2001年8月

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8月26日(日)
  涼しい。夏ってこんなに涼しくてよかったんだっけ? という日々が続く。
子どもの頃、家にクーラーがなかったので夏は扇風機だけで過ごしたものだ。
暑くてしょうがないと感じることもあったが、耐えられないということはな
かった。伊勢原にある実家は高台にあって、結構涼しい風が窓から入ってく
る。寝間着をはだけておなかを出して寝るというのが夏の夜のスタイルでし
たね(小さい頃は親に叱られましたけどね)。今、クーラーを入れた生活に
浸っていると、クーラーをつけてないと何だか物足らない気分になってくる。
ここ数日涼しいのに、無意識のうちにクーラーをガンガンかけてしまい、体
調が悪くなるくらい部屋を冷やしてしまう。肌に突き刺さってくるような冷
気を意識が快い刺激≠ニして受け止めているのかもしれない。こと気温に
対する感覚に関しては、子どもの頃に戻りたいな、と思うことがある。

 今日、サルサバンドの練習に行き、スタジオの休憩室に日刊ゲンダイが置い
てあったので何気なく目を通したら笑える記事があった。女子高生を中心とす
る「狂乱女」という名の暴走族グループが、脱退しようとした仲間をリンチに
かけて補導されたという事件だが、そのグループは厳しい「掟」をメンバーに
課しており、リンチを受けた者はその「掟」の厳しさに音をあげてやめようと
したのだという。その「掟」の内容とは、1.大声で挨拶すること 2.学校を休ま
ないこと 3.飲酒しないこと 4.地元のヤクザに迷惑をかけないこと 5.暴走族の
男と付き合わないこと など。余りにマジメな内容で、補導した警察官も思わず
苦笑したというが、彼女らはこれらを律義に守って行動していたらしい。
  規則を作って団結を図ろうとしたのはよいけれど、集団行動の苦手なリーダー
格たちの頭に浮かんできたのは小学生以来親や先生から教えられてきたような
「よい子の決まり事」のようなものしかなかった、ということか。当人たちに
してみれば「ハメははずすが最低限よい子≠ナあることの条件は満たす」こと
が誇りであったのではないだろうか。よい子≠ネんて空疎な概念で、ちょっと
ならお酒くらい飲んだってかまやしないし、学校をサボるくらいたいしたことじ
ゃないよ、と肩を叩いて教えてやりたくなる。笑える話だが、「世間の常識」に
対する無知さ加減と無知ゆえの短絡的な一生懸命さがちょっぴり哀れでもある。
群れて遊んでその中で自ずと「世間知」を獲得していく、という経験をすること
が難しくなってきているのかもしれない。こんな悲しくも滑稽な事件が、今後増
えていくのかもしれませんね。


8月18日(土) ここのところ実に涼しい日が続いている。まるで秋。まだ8月を10日余り 残しているというのに何だか拍子抜けした気分だ。 性懲りもなく阿佐ヶ谷ラピュタにアニメを観に行く。今日は「第2回ノルシ ュテイン大賞ノミネート作品」と「中国水墨画アニメーション名作集」を観た。 「第2回」は審査委員長ユーリ・ノルシュテインが講評で述べたように、「第 1回」を遥かに上回る出来の作品がそろっていたようだ。若いアニメーターの 感性というか、「今、生きている」という感覚を味わうことができて楽しめた。 この「錨」欄6・30分でも言及した岩井天志「玉蟲少年」もノミネートされてい てその高度な造形力でで会場のため息を誘っていたが、ぼくが個人的に好ましく 思ったのは栗原崇「HAPPY BOGEYS 1〜4」と江原一幸「elephant gym」。「HAPPY BOGEYS 1〜4」は、簡単な図形(○とか□程度の)に簡単な目鼻をつけて、様々 に展開させ運動させて、そのかわいらしい仕草で笑いを取る、というもの。「 elephant gym」は象のぬいぐるみがいかにもメルヘン風な庭でシマウマの子ども と遊び、一日の終わりにぬいぐるみを取って眠りにつく、というもの。前者では 「目鼻」という記号がいかに我々の心の奥に侵食しているかを意識化させる点で 「高度」な趣味を感じた。また作者がその「高度」に溺れず、自分も観客と一緒 になって記号がもたらす「かわいらしさ」の効果に夢中になっている点がいい。 「elephant gym」は、視野の角度を工夫し、多様化させ、徹底して「撮っている 人」が観ている視点で情景を覗く楽しみを観客に与えるという点で優れていると 思う。情景そのものはある童話的なパターンを踏襲したものだが、目に見えない 「撮っている人」に連れられて情景に参加している気分になる。 このどちらの作品も男の子が作ったものであることに改めて注目していいので はないかと思う。女の子的な「かわいらしさ」は女の子の独占販売ではなくなっ た。男の子が恥ずかしさを感じることなく、自分のものとして選択できるものと なった。このことはとても好ましいことのように思われる。 反面、不満も結構つのった。審査委員長のノルシュテインは、コンピューター の操作に夢中になる余りコンピューターの機能に作者が使われてしまっていると いうこと、作品内で人と人との交流が細密に描かれていず、基礎的なモンタージ ュができていないこと、作品空間の言葉での意味付けが足りず、物語を形成しき れていないこと、を日本の若いアニメーターの欠点として厳しく論評した。彼は 「個々に感性のきらめく部分はあるが、部分が総じて発展性を持たない」と言っ ていた。これはアニメに限らず、またもしかしたら日本にも限らない、今の芸術 表現の大問題なのではないだろうかと思う。ノルシュテイン自身は彼の幼年・少 年時代の膨大な記憶を、メルヘン的な素材を暗喩的に使いこなすことにより、表 層的な意味としては掴みづらいけれど深層の意味合いを明確に指示する方法を確 立して観客との心の交流を可能とした。伝統的な家族制度・地域共同体意識が世 界的な規模で急速に崩れ去る今、そうした方法を今の若いアニメーターが取るこ とはできない。でも、人の生活から共同体がなくなったわけではなく、(一つ一 つの存在感は淡いかもしれないが)複数の共同体に同時に足を踏み入れるスタイ ルの中で人生が進行していくようになった、というだけのことである。この生き 方の変化をしっかり形式化して経験を共有すること−ノルシュテインはとても常 識的な話をしていたと思う。審査の結果が楽しみだ。
8月16日(木) やっと一日丸々休みが取れた。一気に脱力してしまった感じで、12時まで 遅寝をした後、なお昼寝をしてしまう。夕方頃だらだら起き出して少しトラ ンペットの練習をして、阿佐ヶ谷ラピュタにアニメ映画を観に行った。 そして6時半から11時までぶっ通しで二つのプログラムを観た。一つ目は「 ユーリ・ノルシュテイン賞受賞作特集」で、前年の受賞作品を上映した(今 年のは今選考中のようだ)。残念ながら心に残るような作品がなかった。審 査委員たちの好みなのか、しんみりした叙情的な味わいの作品が多かったが、 どれも甘みがくどすぎるように思った。例えばたむらしげるの「くじらの跳躍」 は、鯨が大跳躍するという伝説的な一日を迎える老人が、少年時代・青年時代 の海に関わってきた日々を回想するというメルヘンチックな内容の作品だ。そ れが、これでもか、というくらいメルヘンタッチのイメージと音楽で飾り立て られ、途中で嫌気が差してしまった。こういう材料こそ甘さを抑えて淡々と描 いて欲しい。そうでないとメルヘン≠ェ必要になる時の心の微妙な傾きの現 実性が伝えられないのではないか。他の作品もおおむねそうで、アニメーショ ン映画の常套的な演出を使いすぎているように感じた。 二つ目のプログラムは押井守監督作品集で、「天使の卵」と「人狼」を観た。 どちらも緻密な作画が魅力的だったが、やはり若干の不満は残る。「天使の卵」 は、何かの卵を後生大事に抱いている少女とそれを狙う青年を象徴的なタッチで 描いた作品。抽象度が高く、状況設定を敢えて明らかにせず雰囲気の独自さで勝 負というところが効果をあげている。極めて美しいが、無垢の「少女」というイ メージ、「死と再生」という観念、こうした常套性に寄りかかりすぎていて、や はり「くどい」と感じさせられてしまう。少女がこんなに「少女らしく」なくて も構わないのではないかと、少しだけど興ざめしてしまうのだ。 「人狼」は、一転してリアルなタッチの作品で、安保闘争を舞台に、テロリス トあがりの女性を間に挟んだ、特別機動隊と公安との内部的な抗争を描いた作品。 昭和30年代の風景が細部に渡って驚くほど緻密に再現されている。人々のふとし た表情の描き方一つで、昭和30年代が「現代」ではないことを示唆する手際は驚 くほど。しかし、テロリストの女性と機動隊の青年との心の交流の描き方がまた も当たり前すぎという感じ。劇画調なのは結構だが、現在の劇画調でないと、こ の作品が21世紀の手前で製作された意味が弱くなってしまうのではないか。 ぼくは比較的アニメーション映画が好きなのだが、どうも最近「当たり」にぶつ からない。アニメーションは、単なる色や線が、動きを与えられてあたかも精霊 のように瞬間瞬間を鮮烈に生きることがその魅力の中心をなすのではないだろうか。 物語に沿い過ぎてしまいそうになる観客の視線を思いがけない動きで微妙に裏切る、 その裏切り方に、ぼくたちは色や線たちが「生きている」ことを実感「させられて」 感動に至るのではないだろうか。その、色や線が物語を乗り越えて、物語に抗って、 独自の生を「生きる」という瞬間の重さが、日本のアニメには足りないのではない かと少し心配になってしまったのだった。多分、色や線が常套的な物語を乗り越え て生きるには、その背後に独自な言語の生成力が必要なのであろう。
8月12日(日) 昨日はサルサの演奏をしに鎌倉の由比が浜に行った。久しぶりの鎌倉は、小道 を歩いているだけでウキウキしかけてしまうほど気持ちがいい。古都だし、海岸 も近いし、立派な観光地なのだけれど、観光客に媚びすぎない風情がいい。住ん でいる人たちが生活する権利をちゃんと主張しているかの静寂さが好きだ。さす が武士の町。。 サルサ・パーティは海の家に造られたステージ上で行われた。そこで2ステージ を務めたのだが、どこからともなく途方もない数のお客さんが現れた。数百人は いたかな。遊び慣れした大人、という感じで踊ってもくれるし盛り上げてもくれる ので(さっすが湘南地方!)楽しく演奏できたのだが、途中ハプニングがあった。 ゲストのダンス・チームが出演している最中、人が集まりすぎて床が抜けて落ちて しまったのだ。幸い怪我人はいなかった。不謹慎だが、珍しいものを見られてちょ っと得した気分。海の家ってもともとそんなに頑丈にできてないですもんね。結局 ダンスフロアは使えなくなってしまってお客さんは砂浜で踊ることになってしまっ たのだが、それでも帰る人は余りいなかった。演奏終了後に、プエルトリカンだと いう黒人の男の人に随分感激されて恐縮。考えてみれば日本人が「♪わたしはプエル トリコが大好き」なんて歌詞の曲を演奏したりするのだから嬉しいのは当たり前なん だろう。来年もまた呼んでくれないかなあ。 今日は噂のロシアSF映画「不思議惑星キン・ザ・ザ」を観に行った。SFとい っても凝った特撮などは一切ない、映画話術の巧みさだけでできているような映画 だ。故郷の星に帰りたいと街角で叫ぶ男が持っていた空間移動装置に手を触れてしま ったのがきっかけで砂漠だらけの星プリュフに来てしまった男二人の物語。ある種の 科学力に長けているとは言え、その星の住民は単なる貧民としか言いようのない生活 ぶりだ。「宇宙人」とは思えない、いかにも地球的な冴えない格好。どことなく憎め ない下衆な根性。製作者はSF映画≠ネんてものを作る気はさらさらないのだろう。 いかにもオンボロという感じの航空船も笑わせる。星の権力者たちの存在も描かれる が、文明批評的な意図は見えない。この映画が描こうとしているのは、ロシアの庶民 の人情の機微なのだろう。ちっぽけな野心、ケチな根性、強い者に対する臆病さ、と いった庶民の性癖を、そうしたものを描くのに最も不向きと考えられていたSFとい う衣をあえてまとわせて描くことにより、「庶民という存在」の典型的な姿を鮮明に 描出しようとしたものだと考えられる。日本でも戦後すぐくらいまではこういう趣き のほのぼのした庶民モノの名作映画があったけれど今はトンとお目にかかれない。何 だか懐かしいなぁという気持ちにさせられた。 ドラマでも映画でも都市生活の中での男女の恋愛が軸になっているものか、アクシ ョンが大多数を占める。人間のカッコ悪い姿を魅力的に描くことに興味を持つプロデ ューサーはいないのか。 今夜は久しぶりに美男美女の出てこない楽しい映画を観ることができて満足。 明日から世間はお盆休みに入る。ぼくも14日から16日まで一応休みを申請したけど 結局出社する日が出るだろうな。こんな期間でもなければ日頃の仕事の整理をつける ヒマはないからね。庶民はつらいです。
8月5日(日) 相変わらず忙しくて自宅に仕事を持ちかえったり休日出勤したりの日が続いた。 会社の状態を考えると仕方のないことだし、忙しいのは自分一人ではないので敢 えて不満を言うつもりはないのだが、もしかしたら今のサラリーマンたちは、戦 前のサラリーマンよりも貧しい生活を強いられているのかも、と思ったりする。 昔の会社勤めの人が毎日12時間働くことを「普通」と考えただろうか? 暇ではな かっただろうが、現在ほど時間を拘束されることはなかっただろうと感じる。もっ とのんびりしていたのではないだろうか(小津の映画のように)。今の日本人の 「普通」の感覚は多分少しおかしいのだろう。おかしいとわかっていても自分の行 う行為としてはその「おかしいこと」を遂行してしまっているわけで、きっと時間 の拘束に関しては救いようのない呪縛をかけられていると言えるのだろう。 こうした感覚は、会社同士の「出し抜き合い」の競争に自分の人生の浮き沈みを 過剰に重ね合せてしまうことから生まれるのではないかなあと思う。ぼくは学生時 代、競争原理で動く「会社」というものを嫌悪し、「会社人間」が代表するような 「男」というジェンダーの規範を嫌悪していて、その反動で少女マンガを毎日読み 耽っていた。そこには、競争社会を否定し、自己が自己の幻想の中に引き篭もるこ との美徳が描かれているように感じられたからだ。幻想とは、自分の望む事柄を時 間という軸でのみ実現させる手段であろう(そして願望の空間的な実現を、意志の 力で断念する)。幻想に耽るということは、人間の、時間に依って生きるという(本 来の、とぼくが考えるところの)姿が突出して現れることだ。それを勇気を持ってや り遂げてしまったら社会のオチコボレになるわけで、それはそれで本当はそれほど不 幸なことではないような気もするのだが、やっぱりそれは恐い。 まあ、こうした批判精神を抱きつつ、明日もおシゴトに頑張ろう、というところに 落ち着いてしまうわけですね。 今日は神奈川県の宮が瀬(厚木から車で40分ほどの山間部)で行われたミュージッ ク・フェスタにサルサバンドの一員として参加した。宮が瀬はダムの建設と引き換え に急ごしらえで観光化された土地、という感じのところで、観光地がどこか板につか ない風情がおかしい。でもなかなか景色はきれいだし、地元のお客さんは大勢来てく れたし、バーベキュー・パーティも楽しかった(材料が多すぎて肉を大量に余らせてし まった。ちょっと罪悪感)。丹沢ビールとかいう地ビールはコクがあってなかなかの味。 帰りに温泉によって、行楽としては言うこと無し、なんだが、皆満腹すぎたのがいけな かったのか演奏が雑になってしまった。猛省。来週8/11は鎌倉の由比ガ浜でライブを やるので、この失敗は繰り返さないようにしよう。それにしてもアマチュア・バンドに も関わらず演奏の機会が多いなあ。サルサってやっぱり流行ってるんだろうか。