2002.3

2002年3月

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3月31日(日)
  3月も終わり。外はとてもよい陽気だったが、何となく一日中家の中で過
ごしてしまった。時々こういう「ひきこもりの日」というのがあるんですね。
ルーセルの「アフリカの印象」と紡木たくの「瞬きもせず」を交互に読んで、
合間はうつらうつらしていました。

  イスラエルが遂に「戦争」(事実上、そうでしょ)を宣言。一方的な虐殺
と思われるこんな軍事行動が、国際世論の中で許されてしまう。ぼくは小学
生の頃国連の存在を習い、各国の紛争を調停する役割を果たす、と教えられ
たのだったが、「国連」もまた「各国」から成り立つ以上、中立性を保つこ
となどできない。これは当たり前のことなのだろう。
  むしろイスラエルの国民の方が心配だ。アラブから憎しみを買うことは間
違いがないし、また、こうした過剰な攻撃がイスラエル国民のトラウマにな
るのではないかと思う。攻撃を正当化するために、今後も一層パレスチナを
悪役に見立て続け、圧迫し続けることだろう。
  日本は建前上「非武装」なのだから、こういう時調停の役を買って出るこ
とは・・・できないだろうなあ。

  国家や民族に対するアイデンティティが、個々の国民を不幸にしていると
いうふうに感じられる。一時的でもいいから戦いをやめて、「うつらうつら
する時間」を両者が持つことを提案したい。個々の人間が個々の夢の中に閉
じこもり、ひきこもり、「人間以下」の存在に成り下がれば、戦闘をする意
味はなくなるだろう。個人が巨大な虚構の共同体を背負おうとするところか
ら、憎しみと征服の意志が生まれるだろうから。

今日は徹底的に怠惰でありたいので、ここで終わりにします。


3月23日(日) 昼間暖かい日が続く。桜が満開になってしまって、4月にはもうお花見は できそうにないですね。それでも夕方になると結構気温が低くなる。ぼくは 3月の、このきりっとした寒さが大好きだ。部屋の中でもちょっと寒いのを 我慢して上半身裸で過ごしてみたりする。微かな冷気に素肌で接する緊張感 がとてもいい。 でもこの調子だと夏は猛暑になりそうだなあ。3月は雪が降る年もあるの にね。地球は温暖化に向かいつつあるのでしょうか? 昨日、紀尾井ホールにジャック・カントロフ(ヴァイオリン)とジャック・ ルヴィエ(ピアノ)のデュオ・リサイタルを聴きに行った。ベートーヴェン の3番と、サラサーテの「カルメン幻想曲」、サン・サーンスの「序奏とロ ンド・カプリツィオーソ」及び「ソナタ」、ラヴェルの「ツィガーヌ」とい う、どちらかと言うとヴァイオリンの名技性に重きを置いたプログラムだっ たが、あらゆる音が生き生きしていてびっくり。最初のベートーヴェンから して、内省的な固い演奏でなく、魚がぴちぴちはねるような弾力的なリズム が支配する演奏だった。続く曲目は推してしかるべき。「カルメン」や「ツ ィガーヌ」などで、カントロフはクラシック音楽の枠を超えるような、多彩 なアーティキュレーションを駆使。大胆にして粗削り。多少の音程の乱れは 気にしないで、それより音楽の動物的な「呼吸」を最優先する。ジプシー・ ヴァイオリンやフラメンコ・ギターを相当に研究したな、と思わせる。ルヴ ィエのピアノがまた聞き物で、奔放なヴァイオリンをぴたりと捉え安定した 土台を築くと同時に、ピアノが前に出る部分では水晶がきらめくような音で (平凡な比喩ですみません)旋律を朗々と歌わせる。いやあ、参りました( 隣りの席の人も何度も息を飲んで聞き入ってました)。 以前、作曲家の柴田南雄がこんなことを書いていた−コンクールで上位の 賞を取るのはアメリカ・ロシア・日本の若手ばかりでヨーロッパ勢はなかな か入賞できない。なぜなら、音楽先進国であるヨーロッパでは、若手の演奏 家は保守的な演奏を排して個性的で進歩的な解釈に挑戦するが、老齢の審査 員にはそれがわからない。結果として審査員が好む昔ながらの堅実な演奏を 行う非・ヨーロッパ圏の演奏家が上位に入賞してしまうのだ−と。 カントロフとルヴィエは、昔柴田南雄が「ヨーロッパの進歩派」と呼んだ ところの演奏家だと言えるのではないだろうか。二人とも、今はもう50代 の巨匠で、音楽院で教える側に立っている。こんな先生に教わるのは恐いで しょうね。何しろ先生自身が演奏に新機軸を出そうと必死に努力する「野生 派」なのだから。無難な演奏などしたら先生に蹴飛ばされるのでは?日本の 演奏家にはいないタイプだと思った。 今日はロシア映画「フリークスも人間も」(アレクセイ・バラバノフ監督) を見た。舞台は20世紀初頭のペテルブルク。ポルノ写真の撮影・販売を職 業とする男たちに翻弄される二組の家庭の話だが、あらすじはあってなきが ごとし。人々の狂乱ぶりが、セピア色の画面の中に静かにゆったり映し出さ れる、ただそれだけの映画。話題はそれなりに刺激的なのだが、映像は話の 刺激性をはぐらかすようなテンポを持っている。ロシアの「変な映画」から は目が離せない。
3月17日(日) 最近ペットボトルのミネラルウォーターを飲むことが多いことに気がつく。 昔はただの水を「買って飲む」なんてことはしなかったな。甘ったるい缶ジ ュースか缶コーヒーで喉をうるおしていた。高校生になった時くらいに「ポ カリスエット」なる「健康的」を売り物にした清涼飲料水が現れた。甘いと もスッキリともつかない妙な味にちょっとびっくりしたものだ。その流れを 引き継いだのが90年代になって登場した「ニア・ウォーター」なる妙に淡 い味の飲み物だ。これの特長は、最早缶ではなくペットボトルで売られるこ とが多いことだろう。いつでもどこでも「飲みかけて」いられる。濃い味わ いに集中しなくて済む、「飲むことを楽しむ手間」が省けるってわけだ。大 昔、コーヒー牛乳の「壜」は買ったお店に返さなきゃならなかった。買って 飲んで返す。飲む時間と場所が限定されていたから、皆それなりに「一生懸 命」味わって飲んだと思う。そして遂に「ミネラル・ウォーター」、つまり 水を買って飲む時代がきた。お金を出すと、水って結構おいしいもんだと思 ってしまうんですね。ラベルに「名水」みたいなことが書いてあるし。確か に水道水よりずっと口あたりはいいけれど、でもわざわざ買って飲むほどの ものかなあ、と思いながら格別に不満も抱いていない。あれほど好きだった コーヒーを、沸かして飲むことが最近少なくなってきたくらいなのだ。 余計な手間をかけない、集中しない、そんなだらしない方向へ、ぼくは確 実に導かれていると思うんですね。 イメージフォーラムの研究生たちの卒業製作を見に行った。2つのプログ ラムを通して見たが、「これは!」という作品には残念ながら今回はぶちあ たらなかった。ただ、興味を惹かれたものはあった。佐川佳代の「絵空事セ ミモロジー」は、セミの抜け殻を十年来集めていて、それを食べることに執 着を燃やす女の子が、抜け殻を食べ尽くしてしまってその欠乏に悩むという 話。実際にボリボリセミの抜け殻を食べている様子が執拗に映される。セミ なしではいられない、という訴えが一つの人生観として示されていくのは不 思議な光景だった。もう一つ、小潟巌の「蛸サイドの人」も面白かった。こ ちらは、どこでもかまわず茹蛸を食べる女の子の話。蛸を枕にしながらベン チに寝そべって食べたり、墓場に行って茹蛸を引き千切って立ち並ぶお墓に 投げつけながら食べたり。この子はどうやら蛸の味の「薄さ」というものに どうしようもなく惹かれているようだ。それは女の子の人生の薄さの表現で もあるのかもしれない。 これら二つの作品は、示し合わせたわけではないだろうが食の「嗜好」を テーマにしている。嗜好とは、個人的にたまたま好き、ということだから、 ここから「意味」のある普遍的な思考を導き出すのは難しいことと思うが、 無理に話を一般化せず「その人」内部の論理を語ることに徹しているので、 対象に対する「その人」なりの「意味」の持ち方が実感できるようになって いる。一般人との比較によって個が個の病理を特権的に語る、のでなく、個 が個自身について思うところを思うように語る、というスタイルで作品が進 行する。「個々」の立っている場の絶対性が突出して現れるようだとなおい いなと思った。 東京写真文化館5Fのギャラリー「STAGE」にも足を運んだ。「MY BLUE SKY」というタイトルの、文字どおり青空をテーマとしたグルー プ展だ。この場でも紹介したことのあるサイトウノリコさん、篠原俊之さん ら若手中心で、それぞれ独自の境地を競っている。今回は、天野多佳子さん という女性の作家の作品に注目した。穏やかで晴朗と思える空の中に、ほん のり影が差す感じ、と言えばいいか。何か、内面的な一人称小説の数ページ を読むような繊細さと暖かさが魅力的。「ななほし」と題された小写真集が 置いてあったので買ってみると、冒頭に詩のような言葉が書かれてあった。 ちょっと長いけど引用してみましょう。めっちゃ明るいアニメのテーマソン グがヒーリングの役を果たすなんて、面白いですね。 自転車に乗りながら知らず知らず口ずさむ歌には、 自分なりの定番がある。 友達とそんな話をした。 冬の冷たい風の中、石油ストーブの匂いのする家へと一心に向かいながら。 道の暗さに気がゆるみ、家まであと5分の郵便局までと、涙をどんどん出した 時も。 口は歌っている。 彼女には2つの定番があるという。 「おばけのQ太郎」と「上を向いて歩こう」。 りっくりっくと進む姿や、 空を見て星を引き寄せペダルを踏む姿を思った。 以来「上を向いて歩こう」は自転車に乗る時だけではなく、お茶碗を洗ってい る時や洗濯物を干す合間にも口ずさむようになった。 雲の上 空の上 さわることができないもの もうここにはないもの はるか遠くを感じていたい時は、確かにある。 日々のことごとは、順番に過ぎていく。 時には上を向いて。
3月9日(土) 鈴木宗男問題の報道が面白い。いかにも時代劇の悪役が似合いそうなお顔 立ちとふてぶてしい立ち居振舞い。公共施設に対してつけた「ムネオ号」と か「ムネオハウス」というようなかわいらしいネーミング。テレビの前の大 衆の注目を惹くために生まれてきたとしか思えない。でも、こういう自分の 欲のために後先考えずに動く子どもっぽいおじさんというのは割とどこにで もいますよね。しかも、会社などで結構高い地位についていて、無理やわが ままが許されてしまっていたりする。日本の社会は基本的に子どもに甘いの かもしれません。 青山のギャラリー「ときのわすれもの」にジョナス・メカス写真展を見に いく。メカスは私的ドキュメンタリー映画の作家で、アンディ・ウォーホー ルとも親交があった。代表作「リトアニアへの旅の追憶」は、難民としてリ トアニアを離れアメリカに渡ったメカスが、何十年ぶりかに故郷に帰った日 々を映像に収めたもの。昔と変わらないリトアニアの素朴な光景に出会い、 感激にむせんでいる作者の心の様子が、ほとんどノー編集の飾り気のない映 像を通して直に伝わってくる。 「ときのわすれもの」によると、今回の展覧会は、「ジョン・F・ケネディ の未亡人であったジャッキー・ケネディに請われ、子息のジョン・ジュニア やキャロラインといとこたちに映画を教えていた時期に撮影されたフィルム」 ということである。父親を亡くした子どもたちの心の痛みを癒すということ が目的ということだ。16ミリフィルムを3コマごとに写真に焼きつけてい く方法が取られている。カッチリした構図を成立させることを狙った「写真 作品」ではなく、生きて動いている表情が写真の外側に溢れ出るようだ。海 辺近くの別荘でのゆったりした遊びの時間を疑似体験する気分に浸れるが、 それは何か危うい感じを伴っている。この天国的な時間が「過ぎていってい る」と感じさせられるわけである。ぼくが日本人だからかもしれないが、映 っている光景は滅法明るいのに、否応無しに「もののあはれ」の感覚が迫っ てきてしまうのだ。 「ときのわすれもの」はまるで普通の一軒家のような構えの不思議なギャ ラリーで、綿貫さんご夫妻が「いいな」と思ったものをゆっくり眺めること のできるフシギなスペース。ここに来ると作品との距離がすごく短く感じら れるんですね。皆さんも足を運んでみたら?(但し冷やかしは御法度ですね)。 *宣伝ですが、来週3/16の19:00より新宿の「YESTERDAY EXPRESS」 (ミントンハウスを改名。03−3346−0696)でサルサのライブを やります。お暇な方は来てね!
3月3日(日) またイスラエルへの大規模な自爆テロが。早速大規模な報復攻撃が始まる。 インドでも宗教戦争が起きている。ぼくが心配しても仕方のないことだけど 痛ましいと言う他ない。共同体に固執する意識を捨てて、みんな、いっせい のせでタダの個人に帰ってだらしなくなれば自然と「反戦」という意識が芽 生えてくる、なんて甘いかな。 東京都現代美術館に「森万里子/ピュアランド」展を見にいく。若い女性 としての意識を突き詰め、自分をピュアで聖なる存在として仮構していく作 品群に以前から関心を持っていたが、今回の大きな展覧会では彼女の発展ぶ りがよくわかり、驚かされると同時に感動した。 彼女は自分がある「女性」の役割を持たされて社会の中で生活しているこ とを、自ら扮装し、劇化することによって表現することから創作活動を始め ている。初期の、お茶汲みのOLの扮装をして路上に立つ写真などは、企業 社会の中での女性のネガティブな役割を浮き彫りにするし、スター誕生のア イドルの扮装をして撮った写真などはメディアの中で消費される存在として の女性の姿を端的に指し示している。但し、ぼくはこのあとの展開のほうが 面白い。彼女は社会の中で「生産」を担わない(または担わせられない)存 在として「女性」を捉えていくうち、単にそこにいるだけ、そこに存在して いること自体が「女性」の価値であるとして、自己の虚構化を推し進めてい く。具体的には自分を「聖女」「天女」に擬するようになるのである。天女 に扮した彼女の周りを、琵琶や鼓を持ったキッチュな天使たちが取り巻き、 ともに浮遊する。「ニルヴァーナ」と題された3Dの映画作品は特に迫力が あった。俗悪でコマーシャル的なイメージが、逆手に取られ、奇妙に純化さ れた彼女の意識を寿ぐように流れていく。コマーシャルに対する批判と、コ マーシャリズムの中で美意識を育てられてきた経験とが同時に語られている 感じだ。森万里子は次の段階として、あの夢殿を模した「ドリームテンプル」 という奇妙な建築物の建立を考える。透明で少女マンガチックな、UFOみ たいな「寺」だが、彼女は大マジメに、それは中で独りになって瞑想するた めのものだと説明する。面白いとともに、少しニューエイジに傾きすぎて危 ないかなあとも思う。 いずれにせよ、女性である自分という存在は消費社会の影に過ぎないと絶 望することから創作活動を始めてから、それを逆手にとって消費社会を主体 的に生き延びていく方法を模索していく変化が、手に取るようにわかる。女 の人ってたくましいものなのだなあ、と素朴に考えさせられたのだった。 東京都現代美術館ってなかなか面白いところですね。海外で認められたと は言え、新人アーティストをこんなに大きくフィーチャーするなんて。家族 づれで来ている人も、外国人のお客も、楽しそうに見ていた。スペースも広 々としているし、図書館も充実している。皆さんも一度は訪ねてみたら?