2002.12

2002年12月

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12月31日(火)
  今年も今日で終わり。結構いろいろな事があった一年だった。
  まず、勤めている会社の売上が何とか少し上向いていたこと。ITの
ベンチャー企業が収益をあげることは本当に難しい。まあ予想していな
くもなかったことだが。おかげで「商売」というものについて、今まで
より踏み込んだ考えが持てた事は収穫だった。商品の質を見極めること、
物流をスムーズに行うこと、顧客にサービスのアナウンスを充分に行う
こと、この三つが緊密に連携していないとものは売れないことが骨身に
染みた。前勤めていたところは、有名な超大型書店だったので、それな
りの品揃えさえしておけば顧客はある程度自然に集まってきて商品を売
上げることができたが、ネームバリューのない新参の会社ではそうはい
かない。みんなでない知恵を絞ってあの手この手で集客の策を練った。
今でももちろん苦労は絶えないけれど、自分なりにいい経験を積めたと
思う。企業間の競争は激化している。従業員がただガンバルだけでなく
ユニークなアイディアをひねるのでないと、業績はたちまち傾いてしま
う。9時−5時勤務、週休二日制で決められた業務をこなすだけの「サ
ラリーマン」はいずれ姿を消してしまうのではなかろうか。
 
  今年はレベルの高い音楽会を聞きまくった年でもあった。特に二十
世紀の古典音楽をいい演奏で聞く機会が多かった。シェーンベルクやス
トラヴィンスキーはもう100年近く前の音楽なのですね。その100
年前の音楽がいつまでも「現代音楽」扱いされて、敬遠されがちなのは
よくない。今の電子音楽をやっている若い人たちなどは特に絶対聞いて
おいたほうがいい。ヨーロッパの階級性の残滓を感じさせる堅苦しい演
奏会形式が、クラシック音楽を敬遠させてしまうのか。先日、「ピカソ
とエコール・ド・パリ」展をBunkamuraミュージアムに見に行ったが、二
十世紀前半の絵画作品が年代別・傾向別にきちんと分類されて展示され
ていて、楽しく鑑賞することができた。鑑賞の訓練がなされているから、
その延長線上で新世代の美術家の作品も味わうことができる。だが、ピ
カソやモディリアーニを鑑賞する気軽さで、ウェーベルンやプロコフィ
エフを鑑賞する人はまだ少ないように思う。ブーレーズやサロネンらの
優れた演奏家たちは、二十世紀作品の解釈を着実に深めていっているの
だから、とても残念な気がする。

   しばらく書くのを中断していた詩を、夏頃から定期的に発表すること
にした。書けない時でも、書く、というふうにしたい。月に最低一編は
ノルマにしたい。今までは擬人法を多用する詩の書き方をしていたが、
しばらくはフツーの生活の様子をフツーに記述しながら、フツーでない
時空をぽっと浮かび上がらせる詩を書きたいと思っている。これがなか
なか難しくて思ったようにいかない。抽象的な言い方だが、個人と個人
の隙間がどんどん開いていって、フツーという概念が希薄になっている
時代にいると感じている。その気分を出したい。この間読んだ今井義行
さんの詩集『私鉄』は、堅実に生きているのにも関わらず、日常の底辺
が砂のようにどんどん崩れていっている感覚に襲われる生活意識を鮮烈
に描いていた。こういう気分はわかるな、と思った。

  昨夜、「オー! マイキー」(東京テレビ)という深夜番組を見た。ア
メリカのファミリードラマを面白おかしく模した構造を持つ。マイキー
というのは日本に滞在しているアメリカ人家族の幼い一人息子の名であ
る。彼の両親や遊び友達らが主な登場人物だが、その役を演ずるのはデ
パートでおなじみのマネキン人形である。マネキンたちが、アメリカの
ファミリードラマを換骨奪胎したナンセンスな話を演じる。セリフは、
中学生が英文を和訳する時に用いるような極端な直訳調である。マスメ
ディアを通じ戦後、日本人の意識に浸透していった「アメリカ人の生活」
のイメージが徹底的にコケにされ、笑いを呼ぶ。日本人が「アメリカ人」
を受容していった際の実体のないイメージ群が、その実体のなさを大声
で宣言しながら堂々と一人歩きしていくのだ。お笑いの世界も進化した
ものだなと思う。今後フィクションは、「虚構」をいかに重層化してい
くかが、一つの鍵となるのかもしれない。

  それでは皆さん、よい年をお迎えください。


12月21日(土) 今年も押し迫ってきた。あと数日でクリスマスなのだが街の装飾は至 って地味だし、何というかシケた大晦日という感じである。不景気で経 費削減しているせい? いや、そればかりではなさそうだ。うまく言えな いが、何か浮き立った感じが希薄なのだ。青山や原宿の辺りをうろつい てみても、若い人たちが群れてワイワイしている姿が意外と少ないのだ。 ぼくが学生の時は、金はなくても何かというと集まって飲みにいったり バカをやったりしたものだが。日本人は最早、祭りとか儀式とかいった ものにノレなくなってきているのではないか、などと思ってしまう。人 間関係の基本が、群れの中の位置関係ではなく、単なる個対個の関係に 縮まっている、と言ったらいいか。ワールドカップ時にも、日本人はバ カ騒ぎというものを余りヤラかさなかったし。 この盛り上がらなさをぼくは心地よく感じている。むしろ、盛り上が るという現象自体を、不自然なものと感じ始めている。恐らくそれを咄 嗟に、何らかの「外圧」として受け止めて精神的に身構えてしまうのだ ろう。今の日本のシラケた空気は、確かにぼくには好ましいものである ようだ。 そうした盛り上がらない、冷めきった、それでいて甘い情熱とか希望 とかをどこかで手放さない、微妙な胸のうちをそのまま言葉にした詩集 に出会った。今井義行さんの『私鉄』(思潮社)だ。今井さんは、ぼく が東急Bゼミで詩を書き始めた頃からの友人で、最初はポップソングの 歌詞のような詩を書いていた。だんだん現代詩としての骨格を持ち始め、 過剰な欲動をイメージに託した激しい詩に、次にはその激しさを何か人 工的なオブラートで包んだような不気味な静けさを持つ詩に、変化して いった。言葉を故意にカタカナ書きし、言葉から元の意味を剥奪してい く語法が新鮮だった。 最新詩集であるこの『私鉄』には、母親との関係とか、恋人との別れ とか、一人暮らしの様子とか、かなり具体的な生活の局面を主題とした 詩が収められている。母親には小さな子供のように甘えた態度に出るし、 恋人にはイイ格好をする、一人になると非現実な空想に耽る・・・まあ、か なり恥ずかしい個人の内面生活を赤裸々に描いているのだが、そうした 自分自身のふわふわした心の動きに対して作者として徹底的に自覚的で なのである。むしろその「恥かしさの自覚」というものを言語化しよう としたのが、この詩集における実践の眼目と言ってもよいのではないか と思う。現実の自分にとってものすごく切実であるはずの対象(親とか、 恋人とか、公団住宅とか、職場とか)が、詩を書く場の自分の目からは 現実性を欠いた、内実の希薄な、浮遊するコトバの断片としか映らない。 一人になって夢想に耽る時、これらの切実な思考対象は童話の中の登場 人物ほどのキッチュな現実性しか持ち合わせない存在に成り下がってし まう。この乖離が激しい恥かしさの感情を生み、作者はこれを冷徹に分 析しながら詩を書く筆を進めているように思う。共同体との密なつながり を失いふわふわ凧のように浮遊する一人暮らしの人間の自分勝手な想像 の行方を、丹念に言葉で辿り直す。童話の中から借りてきたような甘い 詩句が、恥かしさの自覚によって、まさにその反対の意味を生み出して いく。 ひとりで 野菜を刻んでいた 「ママ」 「よしゆき」必要とされる言葉に出あう 「あらいなさい」 僕は熱いお風呂に体など浮かばせる ―魂は美しい泡のように生きていたいのに 細胞の何分の一かはいつもサヨウナラを 言い残して 勝手に 星にかわっていってしまう よ お湯のしずくをポタポタ垂らしながら 油で揚げた野菜を 色彩を 食べている 「毎日は楽しい?」 (「秋桜の塔」より) 短い引用ではわかりにくいが、こういった調子のぬけぬけとした「愛 の言葉」が、その内実についての作者の懐疑によって、過剰に虚構化され て読者の前に提示される。虚構とわかっていながら愛にすがりつかずには いられないのが人間だろうが、愛情の現場の只中にいて虚構性を感じてし まうのが現代の詩人なのだろうか。日本人の個人主義はここまで来たかと 考えさせられる詩集だった。 先週、チェロの名手ピーター・ウィスペルウェイの演奏を聞きに行っ た(朝日浜離宮ホール)。曲目はプロコフィエフ、ブリテン、ショスタ コーヴィッチのソナタという超ヘビー級。三人とも20世紀の、ヨーロ ッパの北部で生まれ育った作曲家たちだが、その育ちの共通点みたいな ものを音で確認するためのプログラム、という気がした。つっけんどん なまでの荒々しさと、休止の沈黙の間に宿る抒情。動静が激しく入れ替 わる。動物の動きか、天候の変わり具合を音に置き換えたみたいな音楽 だった。ウィスペルウェイは、チェロという楽器が、弦を弓で擦る楽器 だということを再認識させてくれるような豪快な演奏を行った。音とい うよりは「震動」の芸術という感じだ。弦と弓のきしみが音楽として立 ち上がっていく。このプログラムにはぴったりの弾き方だ。今年聞いた 中でも最高の音楽の一つと思う。若いピアニストのデヤン・ラツィック との息も合っている。アンコールは4曲もサービスしてくれたが、ショ パン、フォーレといったポピュラーな曲ばかり。すごい技巧で楽しめた けど、本プログラムと同系列の曲を弾いて欲しかったな。
12月7日(日) あの民主党という政党はいったいどうなってしまうんだ? 何かやりた い政策や通したい法案があって集まったのではなく、単純に「数を集める」 がために集まっただけの団体なのではないか、と思える。政策理念は後回 しで、とりあえず「2大政党の実現」を目指そうとして失敗を重ねている、 というふうにしか見えない。結局は「数」なのか。それじゃ自民党の派閥 が一つ増えたのと変わりないじゃないか。欧米では、社会の複雑化に伴い 2大政党制の意味合いに疑問が投げかけられているというのに、日本とい う国は全く・・・。 外苑前のワタリウム美術館で「ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で」 展が開催されているので見に行った。この展覧会、ゼッタイ見に行ったほ うがいいですよ。ヘンリー・ダーガーは1973年に81歳で死んだアメ リカの画家・作家。少年時代に精神遅滞の患者を集めた施設に入れられる がそこを脱走し、掃除夫の仕事をしながら創作活動を行った。創作活動と いっても、それを世間に発表することはなく(その意志は多少あったよう だが)、最晩年に病気で入院した際に部屋に入った家主に作品を発見され て有名になった。 子供奴隷制を取る王国とそれに反対するヴィヴィアン・ガールズと呼ば れる少女たちとの死闘を描いた大小説に自ら挿し絵をつけていったわけだ が、美術教育を受けたことのない彼は、雑誌のイラストからキャラクター のイメージをコピーし、修正し、サンプリングすることで膨大な数の絵を 描いた。その絵は、少女たちの裸体に男性器がついていたり(性に無知だ ったせいとも言われている)、戦闘のシーンが極めて残虐だったり(腸が 飛び出ているシーンが何度となく出てくる)して、その異常さが注目され ている。ぼくも96年に初めて世田谷美術館の「パラレル・ヴィジョン」 展でダーガーの絵に出会った時は衝撃で体が震えるほどだった。孤独な 人間の異常な心の高ぶりに文字どおり圧倒されてしまったわけだ。 だが今回一点一点をゆっくり丁寧に見て、構成の緻密さに感じ入るこ とになってしまった。素人であるダーガーの線は確かに稚拙そのものだが、 登場人物たちと背景の自然を等価に描く構図は、ダーガーの世界観を過不 足なく示しているように思えた。人災と天災を区別せず、全ての災いは超 越者である神の思し召しのままだとする宗教感がその土台にあるのだろう か(ダーガーは熱心なカトリック信者だったという)。とりわけもくもく と立つ入道雲が印象的。動物と人間が入れ替わるかのような宮沢賢治の世 界と相通ずるものを感じるのはぼくだけだろうか。 ゲルギエフ指揮キーロフ歌劇場管弦楽団のコンサートを聞きに行く(サ ントリーホール)。一曲目の松村貞三「管弦楽のための前奏曲」で衝撃を 受ける。1968年に書かれた曲で、雅楽に似たうねるような旋法のメロ ディを様々な楽器が引き継ぐように、後には木霊しあうように演奏し、全 奏に至る。最後まで緊張を解かず、ねっちりと仕上げた。東洋的な歌いま わしをロシアのオケが巧みにこなしているのにびっくり。休憩後はマーラ ーの9番をやったが、ド迫力な演奏で、大衆に向かって大演説をぶつよう な音楽だった。演奏後は拍手の嵐だったが、中には不満だった人もいたら しく、ブーの声も聞こえた。確かに内面を繊細になぞるような演奏ではな かったが、これはこれで大変な聞き物だったと思う。 昨日はサロネン指揮のNHK交響楽団の演奏で、ストラヴィンスキーの 「ペトルーシュカ」、ショスタコーヴィッチの「ピアノ協奏曲1番」、バ ルトークの「中国の不思議な役人」という、オール20世紀プロを聞く。 ショスタコーヴィッチのピアノ協奏曲は初めて聞いたが、映画音楽のよう な甘さも含んだ小気味のいい曲だった。ドラマ的要素を含むという点で共 通項を持たせた知的な構成のプログラムで、20世紀前半の音楽シーンが 鮮烈に再現されていくような印象を持った。 ところで、あの土曜の深夜にやっている「第三惑星放送局」という番組、 めちゃくちゃ面白いですね。ネタとして取り上げた題材のパロディのパロ ディをやっている感じ。「グッとくる北朝鮮」ネタは腹の皮がよじれるほ ど。かつての「ウゴウゴルーガ」を思い起こさせますね。