2002.4

2002年4月

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4月21日(日)
  美術展を立て続きに見て終わった休日。

「アンセル・アダムズ生誕100年展」(東京写真文化館)は、第二次世界
大戦中にマンザナー日系人収容所の様子を写した作品群を中心に初期から晩
年までの主要作をチョイスしたもの。いつもながらのことだが、ここの企画
展は意図がハッキリしていて気持ちがいい。アダムズの作品は雄大な風景を
撮ったものしか知らなかったが、生活を撮った写真もそれに劣らず感動的だ。
不当な扱いに耐えながら明るさを失わない戦中の日系人たちの表情がいい。
アダムズは人でも風景でも、基本的に「崇高なもの」「畏敬の念を起こさせ
るもの」が好きなんだろうな。おめかししてただ笑っているだけの少女の無
邪気な顔が、高貴な世界の写像のように見える。若い看護婦さんの肖像写真
もいい。いかにも「この人仕事できるんだろうなあ」と感じさせる、自信あ
りげな口の結び方、まっすぐな眼差し。対象に対して跪くように写真を撮り
続けた、宗教家のような芸術家、という気がする。よっぽど「その気」にな
ってノッて対象に向かうのでない限りああいう写真は撮れないでしょうね。

「日本に伝来されたインドの神々」(大倉集古館)は、古代から幕末までと
いうスパンで、日本に渡ってきたり製作されたりした、インドの神を象った
美術品の展覧会だ。非常に艶めかしく、刺激的だ。当時の最先鋭のモードの
感覚が結集されているのだろう。信仰よりも、ギラギラした人間臭さを感じ
させる。男女が交接する姿を描いたタントラ密教の彫刻作品などは、当時は
日常的に作られ、拝まれていたらしい。むしろ人間臭・生活臭を発する元と
なるものこそが宗教というものだったのではないだろうか。宗教の機能が今
とは全然違ったのだろう。美術館を出る時、神々の息の生臭さに当てられた
感じがして少しフラッときてしまった。

「カンディンスキー展」(東京近代美術館)は、初期から抽象表現に向かう
までの1900年〜1920年に焦点を置いた企画展。初期のものはロシア
の民画の影響も強い。あの色彩感覚は、彼が育ってきた環境と密接な関係が
あったんですね。ロシアの民俗的な感覚が、印象主義を知ることによって先
鋭化され、1910年代に入ると大作の抽象画「コンポジション」の連作を
生み出すようになる、ということになるわけですね。独自な作風を確立し始
める直前の“模索”の時期の絵が本当に魅力的。具象と抽象の間を行ったり
来たりしながら、理念が、個々の体験の記憶と戦っている感じだ。後期の作
品の、完全に理念が勝った抽象画よりもスリリングな感じさえする。ストラ
ヴィンスキーの初期作品にも通じる、民話的な豊かさがあるんですね。大成
した芸術家の青年期の作品というのは習作扱いされがちだけれど、どうかす
ると成熟期の作品以上に製作の意図がダイレクトに伝わって感動してしまう
ことがある。

  製作の地域も時代も何もかもが違う展覧会を3つ通して見たわけだが、入
れ物である「美術館」はそれほど異なるものではない。窓口があって、監視
員がいて、白い壁があって、説明書きがあって・・・カンディンスキーやア
ダムズはともかく、16世紀のチベットの仏像たちはこんな場所でじろじろ
どこの誰とも知れない相手に眺めまわされるなんて想像だにしなかったこと
だろう。アダムズの収容所の写真だって、当事者たちが手に取りながらわい
わい言いながら見るのと、ぼくの鑑賞の仕方とは大きな差が出てきてしまう
だろう。科学の世界では実験の「観測」の方法が大きな問題になっていると
いうことだが、芸術の世界でも「鑑賞」の「方法」が問題にされなければな
らない、と思う。白い壁とガラスケース、作品と作品の間の均等な距離、料
金、こんなものが本当に必要なのだろうか。作品との接触を阻害するものと
して機能してしまうことはないだろうか。

  ところで、勇気を振り絞って「古代中国料理」の店に行ってきましたよ。
狭くて汚くて隅のほうに雑誌が積み重なっていて、という感じ。とりあえず
中華丼を頼みましたが、どう考えても600円以上はしないような貧相な一
皿が1000円もしました。やあ、参りましたね。もしかしたら具に龍とか
麒麟の肉が入ってるかなとも思いましたが、よくわからなかったです。傑作
なのは、水はセルフサービスになっているのだが、わざわざ製水器の説明が
貼り付けてあること。「NASAが開発した製水器で、純水です。大事に
お飲みください。コップをすすいだりなどしないでください」だって。横に
宣伝用ポスターまで貼ってある。これ、せいぜいNASAでも使用されまし
た、程度のどこにでもあるものじゃないかな?
  でももしかしたらこの「古代中華料理」店はNASAと密かに関係がある
のかもしれませんよ。NASAはタイムマシンを作り上げることに成功した
のかもしれません。古代まで時間旅行をしたものの、その成果を世間に報告
したら大混乱を招く心配がある。でも何もしないのも淋しいから、そこで、
太古の生物の肉を持ち帰って、中華料理の素材に少量忍び込ませる、という
ことをしているかもしれない。NASA直営の中華料理店がこんなトコにあ
るなんてオドロキですね。誰かこれをネタにSF小説でも書かないものでし
ょうか。

4月15日(月) 昨日は松涛美術館で「雪村展ー戦国時代のスーパーエキセントリック」を、 その帰りにユーロスペースで「上海アニメーションの奇蹟Aプログラム」を 見て、オリエンタルな一日を楽しんだ。 雪村は16世紀の水墨画の名人で(水墨画っていうのは何となく「名人」 という呼称が似合いますよね)、禅僧でもあった人。雪舟を思い出させる経 歴と名前だが、雪舟ほど禁欲的でなく、興味のあるものを興味の趣くままに ぐいっと描くという感じ。入口入ってすぐの「呂洞賓(りょどうひん)」と いう竜に乗った仙人の絵でもう、震えがくるほど感動する。上にも下にも底 というものがない虚空。その巨大な虚空と対峙する体感が、びりびり乗り移 ってきそうだ。丸く開いた目と口、ぴんと張った髭が「身体の緊張感」とい う概念そのものを「擬人化」する、とでも言っておこうか。この絵に限らず、 全ての作品に事物だけでなく、動きと、揺れと、時間が記録されている。静 止した岩や果物を描く時でも何か揺らめく力動感がある。ましてや、池でぴ しゃぴしゃはねている鯉の描写など、水の中に引き摺り込まれてしまいそう なほど迫力がある。セザンヌの静物画には、果物を描いて果物を超えた抽象 的な美を表現してしまう凄さがあると思うが、雪村の絵では、果物なら果物 自身が、自らそうありたい果物の姿を勝手にどんどん追求していっている感 じである。つまり滅茶苦茶具体的なのだ。描かれたものは十二分に画家の個 性を顕わしているが、それ以上に、描かれる前には思ってもみなかったそれ 自身の個性がぬっと空気から生え出ているように見えるのだ。 「上海アニメーションの奇蹟」は、60−70年代に製作された中国のア ニメーション映画を集めたもの。ぼくは中国のアニメが大好きで、このプロ グラムでも幾つか見たことのある作品が混じっていたが、こういうものなら 何度見ても見飽きない。本来は子どものための映画なのだが、創っている人 が心底楽しんでいる様子がうかがえる。動物が出てくる作品が多く(という よりそればかりだったが)、よくよく観察しなければこうは描写できないだ ろうなと思えるような細かい仕草が描かれる。そう、仕草だ。頭の中で何度 ひねくり回しても出てこないようなナマな仕草が随所に顕れるのだ。水牛の 首のひねり方や、小鹿の前足の傾げ方、現実の中に身を置かなければ出てこ ないような唯一無二の仕草の描写が、おとぎ話の空間に現実味を帯びさせる。 動物の描写の延長線上に人間という動物の喜怒哀楽も描写されていき、両者 の間に段差が感じられない。見とれていると、登場人物たちの、動物として のまるまるした存在感を抱き締める感覚に襲われる。別れをテーマにした「 琴と少年」と「鹿鈴」は何度見ても泣けますね。共産主義の政権下において、 与えられた予算内で楽しんで創られた映画。商業主義と無縁で創りたいもの を創れたからこそ出てきた味という感じがする。だからといって、共産主義 がいいということにはなりませんけどね。 雪村も上海アニメーションも、「動き」に対する関心がものすごい。動か ない岩であっても、時間という揺らめく波に常に洗われていることが実感で きるような描き方をとっている。自己を他者の中に絶えず投げ出し、絶えず 開放させていく意識。啓発されるものがあった。 ところでぼくが住んでいる近所、祐天寺と学芸大学の中間に、「古代中国 料理」という看板を出しているラーメン屋さんがある。「古代」ですよ。外 から覗くとどってことない普通の店みたいに見えるが、実は龍の蒸し焼き料 理なんてのがメニューに載っているのかも。一度入ってみたいのだけれど恐 ろしくって一人では入れない。誰か一緒に行ってくれる人いますか?
4月7日(日) 異様なほどの陽気が続く。桜はもう完全に葉桜だ。慌ただしいのは自分や 世間だけではないらしい。 みずほ銀行のシステム・トラブルがなかなか収まらないようだ。ぼくも預 金口座を持っているので心配になる。前々からわかっていることなのだから 万全の準備で臨めばいいのに、と思うが、企業側の都合で調整がギリギリに なってしまったらしい。一般客をバカにしたこうした態度に対して、みんな もっと怒るくせをつけておいたほうがいいのだろう。明日になったら早速預 金の一部を別銀行の口座に移すことに決めたのだった。まあ、こんなことを したからといってみずほが困るとは思わないけどね。 冬目景の漫画『羊のうた』が映画化されたので見にいった。愛しい者の血 がたまらなく欲しくなる奇病を抱えた姉と弟が絶望にかられながらも必死に 生きていくという話。一種の吸血鬼もの≠ネのだが、原作はこういう物語 設定の異常さを殊更強調することなく、ひたすら丁寧に各人の心の綾を描き 進めている(漫画の方はまだ完結していない)。雰囲気としてはむしろ淡々 とした感じなのだ。冬目景の作品は皆、登場人物と作者の距離がとても近い。 読んでいると作者の息が降りかかってきそうだ。 映画にこの独自な近さ≠期待するのは無理ということはわかっていた が、それにしてももう少し深みのある影をつけられなかったか。物語を気分 的なものに捉えすぎていて、センチメンタルに陥ってしまっているのだ。 筋を追っているだけの型通りの「ドラマ」ができあがってしまっている。本 来、人間の心の中の繊細な葛藤を目に見えるものにするためにドラマという 外枠がつくられるのであるが、多くの場合、ドラマが先行して、個々の人間 の心的状態の方が、ドラマに付随するものに成り下がってしまう。病気が顕 在化した少年が、家出を決意するあたりの経緯がこれでは全くわからない。 うるさく鳴り響くノスタルジックな音楽も気に入らない。 ドラマを面白くするための条件として、まずドラマを排除し、素材を現 実≠ニして考えることが重要だと思う。現実≠ノはアイドル少年・少女も いなければ、BGMもかかっていない。ただの個々の事象の列なりがあるだ けだ。そのただの事象が意味を生んでいくことが重要なのだ。 美波という新人の女の子の演技が多少印象に残った。 引越しをしたい気持ちにかられるが、引越しにかかる面倒を思うと決断し きれない。ぼくはここにもう7年もすんでおり、いい加減手狭なのでよそへ 移りたいのだが。どうやら引越しの成立に関して、いい物件よりも、またお 金よりも、ぼくが自分自身のものぐさに打ち勝てるかどうかの方が重要であ るようだ。
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