2002年2月

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2月24日(日)
  雪印がとうとう解散になってしまった。あんな大会社でも頭の打ち所が悪
ければあっさり消失してしまうんですね。それにしても、不良牛乳の再利用
とか輸入牛の国産牛への偽装とか、食品は消費者の健康に直接影響を与える
ものなだけに、その管理を企業任せにするのは限界がありすぎる。こういう
場面では「官」というものが前面に出てビシバシ事態を仕切ってほしい。不
祥事を二度も続けることができてしまったことが、雪印にとっても消費者に
とっても不幸なことだったのではないか。
  企業も、そしてあらゆる公共団体も、個人と同じで不祥事があれば必死に
隠そうとするだろうし、うまい話があれば乗ろうとする。だから客観的に監
視する機構が必要だ。もちろん国家も不祥事を起こすことがある。その場合
の監視は「民」が行うことになる。国家に対する厳しい視線を持つためには、
共同体に属していながらその共同体の論理に染まりきらない思考を各自が持
つことを「常識」としなければならないのでしょうね。

  土・日でマンガをたくさん読んだ。冬目景『イエスタデイをうたって3』
奥浩哉『GANTZ5』(以上集英社)望月峯太郎『ドラゴンヘッド全10
巻』(講談社)。
  『イエスタデイ−』は写真が趣味のフリーターの青年と死んだ恋人が忘れ
られない高校教師の女性、その教え子で青年に片想いする女の子を中心とし
た微妙な感情のもつれを描いたもの。自分が望んでいるものをいかに手に入
れるかでなく、本当は何を自分が望んでいるかを探すことがテーマになって
いる。個々の「自分探し」の過程を、小さなエピソードの丁寧な積み重ねに
よって表現する語り口がいい。手描きの痕跡を残した微妙な猫線が作者と登
場人物の心のつながりを感じさせる。各人の背後に作者がいつも立っている
暖かさがある。
  『GANTZ』はうってかわって登場人物と作者の関係がスッパリ断ち切
れているのがユニーク。ある部屋に呼び集められた死者たちが、異星人と戦
うことを強いられるという不条理な設定だが、語りは登場人物の誰にも味方
せず、場面をひたすらクリアに描いていく。非常時の世界を物理的な空間と
して描く(心理もまた物理の一部として捉える)ことに徹するで、「日常か
ら遊離した日常性」という概念がリアルに浮き上がってくる。戦時における
兵士の状況とはこのようなものではないかと実感させられる。
  『ドラゴンヘッド』は確か大きな賞も受賞した有名な作品だが、読むのは
初めて。修学旅行帰りの新幹線の中で大地震にあった少年少女のサバイバル
の物語だ。日本は大天変地異によって壊滅状態になり、救援活動も行われて
いない有り様。少年少女は東京への苦しい帰途の旅で、自然の猛威や絶望し
た人々の混乱を体験する。その、目の前の現実の悲惨と心の中に広がる闇の
交互作用が描かれていく。後半、物語から結論や教訓を引き出そうとするベ
クトルが生まれ、場面を描く力がやや失速してしまった感じもあるのだが、
前半の新幹線からの脱出のところは息を飲むほど迫力がある。障害を乗り越
えて成長するヒーローの姿を描くという点では、「教養小説」の新しいパタ
ーンを作り上げているとも言える。

  ぼくは、実は今書かれている小説にはさっぱり興味がないのだが、マンガ
には時々ハッとするほど刺激を受ける。どんなに「ぶっ飛んだ」小説でも何
かしらリアリズムの重し、つまり話をある社会的な文脈において、いかにも
現実らしく総括しようとする意図、を感じてしまうことが多いのにたいし、
マンガは社会性を基盤にしようとするベクトルが弱く、その代わり記号に記
号自身の姿を思う存分描かせてみようとするベクトルが強固にある。現実に
囚われず、記号が記号自身の意味を追求していく先に、考えてもみなかった
ある物事の「社会関係」が浮かび上がる。独自な記号生成への衝動が一つの
社会秩序を作り上げてしまうということ、既存の社会を真似て創造が行われ
るのでなく、衝動が社会を生成してしまうということ、このことにいつもド
キリとさせられてしまうわけだ。マンガは質的にはピン・キリだが、「量産」
されている。プロだけでなく一般人にも、好きで読み書きされている。好き
でやっていることで情熱があるから、とてつもなくいいものが生まれること
があるのだろう。ということは、いいものでない、つまり誰かからみて「く
だらない作品」とされるものにもちゃんと存在価値があるということだ。生
きのいいジャンルというのはそういうジャンルなんだろうな。

  2月がまだ終わっていないのに、妙に暖かい風が吹く。地球は温暖化へ向
かっている(?)のでしょうか。外を歩いてみると結構気持ちよくて長い散
歩に出てみたい気持ちが湧くけれど、今、会社が結構厳しい状態になってい
て疲れきってしまっているのでままならない。ま、来週は少し気持ちを切り
替えますか。今からでも遅くない、夜のお散歩にでも出てみようかな。


2月17日(日) オリンピックのフィギュア・ペアの審査不正事件。金メダルが2組ね。ま あ、おおいに有り得る話だし、少しも驚きはない。国家の名誉とか金銭とか が絡む限り、こういう事件は絶えないでしょうね。みんな本当はスポーツが 好きじゃないのかなあ。あっと息を飲む瞬間、草野球にだってあるこういう 瞬間こそがスポーツの醍醐味だと思うのだけど。結果より、「やっている」 「見ている」刹那を大事にしないと人生損する気がするんですね。 BUNKAMURAミュージアムに「ウィーン分離派」展を見に行った。 クリムト、シーレ、クノップフ、トーロップ、レンツらの秀作が並び、楽し めたが、この人たちって「現代芸術」の直接の始祖なのだなと実感させられ た。「分離派」という自称は既成画壇と文字どおり「分離」するという決意 を示したもの。つまり、貴族の庇護のもとでなく芸術家自身が主導権を持っ て「壇」を作り、大衆に成果の是非を問うというわけだ。芸術家/大衆とい う構図がここで成立する。そして資本との関係。誰かの庇護のもとに絵を描 くのでなく、作品をコレクターに売って生活を立てるという芸術家のスタイ ルが確立する。展覧会は絵を買ってもらうためのプレゼンテーションの場と なる。工芸が美術品としてクローズアップされるのも、大量消費の先駈けと なる大衆的なマーケットの出現と無縁ではないだろう。更に芸術家の個性の 誇示。作品は作者の内面の鏡として捉えられているようだ。それ故、憂鬱・ 悲惨・過度なエロティシズム・病など、それまではマイナスの価値と捉えら れていたものが、作者の苦闘を物語る聖性を帯びたものとして積極的に作品 のテーマとされる。「新しさ」「進歩」が芸術の価値として押し出されてい くのもこの頃ではないかと思う。社会の中で「異端」として自立しようとい う気迫が感じられる。展覧会も押すな押すなの盛況だった。 今、「ウィーン分離派」の時代から丁度百年がたった。20世紀は彼らが 開いた「特権的な個性を持ち大衆を導く芸術家」というパラダイムによって 動いていたような気がする。そしてこの展覧会を見終わって、満足を感じる と同時に、自分がこのパラダイムの中にはいないことを自覚する。ぼくは、 大衆を導く、つまり大衆の上に位置する芸術家ではなく、大衆そのものなの だ。大衆が待望する芸術家ではなく、大衆の一員として表現を行いたい。ぼ くが考える「大衆」は、世の中に生きる「個々」の存在という意味である。 カップラーメンで昼飯を済ませたり、時給いくらのバイトで生活を立てたり する側の人間が、自己資本により自分の楽しみのためだけに行う表現。21 世紀の芸術は、20世紀のそれよりある意味でみすぼらしいものになるかも しれないが、より自由なものになりそうな予感がする。
2月11日(日) またオリンピックの季節がやってきた。テレビで開会式をちょっと見て、 アメリカのナショナリズムの高揚に嫌悪感を感じて即消す。始まりがこうだ とその後の競技全体が薄汚れて見えてしまうから不思議だ。日本人が活躍す るのは同郷人として嬉しいが、「日本」が幾つメダルを取ったなんてどうで もいいじゃない。競技を個々の競技者に返してあげたいですね。 先週一回「錨」の更新をサボッてしまったが、先週・今週で幾つか映画や 展覧会を見た。映画では、マルズイエ・メシュキニ監督の「私が女になった 日」が印象的だった。短編三連作のイラン映画。「女性」と認められる9歳 を迎える日の女の子の話がよかった。イランでは9歳になると男の子と自由 に遊べなくなるらしい。仲のいい男の子と最後に遊ぼうとするのだが、邪魔 は入るし、また幼すぎて別れの惜しみ方もよくわからない。その曖昧で不安 でちょっと幸福な時間がきっちり映される。おかしくもあるし切なくもある。 他の二編もドキュメンタリー・タッチでとてもいい。こんな筋らしい筋もな い「暇」な映画が、イランではそれなりに大衆に受け入れられているのだろ うか。同じくイランのキアロスタミ監督のドキュメンタリー映画「ABCア フリカ」もよかった。エイズが蔓延し、内戦で荒れたウガンダへの援助を世 界に呼びかけるために撮られた映画ということだが、とにかく美しい。官能 的なまでに美しい。貧しくても病気でも子どもたちの表情は明るく、よくは しゃぎ、よく歌う。そして民衆が歌うアフリカ音楽の生き生きとした脈動。 彼らの歌や踊りを鑑賞していると、文化というのはあちらにはあるがこちら にはもう失われかけているのではないかという気持ちになる。ただ、監督自 身がそうした貧しさの中の「美」に夢中になり過ぎて、個々の悲惨な現実の 描出が甘くなっているとも感じてしまった。これはむしろ撮っている側のた めのヒーリングの映画ということが言えるのではないかとさえ思った。 箱庭療法を思わせる抽象的なオブジェを作り続けるコイズミアヤさんの個 展も見た。今回の作品は、今までのものより個人的な情感が強く、ミニカー をオブジェに組み込んだり、花の映像を取りいれたりしている。以前よりも 変化が出てきて楽しめるアートになってきているが、彼女の作品の場合、余 り親しみやすい風情ではいけないんじゃないかとも感じた。自分の内面から 派生した形態でも、あくまである近づき難さ・日常を超えた意識が欲しい。 松涛美術館で開催された「瀧口修造と造形的実験」展にも駆け込んだ。瀧 口のデカルコマニーをはじめとする美術系の作品は結構見てきたつもりだが、 こうして集められると改めて圧倒させられる。「作品」という提示の仕方を 含め、格式張ったことが本当に嫌いだったのだなあ。社会とか自己とかの殻 が破れていく瞬間を恍惚としながら眺めていたであろう瀧口修造の心情に、 社会嫌いのぼくとしてはいたく共感してしまうわけ。作品でない表現を追求 した人がいた、ということを意識させられ、刺激を受けた。 とにかく毎日がものすごく忙しい。 一日中目をつむっていても飽きないでいられるぼくのような人間に、この 忙しさはよくない。まあ、仕事というのは生きる時間を売る行為だから仕方 ないと言えば言えなくもないが。若いうちに隠居するという夢はいつになっ たら実現するのでしょうか。