2002.10

2002年10月

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10月27日(日)
  鈴木志郎康・石井茂のジョイント写真展に行ってきた(渋谷 LE DE
CO)。志郎康さんのは「眉形の宇宙」というタイトルがつけられていて、
身近な風景を魚眼レンスで撮ったもの。それぞれの作品に情景の説明の一
言があるのが嬉しい。今までの志郎康さんの写真作品は、何気ない日常の
風景を撮ったものでも、魚眼レンズのもたらす歪みによって、対象自体の
日常的な意味性を破壊し尽くす、という感じになっているものが多かった
ように思うが、今回のは、ちょっと違っていた。散歩の途中にふと出くわ
したと思しき半居眠り状態の風景に魚眼レンズが突然声をかけたおかげで、
風景がギョッと驚いて目を醒ました、という雰囲気のユーモラスな写真に
仕上がっていたのだ。風物が写真という虚構に変身する際の鋭利な非日常
性が、暖かみと柔らかみを得て作品として生き物のように静かに呼吸して
いるように感じた。
  石井さんの作品はピンホールカメラによるもので、「遠い矩形」と名づ
けられている。電球を集め昆虫の群生のように撮ったり、川の神秘的な光
景を撮ったり、と対象は様々だが、皆一様にある演出意図の基にフィルム
に収められていることがわかる情緒的な作品群だ。撮影者の孤独な心の持
ちようを人気のない風景に託した文学作品のような写真だと思った。モノ
クロの影の繊細な濃淡が作者の流れる感情を表わしているかのようだ。
  知り合いにもばったり会うことができ、楽しい写真展だった。

  ところで、このギャラリーは渋谷の繁華街の逆側、並木橋のある通りに
面しているのだが、この辺りは意外に鄙びた感じがしてなかなか風情があ
りますね。志郎康さんにギャラリーの裏の窓から外の風景を見せてもらっ
たけれど、渋谷とは思えない、四ツ谷のようにか細い孤独な路地が幾つも
伸びている静かな場所だった。ぼくみたいな人嫌いにはうってつけですね。
いずれゆっくり散歩でもしてみようかしら。

  もう一つ、神田で「そばアートフェスティバル」というのをやっていた
ので足を伸ばしてみた。何のことはありません。単に神田地区のおそば屋
さんを会場に現代アートを展示する、というだけのもの。それでもそば屋
の渋さと作品の華やかさのミスマッチの面白さがあって意外に楽しめた。
コイズミアヤさんの造形作品などは、天井に吊るす形で展示されており、
足を踏み入れた時はどこに作品があるのかわからなかったほど。しかし、
神田地域の振興策とはいえ、誰が考え出したんでしょう? できれば、ソバ
屋の主人にも絵筆を揮ってもらい、アーティストにソバを打ってもらうパ
フォーマンスの場を設けて欲しかった(?)です。


10月26日(土) 結構寒くなってきた。15日までは半袖の服を着られるが、20日を過 ぎるともう着られない。毎年この気温の微妙な変化を感じると、今年も終 わりに近いのだなと感じさせられる。 北朝鮮を巡る情勢が厳しくなってきている。核開発計画が発覚してアメ リカが戦争をしかけかねない状況に陥っている(最終的には回避できそう な雰囲気だが)。北朝鮮という国は歴史の不幸なねじれからできたような 国だから、そりゃいろいろ無茶をするさ。拉致も人殺しもすれば核も作る だろう。今の独裁体制を速やかに終結させることの手伝いを各国はすべき だと思うが、それには朝鮮の国民に対して愛情をもって接することが重要 なのであって、脅すことは全くの逆効果だと思わざるを得ない。こんな力 による解決ばかりをちらつけせていたら、アメリカはますます諸国の反感 を買うだろうに。 元を糾せば朝鮮問題は日本の植民地支配とアメリカの勝手な戦後処理が 引き起こしたようなもの。それについての反省なしに事を進めるのはいか がなものかと思う。 詩人の野村尚志さんから個人詩誌「季刊 凛」をいただいた。その中の一 編に特に惹かれたので、少し長いけれど全編引用する。 日曜日の午後 「めったに見られないね」 「おもしろいね」 テーブルで女の子たちが話しているのは トイレのドアがあけっぱなしの光景 のぞいている鏡や切り花、ペーパータオル 日曜日の午後、駅前ファーストフードの二階で あけっぱなしにしたのは わたしの椅子ひとつおいてとなりの女性 わたしもぼんやりその方向を見ていて あーあけっぱなしだ。と思った 女の子たちのおしゃべりに気がついたんだな、うつむいている その女性 ひとりでお茶を飲みに来て、考えごとでもしていて ドアを閉め忘れたのだろう 誰か続いてトイレに入る女性がいればよかった わたしは雑誌の続きを読みだした 中国の薬草の写真がうつくしい しばらくあった 帰るのかな、と思った その女性は椅子を離れ 女の子たちの横を通って トイレのドアを閉めに行った 静かな孤独だった 戻って来てその女性はまだうつむいている、ストローを軽く指ではじいて ほかの何か、うつむくわけがあったのかもしれないな 女の子たちのはずんだ会話はとっくにその光景には向いていない 部活の話なんかしている 外を見れば雨がまだやみそうにない たいした事件ではないければ何か緊迫した空気。詩の中の空気が張り詰 めているのは、トイレのドアをあけっぱなしにしてしまった女性の心の傷 の痛みを、作者が当人以上に味わっているからだ。トイレのドアをあけっ ぱなしにしてしまうという小さな失態の影には二つの悲劇がある。ドアを 閉めることに気がつかないくらい気を揉む心配事があったという悲劇と、 事情を察することもせずその行為を無神経に嘲る公衆の視線に晒される悲 劇である。「わたし」はその女性の置かれた立場に同化してしすぎてしま って、当人以上に胸を痛めているわけですね。 詩は作者のエゴイズムの産物と思われているけれど、他人に対するこう した優しさはもっと大事だと思う。優しさというのは他者に対する想像力 の問題であり、他者に接する際の感性の問題でもある。野村さんは他者に 対する想像の行方を繊細に言葉で追っている。 歴史認識を行う時に、野村さんのような鋭い想像力や感性が活用されて いれば国家関係もうまくいく、なんてのは甘いのだろうか。
10月13日(日) いつのまにか秋も深まってきました。真っ青な空と夕暮れ以後の適度な 肌寒さ、気持ちがいいですね。このくらいの気温の季節がもっと長く続い てくれるといいのですが、そうもいかない。その、「そうもいかない」と ころがますます秋を貴重なものに思わせるわけですね。まだ今年好物の梨 を食べていないので明日あたり買いにいこうかしら? 一人暮らしだとなか なか果物って食べないんですよね。 ノーベル賞を二晩続けて日本人が取った。日本人が取ったからといって 別段不思議な感じはしないが、化学賞を取った田中耕一氏がアカデミズム 外の一技術者で知名度も低いのにその対象になったことに驚く。ノーベル 賞の推薦や選考を行っている人たちがどういう人たちなのかよく知らない のだが、ちゃんと調べているものだなと思う。というより、知名度や立場 を越えて、人間の思考内容だけを純粋に吟味するという本来のアカデミズ ムの役割がきちんと果たされたことを素人ながら嬉しく思うわけである。 科学の世界は芸術の世界よりも評価の土台がきちんとしているものだと感 じる。 戦前から現在に至るまで抽象画の世界で活躍する画家脇田和の展覧会を 世田谷美術館に見に行った。外見上は抽象画だけれど、 この人の作品は 実は変形された具象画ですね。題材となっているものは意外と日常的なも ので、短歌を詠むような抒情的な気分が張り詰めている。衣服の中から目 だけを覗かせた「かくれんぼう」シリーズがユーモアたっぷりで心を和ま せる。 中央に縦長の赤が塗られた「赤い鳥」という作品も、タイトルのま まの、生き物の具体的な個としての存在感を印象づける。変な深まりがな いのがいい。 その帰り、用賀の花屋兼喫茶店「SOKO工房」に寄ってコーヒーを飲 んだ。倉庫を改造して作ったと思われるちょっと変わった喫茶店で、内装 として古い道具とか家具とかがどかどかと置いてある。テーブル・椅子の 種類も大きさもまちまちで、かつわざと非効率的に配置されている。花も 無造作に店内のあちこちに活けてあって、そのまま売っているようだ。ス ターバックスのような効率性も大事だけどこういう隙のある空間もいい。 子供時代に戻り、童話の中の魔法の家の中でお茶を飲んでいる気分になる。 コーヒーの味もまずまずだったし、こういう遊び心は大歓迎だ。ただ、潰 れなきゃいいけどね。