2001年9月

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9月23日(日)

 急に涼しくなってきた。夏も完全に終わってしまったのだな。それでも外
出する時、何となく半袖の服を着ようとしてしまう。夏の盛りには暑さを呪
う言葉を始終口にするくせに実は夏好きだった、ということを意識させられ
るのは毎年今ごろの時分。

 ニューヨークの同時多発テロ事件がすごい展開になっている。確かに前代
未聞の事件で、旅客機を乗っ取ってビルに特攻するなんて誰も予想できない
やり口である。実際の人や建物のダメージ以上に、破壊の際の映像が放映さ
れて世界中の人の目と頭に「反アメリカ」のイメージが焼きつけられること
が目指されている。イメージのために無差別に人間を犠牲にすることが「戦
争」として成立したということ。ダメージを与える相手が敵国の「軍」であ
る必要がないのだ。イメージを作ることさえできれば、対象の中に自国民が
混じっていてもかまわないくらいなのだろう。軍事的・経済的に劣位に立た
されても、強力なイメージを作ることさえできれば一時的に勢力を挽回でき
ると踏んでの犯行だと思う。徹底報復などすれば、同じ事が繰り返されるだ
ろう。
  それにしてもテロリストの身元がすぐに明らかにされたのには驚かされた。
アメリカの情報収集能力には感心させられるばかりだ。

  最近、三冊の詩集を読んだ。鈴木志郎康さんの「胡桃ポインタ」、阿部日
奈子さんの「海曜日の女たち」(以上、書肆山田刊行)、川口晴美さんの
「Exit.」(ふらんす堂刊行)。
  皆それぞれ面白かった。一言ずつ感想を述べてみよう。
 「胡桃ポインタ」は何と手描きの絵入りの詩集。志郎康さんが映画「極私的に
EBIZUKA」でその仕事ぶりを描いた彫刻家の海老塚耕一氏が装丁を担当
し、この詩集のためにわざわざ一冊ずつ彩色していったのだという。一冊とし
て同じ装丁の本はないという、考えられないほどの贅沢さだ。「ポインタ」は
プログラミング用語で、「メモリのアドレスろその中身を指す言葉」とのこと。
一方、「胡桃」は固い殻に甘く柔らかな実を隠した果実。人間が感覚し認識す
る生活の場における、内と外との微妙な関係を繊細に形式化した詩集と言えるの
ではないかと思う。内だと思っていたものを追っかけていたら外に出て、外だ
と思っていたものが内にあった、という「精神」の「身体感覚」が生々しく迫っ
てくる感じだ。
  ヒョッジーってのはさ、
  隙間に割り込んで、
  関係を切り裂いて行くキャラクターの名前だ。
  いま、わたしが発見したばかりの目に見えない活性体。
                                     (「ヒョッジー」より)


  阿部日奈子さんの「海曜日の女たち」には作者の精神的な快感のツボ探し、と
いう印象を与えられる詩集。とにかく、作者の「趣味」というものがひたすら素
直に提示されていく様には驚くばかり。この人はほんとに本が好きなんだな、読
書フェチなんだな、と思わされる。読んだ本の気に入った場面やフレーズが血肉
化して、それなしでは生きていけないのだろう。読書体験そのものが表現対象と
してどーんと据えられる。阿部さんという人は、絵本をうっとり読み散らかした
少女時代の初めに、読書体験により生涯最高のオーガズムを体験してしまったの
ではないか。王女さまのような豪奢な言葉の運びに魅了される。「絵空事」が何
よりもリアリティを放つ言語空間。
  直感したイーダは鳶色の瞳で問いかける
  あなたはかしずかれたくないのね?
  ええそうなの
  あなたが私を敬ったりしたら
  それはたまらなく<不正>なことだもの
                                      (「河のほとり」より)


  川口さんの「Exit.」は、彼女が幼い頃より理想の規範としてきたような、ある
鋭利なエロティシズムの体現のために自己を自己そのものから外化する試みと感じ
た。この詩集には様々な物語の形式が採用されている。SF的であったり、冷たい
肌触りの私詩風であったりするが、語り口は一つで、それは「孤独」というものを
「自由」とともに獲得される「快感」として受け止めていく強固な意志を顕わした
ものだと思われた。現代という時代は、個人の自由を何よりも優先していく倫理感
を持つことを特長として持つ時代だろう。そうした「西側」的倫理を追求していく
と人は必然的に共同体から切り離され、孤独に行き着かざるを得ない。その孤独こ
そを強い意志を持って楽しもうというのが川口晴美の詩であるように思える。孤独
を追求していった結果、共同体とのつながりを断ち切れきれない生活者の部分はど
んどん希薄化し、自己は元の自分から離れ、非現実的なシャープな「イメージ」と
して自立することとなる。
  厚ぼったい布地の切れ目を爪先で探しながら 「マボロシ」と
  口に出して言えば
  知らない言葉のように唇の形ごと中庭に捨てられる
                                         (「光の傷口」より)

  現代詩は衰微したなんていうけど、いい詩は誰かがどこかで書いているものなの
ですね。


9月8日(土) 会社で頼りにしていた人間が急にやめてしまうことになり、心が重い。き っかけはぼくからすると比較的些細な出来事だったが、それを引き金に今ま での会社に対する不満が一挙に爆発してしまった、という感じである。 彼は腕利きのサンエンスライターで、ネットの事情に極めて詳しく、自分で もサイトを持ってたくさんの読者を持っている。うちのオンライン書店では 科学とSFジャンルを担当してくれたが、考えつくあらゆる工夫を凝らして 売上げを伸ばしていた。アイディアも豊富だったが地道な手作業も厭わない タイプで、商品在庫のチェックなども本当にまめに行っていた。社外スタッフ であるにもかかわらず会社全体の仕事に対する提言も熱心にやってくれて、彼 の発案で動き出したプロジェクトは少なくない。書籍販売にはそこそこ覚えが あってもネットにはまだ余り詳しくないぼくは、彼の正確な現状認識をいつも 参考にしていたのだった。 ぼくはそういう彼が大好きであって、よく話したり食事をしに行ったりして いたのだったが、社内では彼とぶつかってしまう人も多かった。彼は仕事に熱 心な余り社内の人間をかなり攻撃的な口調で批判することがあった。そして会 社は組織がまだ未熟でそうした批判に応えられないことが多々あった。また当 然感情的に反発する人たちも出てくる。批判された側の反発する気持ちもわか るが、会社を良くしたいと願う彼の情熱もわかるから、何とか対立を和らげる 策はないものかとと日頃考えていたが、遂に果たせなかった。 こういう事例は多かれ少なかれどこの会社でも起こることだろうとは思う。組 織と個人がうまく関係を結んでいくことは何と難しいことだろう! 人間が集ま ると、それがどんなに少ない人数であろうと不可避的に権力関係が生まれる。も ちろんたとえ二人であっても、である。会社という組織では、その権力関係が露 わにされる。どうかすると、より大きい権力を手に入れるように争うことが「組 織の活性化」とされるような場なのである。 本当は「管理」は役割の一つに過ぎなくて、「社員」は全体の物事をスムース に進めるための手順を考える仕事を請け負うだけだと思うのだが、それをアルバ イトや社外スタッフの部分を活性化させるという仕事よりも「上位」に考える錯 覚を起こしてしまうのだろう。「全体」をスムースに、ではなく、管理者自身の 都合を知らず知らずのうちに優先してしまう。この「全体」とは何かを見極める 作業はものすごく難しい。 ぼくも彼から厳しい批判を受けたことが度々あったのだが、日頃詩人やミュージシ ャンの友人とつき合いがあることもあり(?)感情を剥き出しにする情熱家に慣れ っこになっていることがあって、口調の荒さなどはさほど気にしなかった。何度も 話せばそれなりに統一した見解ができてくるし、こういう人たちと付き合うには単 に論理的で率直でありさえすればいいと考えていたのだが、一方礼儀や格式を重ん ずる人がいることも確かだ。そういう人には彼の激しやすい性格や振る舞いが許し がたいものに映るのだろう。会社という共同体の中では「言い方」が「言っている 内容」よりも重要な場合もはっきりあるのだ。 だから今回で何回目かの「やめる」を彼が言い出した時は、もう引き止めるのは難 しいかな、と感じたのだった。一緒に飲みに行ってもちろん慰留はしたのだが、正直 もう限界かもしれないなという思いもあった。いつも議論したり冗談言ったり食った りしていた相手がいなくなるのは淋しいなあという気持ちが湧いてきて、飲み会の席 ではすっかり酔っ払ってしまった。 その席でぼくが酔いに任せて告白した学生時代の酒の不祥事。 <その1> 友人の頭にはしゃいでビールをぶっかけた(覚えていないが本当らしい)。 <その2>路上で急に立ち止まり手を挙げたかと思うと「ツジカズト吐きます」と宣言し て胃の中のものを嘔吐した(これも覚えていない)。 <その3> 友人たちとの帰り道、薬局の店先のケロヨン(カエルのマスコット像)を運ん で電話ボックスに入れ、電話をかけるポーズを取らせた。その姿が余りにかわいらしい ので何日か後にまたやった。その後、ケロヨンは薬局の店の中に仕舞われることになっ た(これは覚えています)。以上。 また、ジンジャーエールの先割れストローが何のためにあるのかをしつこく聞いて従業 員の方にご迷惑をおかけしたこともここで記しておこう(ごめんなさい)。 会社というものが奔放な個人が一人ではできないことを共同して実現する場であればい いのに。そのためには会社というものが元々個人の契約関係で成り立っているという本 来の姿がもっと見えやすい方がいいのだろう。先に共同体ありきじゃなくてね。そのほ うが逆に会社の利潤をあげることに対する従業員の責任感も鋭くなるのではないだろう か。生活の資がどこから来るのかを被雇用者自身が真剣に問う所に行き着くという点で。 彼のような一匹狼風の人間が大活躍できるような企業風土は、本当は他の誰もが生き やすいはずのものなんだけどなあ。 本当にお世話になりました。これからも頑張ってください。森山さん。
9月1日(土) 第二詩集刊行の打ち合わせのために、版元の書肆山田へ。再校は既にチェ ック済み。今日は「あとがき」の再校を持っていき、装丁の大枠を決めた。 どうやら今月の末くらいには出そうだ。タイトルは「Ver.μの囁き」とした。 人間は、目の前の日常的な現実とそこから離れていく頭の中の空想との間を ふらふらしながら生活している。と言っても、日常は人間の脳が生み出す観 念の世界だと言えなくもないし、また空想は物理的な現実とのぶつかり合い 抜きには存在し得ないだろう。根が同一ながら多層的な世界を「ふらふら」 する−この「ふらふら」ぶりをなるべく忠実に言葉の運動に置き換えてみよ う、ということを今度の詩集の中核に据えてみた。極端にナンセンスな物語の 設定をし、そのナンセンスの論理に可能な限り厳密に従っていると、作者はそ こに現れる世界の管理者ではいられなくなる。つまり、設定した虚構の論理に 従って言葉たちが生活することを補助することが作者の主な仕事になってくる のだ。言葉たちが自律的に活動するほどに、作者は人間の社会的存在としての 枠から解放されるだろう。逆に言えば、ある虚構の可能世界を想定することに よって、「人間」や「社会」の文字どおりの意味での「可能性」が考えられて くるのではないか。 まあ、別にガチガチに考えて書き進めたわけではなく、言葉たちが自由に飛 んだり跳ねたりする様を見て面白がっていただけですけどね。表紙には若手写 真家サイトウノリコさんの素敵な作品を使わせていただきました。お楽しみに。 このサイトを立ち上げて9ヶ月ほどになるが、紙の同人誌で詩を発表していた 頃に比べると、詩に向かう意識が微妙に変化してきた。ぼくの職場は若い人が多 いが、その中には自分のホームページを持っている人が何人もいる。すると、ホ ームページのURLを教え合って、皆で互いのサイトを読み合うということが起 こってくる。ホームページは日記が中心なので、ページの更新があった翌日には 「誰誰さんが昨日斯く斯く然々のことをした」ということが簡単に話題にされた りする。ぼくの詩作品もその例外ではなく、その結果ぼくが職場の一部の人たち から「KAZUTO丸」(当サイトのコーナー名)の渾名で呼ばれる、ということが起 こったりするのだ。これは今までの詩作生活からするとかなり異常なことだ。今 まではごく親しい人以外には詩を書いていることなど話さなかったし、ぼくの詩 を読む人はほぼ詩人たちに限られていた。つまり、昼間は会社員で夜は詩人、と いう生活だった。それが現在は、昼と夜が分かれて在るのでなく連続しているこ とを知らされるようになったということ。 これはかなり大きな変化であって、気張って「芸術作品」を製作するのが詩人 なのではなく、人に何か変化を与える契機を作るのが詩人の役割、というふうな 意識の転換が起こってきた(何しろ職場内で「うぉるるるん」(←ぼくの作品の 詩句の一部)などと突然声をあげられたりしますからね)。反面、顔の知れた人 にこじんまりと「受け」るのがいいことだと無意識のうちに思いかねない危険性 もある。いずれにせよ、専門化されすぎて袋小路に入った現代詩にはこういう変 化はいいクスリだろうと思う。 池袋の「ぱろうる」で詩集と短歌集を一冊ずつ買ったあとラーメン屋で食事した が、とんこつラーメンの油がくどすぎて少し残してしまった。どうも口と胃袋がゆ るやかにサッパリ系に突き進みつつあるようで、ちょっと悔しい気分。