2001年7月

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7月22日(日)

  雑務の仕事を片づけるために自宅のパソコンに向かう。このところまとまった
自由時間を取ることができないので気晴らしにまたCDを買ってしまった。クラ
シックばかりを3枚、ポリーニの弾くシューマン「交響的練習曲/アラベスク」
と、中世音楽の集団・セクエンティアの「聖書のヴィジョン」、井上郷子の弾く
「近藤譲ピアノ作品集」。
  近藤譲の作品がまたしても刺激的だった。この人の作品に初めて出会ったのは
ぼくが高校生の時で、FMの「現代の音楽」という番組の彼の特集を聞き、強い
印象を与えられたのだった。ちょっと聞いた感じでは、いやにスカスカしたサウ
ンドのいわゆるゲンダイ音楽なのであるが、注意深く耳を傾けてみると、音楽の
中核に「音」だけがある、という極めてユニークな音楽なのだ。普通、専門家が
作る音楽というのは「曲」のことだ。それは鳴り響く音響よりも作曲者が綿密に
組み立てた「構造」に重点が置かれている。作曲者個人の世界観をなぞるように
「曲」が構成され、聴衆は「曲」から世界観を解読する作業を強いられることと
なる。近藤の音楽はその全く逆で、近藤にとって「曲」は「音」一つ一つを聞か
せるための器にすぎないかのようなのだ。調性と無調性を行ったり来たりするよ
うな比較的単純なメロディラインを、わざと非効率的に鳴るように配置された「
音」がなぞっていく。「音」各々にその独自性を主張させるため、わざと「音」
を空間にバラ撒いているのだろう(充実した和音などを響かせて、「曲」の劇的
な「山場」などを感じさせないように注意を払っている)。こういう作曲法は、
伝統的なクラシックの作曲の多分逆のやり方だ。「作曲者」→「曲」→「音」の
順ではなく、「音」→「曲」→「作曲者」の順で音楽が成立しているとみるべき
ではないだろうか。ぼくが聞いた近藤の音楽の多くは合奏の曲で、独奏の曲は余
り聞いたことがなかった。様々な音色の「音」による合奏の方が、「音」各々の
独自性を際立たせるのに有効だからであることは想像がつく。が、今回、ピアノ
ソロの曲を聞いてみて、「音」が隣り合う「音」との緊張した関係において、そ
の一回きりの生命を燃焼させては消滅していくという基本的な構図が手に取るよ
うにわかるようだった。多彩ではないピアノの音が、タッチ一回につき一度の「
音」の命を預かっている、というふうに聞こえたのだ。
  こういう音楽は、「音」自体を個人を超えた霊的なものとみなす立場、「音」が
ある神秘的な領域を暗示・表現するではなく「音」が存在すること自体が一つの神
秘を形成するとみなす立場、から生まれてくるように思える。音楽が鳴り響く間、
あたかも個々の「音」が聴く人に対して主体性を持つことが仮想されているかのよ
うだ。人間の生活が「音」に反映されるのでなく、「音」の生活が仮想され人の前
に提示される。個人主義が徹底された挙句、個人自身にとって個人の存在の不安定
性が自覚され、その救いを個人の外部にある「音」に求めた、とも考えられる。一
種の宗教音楽とも言えなくもないと思うのだ。
  ポリーニのシューマンは爽快。セクエンティアは気持ちよく聞けたけど、中世の
音楽ってほんとはもっとアジアっぽい要素を残してたんじゃないかなあとも思った。

 てなことを書いたが、今日はサルサのライブをやったばかりで今いささか疲れてい
るところ。1ステージめを務めていただいた大阪のバンドはサービス過剰のパフォー
マンスで目が回るようだったけど、大阪らしくていんじゃない?と思った。晩メシに
バンドのメンバーと行ったしゃぶしゃぶ食べ放題の店、肉は悪くなかったけど最後は
少し飽きてきたなあ。中盤以降は野菜と豆腐ばかり食べていました。肉が昔ほど好き
じゃなくなってきたのは歳のせいでしょうか? ポン酢でいただく野菜はうまい。実は
すき焼きも、肉そのものより肉の味が染み込んだねぎの方が好きだったりするのだ。


7月15日(日) 昨日は休日出勤して職場のレイアウト替えの作業に参加した。他部署も交えた配 置替えだったのでかなり手間がかかった。しかし、何ですね。席替えというのはい つになっても好きになれませんね。どこに誰が座ったっていいじゃない、と考えて しまう。同じ席順だとマンネリになるとか、この人とこの人は隣り合った方がいい とか、どうもピンと来ない。手間はかけない方がいいなあ、と思うばかりで。こう いうことに感覚が働かないのは会社員としてはイカンことなのでしょうね。 今日、赤坂の東京写真文化館に行ってきた。女性の裸を撮り続ける作家ジョック・ スタージェスの個展も見たが、目当ては5Fの貸し出しスペース「STAGE」で催されて いる「STAGE4人展」。ここは、4Fが内外の有名作家の企画展のスペースになってお り、5Fが若手中心の貸し出しスペースになっている。企画展は緻密に構成されていて 毎回充実した内容なのだが、刺激という点では圧倒的に5Fの方。若い人の、完成され ていないけど新しい試みでいっぱいの作品群にはいつも教えられることが多い。学生 のグループ展もよく行われるが、「こんなこと考えてるの?」というような作品に出 会えることがあって、気になって時々覗きに行く。 さて、今回の「4人展」は、白井綾、辰巳卓也、サイトウノリコ、篠原俊之という、 若いながらも経験を積んだ写真家たちの作品なので、期待してみた。 白井綾の作品は友人に「好きな場所」を指定させ、好きなポーズを取らせて、ピンホ ールカメラで撮ったもの。友人たちの気取らない一言コメントも載せている。長い露出 の時間の間に動いたりするとそれがブレとして映像に定着する。撮影者−友人−彼らの 思い入れといった「人間的」な要素と、思い入れとは別個に場所が風景として存在する 「場所的」な要素と、それらを写すピンホールカメラの「光学的」な要素がぶつかり合 う軽い衝撃を楽しむ。これら3つの要素は単独では日常性を離れないが、白井はこれら 互いに異質な要素が偶然一つの作品の上で共存していることの危うさを見る者に注意さ せることにより、微かな非日常性を現出させようとしたのだと言えるだろう。 辰巳卓也は入れ墨をした人の肌をテーマに据えて撮っている。入れ墨と言っても、今 流行りの洒落たタトゥーというような軽いものではなく、江戸時代からの伝統を受け継い だ本格的な「入れ墨師の入れ墨」だ。入れ墨の鬼の恐ろしい形相にギクッとさせられる。 こういう写真を撮る場合、入れ墨師と、それ以上に入れ墨された肌の持ち主と、深い人間 的な信頼関係を結ばなくてはならないだろう。これらの写真を撮るために何度頭を下げた ことだろう。大変だっただろうな、と想像する。その、人と対峙する緊張感が作品に漲 っている。入れ墨を施すに至る人の情念というようなものまで語られている気がする。そ してその情念は、江戸まで溯るものなのだ。肌を通じて歴史に滑り込む旅だとも言える。 サイトウノリコは独自な風景写真を撮ることで話題になり始めている俊英。今回は光の様 々な表われ方に自己の心情を対峙させるという感じだ。光といっても、メリーゴーラウン ドのギラギラした人工的な光、夕暮れの陽の落ち着いた光、影によって存在が逆算される 昼間の日光など様々だ。物言わない光の眼差しに畏敬を覚えるかのような撮影者の心の状態 が透かされるような作品。4人の中で最も主情的な表現であり、準・言語的な段階の地点に まで写真を追い込んでいる。草原に光が差し込む写真などは、まるで宗教画のようだ。 篠原俊之は写真文化館のディレクターも勤めている人。表現写真の普及ということに対 して、今後重要な人になるんじゃないかと睨んでいる。今回は、彼が育った巣鴨の風景を 撮っている。会場の説明では祖母のことや近所の人たちとの関わりを語っていて、下町の ほのぼのした風情が写されていることを期待させるが、作品を見るとどうもそう単純では ない。巣鴨を、住んでいる人の目から撮るのではなく、外国人のような目、というより偶 然地球に降り立った異星人のような目で撮っているのだ。撮られている対象は、いかにも 下町的なおかし屋、果物屋、下駄屋の店先であったり、安食堂のメニューであったりする。 実に素朴な風情を感じさせるものばかりだ。だがそれらが奇妙に明るく、薄く、重量を感 じさせないような感覚で撮られている。アンビエント系の電子音楽を作る感覚で、巣鴨を 捉えている、としかいいようがない。彼は若いと言っても「土地の人」であるのに、その 住環境を撮るに際して全く外側からの視点を想定し、彼自身の内面からはスッパリ切り離 してみせた。文字どおりの離れ業と言うべきではないのか。 写真は絵画と違って観念の世界ではなく、光学装置を通じた物理的現実の世界を提示す る。しかし、だからこそ現実だと思っていたものが思っていたような現実ではないことに 気づかされるのだ。その時、頭がクラクラしてしまうような観念の酔い≠体験してし まう。 この酔い≠フ快感を、言葉によって感じさせることはできないか、と考える。詩が写 真から学べるものは思いのほか多いのではないかなあ。
7月7日(土) 社員になったところで今までに輪をかけて忙しくなり、今日は4,5時間ほど出社して 溜まっていた雑務を片づけた。やれやれ、前の会社と同じパターン。まあ仕方ないけど。 九時に会社を出て中華屋さんでマーボー丼を食べたあと、渋谷のタワーレコードによって 4枚のCDを買った。ユーロ・ジャズを2枚、クリス・ケース「A Song We Once Knew」と ヤン・ガルバレク「Eventry」、アンビエントを2枚、ブライアン・イーノ「DRAWN FROM LI FE」とZOFFI「ZOFFI」。飛び抜けた収穫があったわけではなかったが、いずれも気持ちよく 聞けて満足した。ついついヒーリング系のサウンドに傾いてしまうのは疲れている証拠? ではなくて、最近の上質なヒーリング系音楽のサウンドには何かざらっとした複雑な重さが 隠されているからだ。きれいなサウンドやメロディの底に、何かしら「きれいさ」に抗う要 素が込められていてつまり棘があって、耳を飽きさせない。 音楽は静かに進化し続けている。いつのまにか電子音でこんなに有機的な味わいが出せる ようになっている。またリズムが単純なビートから解放されるようになってきている。五線 譜の寿命はあとどのくらいなんだろう、とふと考えることがある。録音機器がもっと発達す れば、抽象的なピッチや音の長さを示す記号よりも、具体的な響く「音」を単位に曲が作ら れていくことになるのではないだろうか。そうなった時に8小節を単位とするメロディー構 成法は存続できるのか、リズム・セクションにベースとドラムが必要とされ続けるのか。 10年後にバーで流れる音楽を想像してみることは楽しい。