2002.11

2002年11月

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11月23日(土)
  ラピュタ阿佐ヶ谷(と東京写真美術館)で開催されている「ロシア・ア
ニメーションの世界」に通う。いやあ、ラピュタはえらいですね。毎年ノ
ルシュテインを招いて講習会を開くは、若手のためのアートアニメのコン
テストを開くは、今回のような凝ったプログラムを組むは。しかも阿佐ヶ
谷のメインストリートを「アニメストリート」と名づけて、通り沿いの喫
茶店等にアニメ原画の展示を行うのだという。アニメーション芸術の浸透
を核に、地域の活性化を含めた、総合的な文化活動を行っているわけだ。
ここに集まる若い人たちの情熱の度合いもすごい。やろうと思えばそうも
できるはずのに、決して売れセンのアニメだけをよしとはしない。力のあ
るジャンルは違いますね。少なくとも現代詩とは大違い。現代詩の世界は、
素朴に詩に興味を持つ若い人たちのことなんかどーでもいいってトコがあ
る。
  それはともかく、やはりロシアのアニメーションは独特の味わいがある
ということを再確認。これで見るのが3回目の、1957年制作の「雪の
女王」には今回も泣かされてしまいました。あの、山賊の娘がゲルダを逃
がすシーンね。できたばかりのたった一人の友だちを失ってしまう山賊の
娘の孤独な心の空洞が、その仕草に痛いほど現れている。初めて見た作品
の中では、「ガールフレンド」というのが面白かった。孤独な老人が魚を
釣り上げるが、その魚は陸上の生活に馴染んで老人のガールフレンドにな
る。老人になついて、歌を歌ったり、踊ったり。でも陸上の生活に馴染み
過ぎて泳ぎを忘れ、海に落ちて死んでしまう。滑稽な話を、まじめに「悲
劇」として描く製作者の思い入れに感動させられた。
  ロシアのアニメは、日本の商業アニメと違って、製作者の手作り感が濃
厚だ。まず自分たちにとって面白いものを作ろう、自分たちにとって本当
に面白いのならアカの他人にも面白いだろう、という感じ。これって芸術
の基本ですね。阿佐ヶ谷や高円寺は町全体が妙に非効率的で楽しい。食べ
るところも喫茶店も多いしね。だからかもしれないけれど、某出版社の社
長さんは、「中央線沿線」に住んでいる人はゼッタイに編集者には雇わな
い、と言っていたなあ。遊び心が豊かすぎて、効率的に仕事をしないそう
だ。作家と仲良くするのは得意でも、のんびり仕事をしすぎて本がいつま
でたっても出来上がらない、ということだ。本当でしょうか。

  北爪満喜さんから詩集『ARROWHOTEL』(書肆山田)を贈られ
て少したつ。ほぼ毎日持ち歩き、少しづつ読んできたけれど、重い内容の
詩集だ。北爪さんは第一詩集の『ルナダンス』の頃は多彩なイメージが軽
やかに浮遊するような詩を書いていたけれど、だんだん生活の深層の部分
が滲み出るようになって、今度の詩集は彼女の内面の葛藤がモロに出るも
のになっているように思う。だから、読んでいて、楽しむというよりは辛
い気分になる。表現というものは、別段楽しければいいというものではな
い。エンタティメントでない芸術というものも当然存在するわけで、この『
ARROWHOTEL』はその典型と言えるのではないかと思う。
  描かれているのは、日常世界のわずらわしさを厭い、想像力の世界に救
いを求めるが、そこでも安息を得られないで苦しむ自我の像である。

灰色の固い路面へごつごつはみ出した木の根や石を踏み
けものみちを森へ向かう
木々に隠された森の草地へ
銀色の幹をすり抜けるとき
まっすぐ突き出た枝に当たって
毛並みが擦れ抜け落ちた
痛みんでもいい、痛くても

足裏で森の印を探り
ここまで歩いてこられたけれど
幾つもの崖がぴかぴか反射しながら切り立っている
まっすぐな谷だ 隠れられない
いやな臭いで走ってくる巨大な虫達で
どこも恐ろしい
赤く光る石だけをみつめて
知らない動物がひしめく道を走って逃げたい
                                  「森の香り」より


  この詩は、夢想の中でリスに変身した「わたし」の想像のゆくえを追った
ものだ。このリスは完全に内面化されており、作者の社会に対する恐怖感を
比喩化したものと考えられる。具体的にどういうことがあって作者が社会に
嫌悪感を抱いているのかはわからないが、とにかく、「社会」という概念そ
のものが作者にとって恐怖の対象になるのだろう。その恐怖感が、次から次
へと虚構のイメージを生み、物語を走らせていく。物語の突飛な設定に面食
らう人でも、その語気の荒さから作者の切迫した心的状況にシンクロナイズ
することができるだろう。そう、この詩集は読む人にぐいぐいとシンパシー
を求めてくるところがあるのだ。
  生活には楽しい面だってありますよ、と思わず作者に呼びかけたくなって
しまうような切迫感を備えた詩集だと思った。

  どーでもいいことだけれど、最近、不況のせいか、店が閉まるのが早い。
繁華街でも、10時まで開いている食堂が珍しくなってしまった。ぼくのよ
うな夜型人間には実に困ったことである。夕方から開店する、うまい定食屋
はないものか。最近見つけたばかりの祐天寺のアジア料理屋、うまくてちょ
っと独特な料理を安い値段で食べさせてくれるお店が、潰れてしまって悲し
い。あのイタリアン・チャーハンはよそではなかなか食べらない珍味だった
んだけどなあ。ぐすん。


11月15日(金) 忙しい日が続く。なにしろ会社が正念場なので。 寒くなってきた。この晩秋の寒さを迎えるのも38回目なのだ、という ことに気づく。こうして人はだんだん「晩年」を迎えることになる、とい うことでしょうね。人の一生に、転機のような出来事は確かにあると思う けれど、だからといって人生が「完成」に向かう、ということはない。そ のことに恐さを覚え、安堵も覚える。 北朝鮮に拉致された人々が「本音」を語り始め、日本人の北朝鮮への視 線が更に厳しくなってきている。でもね、それは日本人が過去に他国に対 してやってきたことなんですよね。いずれ国交が回復された時、日本は北 朝鮮の人たちから、これ以上の軽蔑と妬みの目で見られることになると思 う。それは、どーしようもなく、避けられないことだ。今から覚悟してお いたほうがいいん、だろうな。現北朝鮮政権の罪悪を追求するのはよいけ れど、余り「北朝鮮」という国自体を責めるのは、よくない。 先週も元気に無駄遣いをしてきました。シャイー指揮のロイヤル・コン セルトヘボウ管弦楽団の演奏でマーラーの3番を(サントリーホール)、 ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラの演奏でベートーヴェンの8番と 5番を(東京芸術劇場)、聞いた。 シャイーのマーラーはダイナミックでメリハリのある音楽。トランペッ トのソロ(ポストホルンか?)がメチャウマでびっくり。海外のオケはと にかく金管がうまいのに唖然とさせらるが、このコンセルトヘボウはその 中でも別格という感じ。マーラーの音楽の物語性がくっきり浮かび上がっ て堪能した。 ブリュッヘンのベートーヴェンは、18世紀の楽器編成と演奏スタイル を再現したものだが、結構劇的な表現で面白かった。古楽器だからと言っ て時代考証ばかりを重視した貧血気味の演奏ではなく、血の通った情熱的 な音楽だった。古楽スタイルとモダンなスタイルの間の壁を取り払うこと に、ブリュッヘンもオケのメンバーも賭けているよう。 ビデオ屋でナショナル・ジオグラフィックの、ホホジロザメの記録映画 のビデオを借りた。何となく、フッと、ね(ホントに何で突然借りる気に なったのだろう)。ホホジロザメがエサのマグロにかぶりつく光景はこの 世のものとは思えない。「牙の生えた怪物」としか思えないのだ。映画の 中心人物のフォックス氏は、若い頃ホホジロザメに襲われて急死に一生を 得たがその後サメの魅力に取り憑かれ、以後サメの保護に熱心になってい ったのだという。その気持ちがよくわかる気がした(と言ってホホジロザ メは滅多に人を襲うものでなく、またサメ一般もそうなのだ)。命あるも のがその命を全うしようとして、必死に食い物を求める姿は感動的。だか らといって、人間の生と同じく何らかの結論が出るわけではないのだが。 サメにはたくさんの種類がある。サメには見えないような細くて弱々し いサカナがサメ類に属していたりする。クジラみたいに巨大だがオットリ した性格のサメもいる。様々な種に属した様々な個体が、その時々に彼ら が出会う時空との関係によって様々なポーズを取っては泳ぎ去っていく。 その、変幻自在な「様々」に見とれて、心地よさにボーッとしてしまう。 生きているものが「生きているということ自体」で、生の新しい意味合い を不断に生成し得る、ことを実感させてくれたわけだ。 動植物の映像というのは、ヒーリング効果があるんですね。
11月3日(日) 先週はコンサートに2晩続けて行ってみた。ブーレーズ指揮のロンドン 交響楽団演奏会(10/29オペラシティ・コンサートホール)とジャック・カ ントロフ ヴァイオリンリサイタル(10/30 朝日浜離宮ホール)。すごい 贅沢をしたものだが、どちらもチケット代を倍出してもいいくらいの大当 たりだった。ブーレーズのコンサートは、スクリャビン「法悦の詩」・シ マノフスキ「ヴァイオリン協奏曲第一番」(ソロはテツラフ)・ヴェーベ ルン「管弦楽のための5つの小品」・バルトーク「中国の不思議な役人」 という、超重量級にしてマニヤックなプログラム。最初のスクリャビンか らして尋常な演奏でなく、ロシアっぽさや神秘主義の色気など微塵もない、 譜面が透けて見えるような徹底的にクリアな音楽だった。ドビュッシーと 聞き間違えかねないような、「感情」と「感覚」を明確に区別した音楽と 言っていいだろうか。音符が書かれた通りに鳴る、というのはこんなに気 持ちのいいものかと、聞きながら何度も考えさせられた。ヴェーベルンは 言わずもがな。譜面に書かれた全ての音が対等の存在の重みを持って直立 する様を、聴衆はただただ眺め入るしか他はない。オーケストラ音楽とい うより計算し尽くされた電子音楽が鳴り響いているかのようだった。シマ ノフスキ、バルトークともにすばらしい。両者に張っている民俗的な要素 を洗い流し、音が自律的に音自体の存在意義を主張しながら流れていく迫 力に圧倒されっぱなしだった。指揮者の厳しい要求にピタリとついてくる ロンドン交響楽団もケタはずれだ(アンコールにラヴェルの「亡き王女の ためのパヴァーヌ」をやったが、唯一甘いムードで全面に押し出した素敵 な演奏だった)。 カントロフの演奏はブーレーズの演奏とは全く逆。情念でぐいぐい弾く ロマンチックな音楽。シューベルトとR・シュトラウスとプロコフィエフ のソナタという凝ったプログラムだったが、設計図通りというのではなく、 譜面を基に、ジャズメンのように即興演奏を行う感じ。アタマに瞬間閃い たイメージを即座に音に変換しているかのようだ。プロコフィエフは圧巻 というしかなく、音楽の姿をまとった野良犬が舞台上を走り回っているか のような、極めて直感的・肉感的な音楽。敢えて「汚い音」も出す。アン コールにやったベートーヴェンの10番もいい。クラシックよりポピュラ ー音楽としての生気に満ちている。聴衆として聞きに来ていたチェリスト の藤原真理を舞台に引っ張り出して一曲演奏したのも面白い。 クラシック音楽に関して、ヨーロッパの音楽家はやはり日本より2歩も 3歩も進んでいますね。うまいのは当たり前で、独自な解釈を徹底させ、 実現させて初めて評価される。革新的でなければ一流でない、という気風 を感じさせられました。 今日、会社の仕事で安原顕氏のインタビューに付き添いに行った(安原 氏はぼくの勤め先のオンライン書店でコラムを書いている)。安原氏は現 在癌で深刻な病状にある。彼の言いたいことを今のうちに残らず記録して おこうという企画である(何だかハゲタカみたいで自分で書いててヤにな りますね)。ぼくは安原氏の主張を必ずしも賛同しているわけではない。 文壇を特権化しているかのように聞こえる彼の言動には反発もしてきた。 ぼくは、文学は完全に大衆化し、出版界が文学をリードする時代は終わっ たと考える者である。しかし、編集者=創作のトレーナー・判定者、が重 みを持って存在しないことには文化は活性化しないことも事実だ。安原氏 は編集者が作家と時には対立しながらもつきあっていくことの重要性を繰 り返し説いていた。それを身を持って長年実践してきた安原氏は(その作 品の判定に異議のある場合も多々あったが)、皮肉でなく、出版界の「良 心の人」だったとつくづく思う。彼に教えられて読んだ本も結構あった。 出版社が「営利企業」としての本質を剥き出しにしている現在、量でな く質を追求する表現者は、自分の作品の最高の読者=編集者を見つけ出す ことも表現活動の一部分として認識しなければならないだろう。 ライターのタカザワケンジさんの入念な準備に感じ入る。二次会で出会 った朝日カルチャーセンターの方々の異様な陽気さと熱意にちょっと圧倒。 ヤスケンの仕事部屋は雑然としてて、本の積み重なりようがいかにも本キ チガイの彼らしくて、面白かった。仕事第一で生活は二の次、だったので しょうね。