しかし、よく歩いてみると多少の窮屈さも目につく。街は遊びっぽい造り≠ していてそれはそれでいいのだが、空間が有効活用されすぎなのだ。どこもかしこ も「店」だらけで、資本の手が何らかの形で入っている。何もしないでぽかーとし ていられる場所が意外と少ない。井の頭公園も、元々それほど広くない場所なのに 遊び道具を詰め込みすぎという感じがする。 もうちょっと隙があった方がよくはないかなあ。人気の少ない小さな広場のよう な空間が欲しくなる。そうするとホームレスが住みつくからダメ? 別に住んでても いいと思うけど。全員が資本主義社会に参加しなくていいと思うし。 ぼくが育った神奈川県の伊勢原市という街は、魅力的な店も文化施設もまるでな いところだけれど、まさにその「何もない空間」だけはふんだんにあった。東京に いてたまに少年時代のことを考えたりする時、あの「何もなさ」が妙に魅力的に懐 かしく思い出されてくるから不思議だ。突出して「あった」出来事でなく、「ない」 こと自体の方を懐かしく思うわけですね。
6月16日(土) 例によって週末はたまった疲れのせいで何もする気になれず、昼寝ばかりして過 ごした。出版労連のシンポジウムに会社の上司が出るので是非足を運ぼうと思って いたのだが、何と寝過ごしてしまい(起きたら午後1時だった)、ガックリきてそ のまま寝直すということをしたのだった。夕方になってちょっと元気が出てきたの で、トランペットの練習をし、贈られてきた松籟社の『文学部をめぐる病』(高田 里恵子)を読んだ(戦前・戦中の大学文学部と教養主義的思潮及びナチズムとの関 係を考察した面白い本。フェミニズムの視点が光る)。 平日の睡眠不足と休日の寝過ぎのアンバランスさはどう考えても不健全。反省し よう。 小泉内閣のメルマガ発行が今週から始まった。初回ということもあってか挨拶文 のようなどうってことのない内容だったが、自分は「24時間公人」だと書いてあ って、大変だなぁと思った。どこへ行くにも付き人がつき、注目されるの窮屈さを 楽しげな口調で書いている。人間には誰でも出たがりだったり目立ちたがりだった りの面があるのだろうが、政治家はそういう性格を職能資格として持っていなけれ ばならないのだろう。自分が「変人」として通っていて、それがチャームポイント として機能していることを充分に自覚している。 ぼくは政治には無知だが、小泉首相には以前から好意は持っていた。郵便の民営 化のような現状から考えれば気の遠くなる改革を熱心に提起していた姿(今でもその 考えを曲げていない)には強い印象を与えられた。もちろん、自民党という与党の 中核に居続けた人だから立ち回りの下手な人ではないのだが、しかし、多分本質的 に打算の少ない人なのだろう。自分のやりたいことを優先させる意志が一貫してい る点において、今までの自民党の首相とはだいぶ違うなと思わせる。国民と直接対 話をしようとする姿勢も新鮮だ。 ただ、このようなメルマガを発行するなら、今後は口当たりのいい挨拶みたいな 文章ではなく、多少複雑な議論でも臆せず展開してほしいものだと思う。靖国参拝 とか公共事業や税の問題について本音の部分を聞かせてもらいたいものだ。その上 で国民からの反論にも耳を傾けて欲しいし、考えの修正も柔軟に行って欲しい。メ ルマガによって考えを国民に伝えるだけでなく、国民の声を聞く媒介としてメルマ ガを使って欲しい。信念を持つことはすばらしいことだが、社会は複雑化している のだし、何事も一人の考えでは決められる時代ではないと思う。リーダーは口より も耳の人でいて欲しいなあ。 水曜日のことだけれど、野田秀樹の「贋作・桜の森の満開の下」(新国立劇場) を観に行った。久しぶりの野田演劇。学生時代から社会人になりたてくらいの頃に、 ぼくは解散した「夢の遊眠社」の大ファンだった。演劇というものはある一定の長 さの連続した時間軸にそって進行していくものだが、野田の演劇は場面や登場人物 をめまぐるしく交錯させることにより、時間の非連続性を打ち立てようとするもの に思われた。観客の目の前にある現実の舞台という動かない空間に、意味よりもイ メージを重視した台詞によって互いに不整合な複数の概念を投入する。目の前の舞 台空間が、非連続的な記号に絶えず襲撃され、侵食され、イマジネーションのデジ タルな点滅の場に化していく。その変化を生き抜いていく存在の理想像を若い野田 は「少年」という不変の記号で表わしていた。彼の昔の作品のキーワードといって いい「少年」というのは、決して成熟せず絶えず変化することを不変のアイデンテ ィティとして持つというユニークな概念で、ぼくは全くイカレてしまっていた。 今回、ほぼ10年ぶりに観たこの芝居には「少年」的存在が登場しない。皆、そ れなりの歴史やドラマを背負った「連続的な」生を生きている。古来からの聖性を 背負った種族と国家との闘争が、道徳を知らない無邪気で残酷な姫と姫に恋しなが ら道徳を捨て切れない青年・耳男の関係に重ね合わされる。舞台はとても華麗でめ まぐるしく変化し、決して観客を飽きさせることはない。が、作品の底に敷かれた 「国家論」に各場面が収斂されていくようで、食い足りなさを覚えてしまう。舞台 なんて別に少しくらい「退屈」であってもいいのじゃないか、サービスばかり考え るよりも、また「思想」を深めるよりも、それぞれのシーンがそれ自体で複雑な生 を呼吸することを優先させてやったほうがいいのではないか。演技は皆達者ですば らしかった(野田自身の演技がやはり最高にうまい)。 今回の野田秀樹の新作を観て、「小演劇スタイル」とでも言える一つの演技の型 が完成の域にまで成熟したのだなと思わされた。身のこなしや発声が皆ある一定の 手順を踏んで習得され、洗練されているのを感じる。「小演劇」が、新国立劇場の ような「大劇場」で上演される時代になった、それはめでたいことかもしれないけ れど、淋しいことでもあるな、と思った。
6月11日(月) 先週は日本サッカーの快進撃と大阪の児童殺傷事件の話題に明け暮れた週だった。 サッカーは、ここ2,3年のうちに本当に強くなったな、という感じ。選手の顔つき が以前に比べて変わってきて、何より外国の強敵に対して物怖じする顔を見せなくな った。ボーズ頭を強いられる甲子園出身者だらけの野球選手のどこか暗そうな表情と は大違いだ。攻めつつ守る、各自のポジションの流動的なこのスポーツでは、感情や 野心を剥き出しにして自分の「自由度」を最大活用できる人間でなければ上に行けな いのではないか。ぶちキレる部分を意識的に養っていくことが必要になるだろう。若 い選手ほどキレるのがうまい感じがする。そう言えば、ぼくもジャズの演奏をする時 は意識のテンションを昂ぶらせて攻撃性を剥き出しにする瞬間を必ず作るなあ。 ともあれ、準優勝は立派だ。 大坂の児童殺傷事件は悲惨な事件だった。8人もの小学生を殺してしまった犯人は 精神病院を行ったり来たりの人間らしく、「死にたかったが死にきれなかった。死刑 にしてほしい」などと供述したということだ。何でこんな危険な人間が野放しにされ ていたのか。怒りがこみあげてくる。同時に、遺族の方々が気の毒でならない。 しかし、こういう残忍な行為も、人間性というものに深く根差したものなのだろう。 彼は、自分自身が自分の意識にとって不適合な存在なのだという考えに囚われて苦悩 したに違いない。自分が「いる」こと自体が即、自分にとって苦痛の源泉になってしま う−こういう精神状態が現実に存在することを認めなくてはならない。心理学には明る くないので詳しいことは言えないが、自己同一性障害というものに相当するのだろうか。 自己同一性というものは、自然に人間存在の中に備わっているものではなく、刹那刹那 に獲得されて在るもので、自己は絶えず更新されていて、たまたまそれが連続して見え るようになっているのではないだろうか。自己を更新していく装置が壊れてしまった時、 意識にとって自分の存在が意識自身にとっての異物であり、意識を襲ってくる攻撃的な 存在に思われたのではないだろうか。その攻撃性を児童に転化させて意識と自我の不整 合を一時忘れようとしたのが彼の行為だったのではないだろうか。児童を刺している最 中、容疑者は無表情であったという。「自分が行為している」という感覚を失っていた のではないかと想像してしまう。 ぼくの詩の中には、アイデンティティを失ったような、自分が自分の行為の主人にな れていないような人物がしばしば登場する。彼らはおおむね無邪気であるが、時に平気 で殺戮の行為に従事する。ぼく自身はもちろん残忍な行為に手を染めるつもりはないが、 しかし、こうした意識の様態が存在することに目をそむけたくはない。 今日は、馬場さんという社員の人の娘さんの誕生を祝って会社の人たちで焼き肉を食 べに行った。とても楽しかった。焼き肉というと、どうしてみんなこんなに張り切って 食べるのだろうか。自分たちで焼くという行為性が、食べるための励みになっているの だろうか、と自分もパクつきながら考えた。西郷さんというアルバイトの女の子が、店 のBGMに合せて絶えず鼻歌を歌っていたのが面白かった。ミーシャの歌がお気に入り なんだとのこと。焼き肉の席というのは奇妙な開放感をもたらすものらしい。 ほんとはぼくは焼き肉というのはちょっとだけ苦手なんだけどね。食べてる時はいい けど、胃もたれしてしまうんだな。 この間、37歳になったことが話題にされ、あっと思った。生きていれば歳は取ります よね。けど、一番新しい自分というのは常に、今ここにいる自分なわけですね。
6月4日(月) 昨日江古田のBuddyという店でサルサのライブをやった。お客さんは40名弱といった 感じだったが、よくノッてくれて楽しかった。前にも書いたことがあるけれど、ラテン 音楽を聞きにくるお客さんは皆「参加」型。演奏家と客が同一平面上で「楽しさ」を共 同して作り上げるというところがいい。クラシックでもロックでも、聞きにくる側が丁 度アーティストを崇めるような、上下の力関係が働いてしまうが、そういうことが全く ないのがラテンのいいところ。アンコールを3曲もやってしまったのだった。次回の出 演は7/22(日)渋谷クロコダイルですので、お暇な方はどうぞ。 そう言えば以前、赤坂プリンスホテルで年末のディナーショーに出演したことがあっ たが、何とぼくらのバンドの直前に世界的なレベルのアルゼンチン・タンゴのバンドが 出たのだった! 今思い出しても冷や汗モノの出来事で、出演前のぼくたちは神業のよ うな優雅なタンゴの演奏に青ざめた顔を見合わすばかりだった。しかし、いざ自分たち の演奏が始まると、お客さんは結構楽しそうに踊ってくれて、しかもそのタンゴ・バンド のメンバーの人たちも演奏のレベルの差など気にせず、ホールでやはり楽しそうに踊っ てくれたのには感激する他なかった。プロとアマの違いは技術の面でも突き詰め方の点で ももちろん厳然としてあるのであるが、音を楽しむという点ではプロもアマも差はない と言えると思う。「歌い、踊る」ことが日常生活の重要なファクターとして認知されて いるラテン・アメリカの民族の音楽においては(残念ながら日本はそうなりきってはい ない)、プロでもアマでも音楽を楽しむことは即、音楽に参加することなのではないだ ろうか。 今、オンライン書店ではアソシエイト・プログラムというものが流行っている。オン ライン書店が個人や企業のサイトと提携し、顧客のサイトを通じて売上を得ると同時に、 顧客には売上に応じたバックマージンを与える、というもの。アマゾン、bk1などの大手 は販路の拡大のために熱心に進めている。イーエスブックスに至っては、イーエスのサ イトの中に「みんなの書店」というコーナーを作り、入ってきた人誰でもが、そこで自分 の好きな本を並べられるバーチャル書店を立ち上げられるようにしている。自分のサイト を持っていない人でも簡単にユニークな「支店」をイーエスブックス内に持てるようにし たというわけ。 この顧客との提携という考え方は、単純な売上増大だけを狙って出てきたのではないだ ろう。顧客の「参加欲」を煽ることで自社の「必要性」をアピールすること。これが目指 されおり、顧客は「店員」として嬉々として働くことが期待され、事実そうなっている。 購買欲を誘う商法から参加欲を引き出す商法への移り変わり。顧客に顧客自身の「主体性」 を投影させることにより、資本は仮想された主体性を商売の対象とみなすことになる。こ れは新しい形のブランド信仰の構築と言えるのではないか。「主体的な自己」という名の ブランド。 皮相な書き方をしてしまったが、しかしぼくはこうした動きに必ずしも否定的ではない。 資本が先行しようが、(ラテン音楽のように)自然発生的なストリートが先行しようが、 人は自分の力で自分を突き動かすことに喜びを感じる存在なのではないだろうか。それが たとえ幻想に過ぎないにしても、幻想にはグレードというものが存在するのであり、自身 がこれと決めた幻想に深く関わった人と浅くしか関われない人とでは大きな差があると思 う。ぼくはいわゆる、高級品を身につけることで喜びを感じる意味での「ブランド信仰」 にも否定的ではない。質のよい品を身につける際にはそれにふさわしい身のこなしや知識 が必要であり、ブランド品を本当によく知っている人には自身を制するという意味でスト イックな努力が欠かせないだろう。 日本人は本当に変わってきたな、と実感する。人前でも、悲しい時に泣き、悔しい時に 怒る人が増えてきた。そして提供されるものを消費するよりも、自分が提供することを好 むようになってきた。日本のサッカーが、対カナダ戦、カメルーン戦と二連勝できたのも 今まで日本人が抑えてきた攻撃性の容認とでも言えそうな最近の風潮のおかげなのかもし れない。それだけに、ちょっと恐いな、と感じることも多くなった。