2002年1月

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1月26日(土)
  新国立劇場にチェーホフの「かもめ」(マキノノゾミ演出)を観に行く。
チェーホフは大好きな作家で、戯曲も小説も学生時代によく読んだものだ。
登場人物に言いたいことを言わせるけれど、作者がその中の誰にも特に肩入
れせず、事態の収拾もつけず、なるようになっていく様をひたすら注視して
いく。その冷徹さに、読むたびに興奮していた。「かもめ」は中でも好きな
作品の一つだったので、友人でライターの守屋さんに誘われるままに劇場に
足を運んだのだった。
  観終わって、やっぱり生の芝居はいいな、と単純に思った。活字だと、す
っと読み飛ばしてしまう台詞が、感情のこもった声と動作を得て、ちゃんと
心に引っかかってくるからだ。特にチェーホフの作品、その中でも「かもめ」
は、脇役も主役と同じくらいの存在感を持ち、舞台は常に<複数>の人間の
思惑でいっぱいだ。喋っていない人物のちょっとした動作が場面の意味に影
響する。
  この話は「夢の挫折」を基本的なテーマにしていると思う。各々の人物が
強い思い込みや夢を持ち、好意や恋愛感情や嫌悪感を抱き合い、それが時間
の経過とともにしぼんでいったり、ずれあったりしていく。一瞬のうちに高
揚したかと思うと次の瞬間には醒め、意気投合したかと思うと喧嘩する、と
いった具合だ。今観ても本当に斬新で、人の心を物理として扱うような手つ
きに興奮させられた。人間関係が拡散していく様を描く小津の映画に、似通
った感触があるのではないかとも思った。
  ただ、演技にも演出にも心理の細やかさの表出の徹底が欲しかった気がす
る。ニーナ役の田中美里が、トリゴーリンとの生活が破れ女優としても花開
けなくて一時帰郷する場面で、一幕の時とさして変わり映えのしない表情し
か見せてくれないのはどうしたことか。また、アルカージナ役の三田和代は、
作家である息子の若い才能に抱いたにちがいない「怖れ」を表現しなくてよ
いのだろうか。高山の天候のように人の心が刻一刻と移り変わっていく様を
リアルタイムで見せるというのがチェーホフ戯曲の醍醐味だと思うのだが、
全体にやや新劇調の「達者」の中に各人の思惑が埋められてしまった感があ
って少し残念だった。


1月20日(日) ダイエーの大胆な再建計画発表やらイスラエルのパレスチナ攻撃やら、新 年早々大きなニュースが続いている。以前はこうした社会的大事件を「対岸 の火事」として受け止めていたのだが、最近は妙に身近なものに感じられる。 別段急に社会派・正義派になったわけではない。国家や企業、学校や家族と いった共同体が個人を守る力がこのところ急激に弱ってきたなと感じられる わけだ。倒産や殺人は、実は今までも自分のすぐ隣りで日々起こっているこ とだったのだが、それらの生々しい実態を隠蔽して共同体の秩序を強化する ベクトルの方が強かった。今はダイレクトに危機が強調される。経済の面で も安全の面でも個人の自衛がより必要になってくるのだろう。しんどい時代 に生まれてきたな、と思うと同時に、ある種の自由を感じてほっともする。 守ってくれる機構が万能でないならそのことが知れ渡っていたほうがいい。 実は「弱ってきた」のでなく、前から弱かった実態が露呈しやすくなっただ けではないのか。 先週、法事で佐賀県に行った。亡くなった祖母の霊を囲むささやかな一周 忌の会葬だったが、十年来会っていない親類と話すこともできて良かった。 観光名所、長崎街道(シーボルトも歩いたという、長崎から江戸までの街道) を散歩した。街道沿いにある明治時代の旧家や銀行を観光用に整備し開放し た一角だが、よく保守されていて建物を細部に至るまでよく観察できる。時 代の雰囲気がじかに伝わってくる。地味ながら小味で勝負してるなあと感心 する(実は結構お金がかかっているのだそうだ)。夜は佐賀牛を食べて満足 (とてもおいしかったけれど食べきれないくらいの量があって、残した分を 犬のエサ用に包んでもらいました)。母や叔母と佐賀城跡など他の名所も回 り、柳川に足を伸ばして北原白秋記念館を覗いたりと久しぶりに観光旅行を 楽しみました。 祖母ともう少し話しておくんだった、と思ったが、でもこれは誰に対して も言えることだ。 坂輪綾子さんの詩集『クモラス』(思潮社)をじっくり読んだ。別れた恋 人(死別だろうか?)への想いを軸にした作品集。歌詞のようなうちとけた 口調で、失われた人への想いが語られるが、余りにその想いが強いため、対 象が奇妙に柔らかく変容した姿に見えてくる。作者はダイレクトには語らな いが、「失われてしまった」ものに対する絶望感により人生の見方がどうし ようもなく変えられてしまったことを繰り返し述べているようにも思える。 絶望によって洗浄された意識が、「あの事の後」の生を幽体のようにさまよ っている、とでも言えばいいのだろうか。 昼間 歩いているときの私は暗いです 余計なことを考える暇があるからだ つくりわらいしなくていいから そんなときに橋の真ん中で声をかけたって私はろくな顔をしない 不幸せの犬の紐を張る 橋の欄干から不幸せの犬をえいっ と投げて 持っていた紐を自分の首に絡げて 反対側からやっ と飛び降りてしまいたい が ついてしまった嘘のためにこうして泣き笑いしているのが私だ 「不幸せの犬」より とてつもなく不思議な空想。こうした他人から見ればナンセンスと言って いいようなとめどもない空想を続けていなければ焦燥に追われて生きていら れない、という感じである。内側から生まれ内側で消えていく幾千もの空想 の根の切実さに胸を打たれた。
1月4日(金) 2002年になった。おめでとうございます、と言いたいところだが、喪 中なので遠慮させていただきます。ともあれ、今年もよろしくお願いします。 今年の正月は神奈川県にある実家に帰ってのんびりと過ごしたのだが、そ んなわけで飾り付けもなく、来客もなく、寝たり飲んだり読んだりを繰り返 す数日間となった。地元の友人とも顔を合わせなかった。暇に任せて少年時 代によく聞いていたクラシックのLPレコードを何枚も聞いてみた。LPは 盤の微かな傷の音が気になって落ち着かないところもあるけれど、久しぶり に聞くと結構いい感じ。CDのようにいらぬ音まで聞こえてしまうなんてこ とがなく、音が音楽としての太い線を保ちながらしっかり鳴っているな、と 思った。木が木の集合ではなく、ちゃんと森になっている感じだ。但し、電 子音楽のような旋律主体でない音楽ではCDと確かに差が出てしまうだろう。 十年ぶりに聞いたバックハウスの弾くベートーヴェン・ピアノソナタがすご く良かった。「月光」とか「熱情」とかの渾名つきのいわゆる「三大ピアノ ソナタ」なのだが、ベートーヴェンって本当に考え抜いて作曲していたのだ なあ、と今更のように感動した。小さな単位のフレーズをこれでもか、とい うくらい多様に変化させつつ、一方で山の頂きを形成するような統一をめざ していく。様々な可能性に触れながら一つの結論に到達していく人間の思考 の様態を模した音楽ということでしょうか。こういう音楽は、「人間」とい うものが、分裂しがちな現実の事象をある観念の下に位置づけていくことを 目指す存在として、規定することによって成立しているように思う。しかし クライマックスに至る微細な過程をとても大事にしていて、音が逡巡する様 をたっぷり描いている。豪快さよりデリケートさがすごい。 テレビが余りにくだらないので、家の周囲を散歩してみた。この辺りが開 けてきたのは70年代の半ば頃からで、その頃ピカピカだった住宅地が、す っかりくすみを見せている様子に驚かされる。かえって昔ながらの農家の方 がずっと元気があって生き生きしているように思えた。あの頃モダンに見え ていた家家は、実は結構粗製乱造だったのではないだろうか。これらは、工 業化の波に運ばれてきた「マイホーム」という奴である。おじいさんやおば あさんのいない「核家族」がここの住民であり、給料に見合った数の子ども を産み、更に共働きをしてローンを払い、その忙しい合間を縫ったわずかな 時間で教育などの地域の問題を考えていたのだろう。家の建材をじっくり検 討する時間などなかったに違いない。これらの「核家族」から子どもたちが 巣立って、最早「核」さえ作らずに「好きなこと」に集中できる一人暮らし を憂鬱に楽しむ種族も現れているわけだ(ぼくのようにね)。それは良くも 悪くもない、一つの生活の形であり、家族は別に崩壊などしていなくてただ だんだんだんだんと細分化していっているだけだ。最後に残された「核」た ちはどうなるのだろう−なんてことを自分の両親や妹夫婦を見ながら考えて いた。甥っ子は元気いっぱいで、遊んでやるとくたくたになるがなかなか楽 しい。読書好きで、8歳になるけれどかなり難しい漢字が読めるのにびっく り。新聞を読ませてみると「経済構造改革」だの、「包括的な国家戦略」だ の、すらすら声に出していく。でも書くのは苦手だとか。 東京に戻り、いかにも会社っぽい新年会に出て、その後かなり遅くまで仕 事をしてからアパートに帰ると、坂輪綾子さんの詩集『クモラス』(思潮社) が贈られているのを知った。一読して感動。この詩集の感想は後ほど書くこ とにしよう。