2002.5

2002年5月

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5月19日(日)
  北朝鮮の亡命希望者に対する日中の対応が問題になっている。外国の大使
館なのに自国の路地であるかのように横暴に振る舞う中国側も不思議だが、
亡命者を邪魔者扱いするかのような日本側の冷たい対応も不思議。でも、こ
れは実は日常的な風景なのかもしれない。秩序に刃向かう者に対する過剰反
応と事勿れ主義。特に日本側は、「面倒に巻き込まれたくない」感じがあり
ありである。ヨーロッパでは新右翼主義が台頭してきているということだし、
アメリカ・アラブは言わずもがなの物騒な国勢だ。一方では「国の主張」を
示そうとして国家主義・民族主義に走るし、もう一方では争いに巻き込まれ
たくないばかりに無関心を決め込んだり同盟国に追随したりする、というこ
となのでしょうね。全世界的に、エリートをもっと大事にしなくちゃダメだ
な。インターナショナルな頭を持ったエリートを。

  大混雑の中を掻き分けるようにして、「雪舟展」(東京国立博物館)を見
た。さすがは最終日。地方から出てきたらしいおじいさん・おばあさんから、
金髪頭のカップル、外国から来た観光客まで、とにかく見物人はバラエティ
に富んでいる。無理もない。何しろ「これを見逃せば次は50年後」だそう
なのだ。確かに学校の教科書などで見たことのある雪舟の主要作品はそろっ
ている。海外の美術館に声をかけまくるなど、大変な苦労をしたであろう主
催者に頭が下がる。
  この展覧会、雪舟の名画がずらりと並んでいるだけでなく、企画展として
も実によくできていると思った。雪舟が手本としたであろう中国の水墨画作
品や、同時代人の関連作品などが要所要所に並べられている。彼が「孤高の
天才」などではなく、時代にもまれながら喜びと迷いの中でじっくり創作し
ていた様子が漠然とだが理解できる感じがした。
  雪舟というと禁欲的な山水画の名人というイメージを思い浮かべてしまう
のだが、決してそうした枠に収まる活動をしていたわけではなくて、平常心
の遊び心を基調としたものもたくさんある。中国に行ったおりに、さらさら
といった感じに描いた異国の人々や動物の絵などは、まるで「かわいいイラ
スト」である。花鳥図もいい。ざわざわした自然の音が聞こえるようだ。お
どけた調子の仙人や鬼の絵も楽しい。ぼくは、初期の溌墨画(風景を細部ま
で描かず、落とした墨の具合で風景を連想させるもの)の溌剌とした抽象性
を特に面白いと思った。イメージへの思い入れ一発で描きました、といった
感じの荒々しさが小気味よい。もちろん、あの面と面が厳しく向かい合う円
熟期の山水画もカッコいい。
  機会と気分に応じて描き方をコロコロ変えながら、ある清々しい清潔感が
一貫して在る。見物客の反応を窺うと、混雑にうんざりしながらもウキウキ
絵を楽しんでいる様子だ。指さしながら「あれ面白いじゃん」なんて言って
いる。絵で深遠な思想を語っていくというのではなく、対象に向かい合う際
の異様に新鮮な気分を語っていくというのが雪舟−これが今回の印象だ。室
町時代の作品にも関わらずすごく臨場感がある。
  創作者の中で、対象とイメージと画材が交差して火花を切らす時間という
ものがあり、その時間の身体性が残された絵から濃厚に窺える。こんなふう
に「時間」を共有できる詩を書いてみたいものだ。

  ところで、一週間前のことだが、代々木公園で「タイ・フードフェスティ
バル」というのをやっていた。全国の200近くのタイ・レストランが屋台
を出していて、こちらも大変な混雑ぶりだった。タイの料理ってのは面白い
ですね。最初にちょっと辛くて、三秒くらいあとにもう一度、最初の三倍く
らいの辛さが口の中に広がる。その刺激の複雑さがたまらない。カレーを何
食か味わってみたけれど、似通った味は一つとしてなし。店ごとに個性があ
るんですね。個性の主張に触れると開放的な気分になれる。来年もまた遊び
に来たいものです。


5月4日(土) 久しぶりに「5月の連休」を人並みに休める年となった。去年はせっせと 出社してましたからね。でも特に大きな予定のないぼくは、美術館と自主制 作映画の祭典「イメージフォーラム・フェスティバル」に通う。どうもこれ だけで休みが終わりそうだ。 上野の西洋美術館で見た「プラド美術館展」は、美術における国家の力の 存在の大きさを思い知らされた展覧会だった。スペインが覇権を握っていた 頃、15〜17世紀の絵画が中心。金をふんだんに使って多くの画家を抱え 込み、またヨーロッパ中から呼び集め、贅沢な肖像画、宗教画、静物画を描 かせまくっていた人たちがいた、ということ。画家の方も依頼主を満足させ るだけではない。経済的な安定をいいことに様々な実験を凝らしていく。今 で言えば、大企業がスポンサーについているようなものなのだろうが、当時 のスペインの王侯貴族は現代の企業主より遥かに太っ腹だったようだ。「企 業イメージ」の向上などに心を砕くこともなく、斬新な絵を見たいという個 人的な欲望をギラギラさせていたようだ。ベラスケスの肖像画など、人物の 優美さを際立たせることより、人物を題材として構図の抽象的な美を追求し たものに見える。肖像画を発注した貴族たちもその奇抜な出来栄えを楽しん でいたのではないか。 権力が美を支配したのか、その逆なのか。ふとそんなことを思った。 イメージフォーラム・フェスティバルは今日で5プログラムを見たところ だが、今年は例年よりやや力が落ちる感じがした。どうも技術的に洗練され た芸術志向の強い作品に光が当てられがちで、八方破れな面白さを感じさせ るものが少ないようだ。特に海外作品はおとなしい印象。個人映画も現代詩 みたいに一定の好みと美意識が支配することになってしまわなければいいが。 その中で印象に残ったものは、鈴木志郎康さんの「山北作業所」である。 前作「極私的にEBIZUKA」と同じく彫刻家の海老塚耕一氏を撮ったものだが、 前作が主に出来上がった作品を通して海老塚氏の創作に対する考えを語った ものであるのに対し、今回の作品は海老塚氏の創作過程を念入りに撮ること によって「彫刻」ひいては芸術というものの存在の意味について考えていく ものになっている。木を素材とした「浮遊する水-風との対話」とガラスを 素材とした「詩人の風景より-風」の巨大な作品群が、まるで町工場のような アトリエ(海老塚氏は作業所≠ニ呼んだほうがいいと言う)で作られてか ら、大阪明治生命館に設置されるまでを時間をたっぷり使って撮っている。 普通彫刻作品の、制作から納入に至る過程を見る機会などないだろう。美術 家というより「工場の親父」(海老塚氏の言葉)のような手堅く力強い手つ きで素材がみるみる輝きを増していく。海老塚氏にとって彫刻とは、個人的 な感情を表現するものではなく、素材に本来備わっている美しさや豊かさ( 錆や腐乱も含めた)を十全に引き出すことである。それを海老塚氏は「言葉 の外側にある世界」を表わしていくことだと言う。 アトリエを作業所と呼び、一見言葉を排した世界で淡々と創作をしている かに見える海老塚氏に志郎康さんが執拗に食い下がり、生活の要を超えて素 材の加工に没頭することのできる時間を持つことの主体性に着目していく。 彫刻は、製作者が目の前にある障害物を克服する悦びを味わう過程の産物で あり、「物であって物ではないもの」ではないかという結論に達していく。 作品の送品から設置までの過程も細かく撮られている。大勢の作業員たち が創作者の要望を満たすために働くことになるわけだが、その現場では彫刻 は徹底的に「物」として扱われる。作者にとって日常から脱する行動の産物 としてある彫刻が、運搬・設置の業者にとっては「物」となり、更にそれを 鑑賞する人々にとっては「文化」になるのだろう。作品というものが持つ様 々な意味合いが露わにされ、考えさせられる。 この営為の多面性は、芸術表現だけでなく、人間の生活一般に応用できる ものではないだろうか。例えば「労働」は、「お金を稼ぐ手段」でもあり、 「生きがい」でもあり、その人間の「ステイタス」を保証するものでもあり、 その子どもたちにとっては親の存在を社会関係の中で受け止めるための指標 でもある。人間は絶えず「物」「概念」「時間」の全てに関わって生きてい て、ある事象のある側面が大きく見えてしまうと別の側面の重要性が見失わ れてしまうことがある。この映画は、見る人に、物や事象の背後にあるもの に対する想像力を研ぎ澄ますことを呼びかけているように思えてならない。 なお、欲を言うと、海老塚氏は素材について考え抜く芸術家なのだから、 素材を選ぶ場面が見たかったのと、表現が多くの手を借りて作品として実現 する際の経済的な側面についての言及が欲しかったな、と感じた。 同じ職場で働いている斎藤宣彦さんも来ていた。彼は学生時代、志郎康さ んの指導で詩を書き、「ネダヤシコヤシ」という同人誌まで出していた。狭 い職場に詩人が二人もいるなんて不思議ですよね。ぼくのサイトに投稿して よと言ったら、いいよ、というお返事だったので、もうすぐ皆さんも読める かもしれません。 4日の夜は、池袋のジュンク堂で詩人・関口涼子さんと吉増剛造さんのト ーク・セッションを聞いた。吉増さんが、神がかったような、いわゆる「吉 増調」の朗読をせず、詩句を舐めるように読んでいたことと、関口さんがフ ランス語と日本語の二カ国語を使って詩を読み書きすることに対する意識を 語っていたことが面白かった。二カ国語の使用によって各々の国語が別の可 能性を見せるということ。国際化というのは大袈裟なことじゃなく、詩が好 きな人がボーダーレスに集まることになってきているようだ。このボーダー レスの「質」を、関わる人たちが愛を持って問うことが求められる時代にな ってきているのでしょうね。吉増さんがどこにでも銅板を持ち歩いて詩句を カンカン彫っているというのは本当だった。あの人は詩と日常の境がないん じゃないかなあと思わせる怖さがありますね。大入り満員で、ジュンク堂の 方、お疲れ様でした。
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