2002.6

2002年6月

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6月22日(土)
  サッカーのワールドカップが大詰めに近づいている。日本は負けてしまっ
たけれど全体の熱気は高まってきていているようだ。前回の日記では民族的
な盛り上がりが気持ちいい、というようなことを書いたが、勝負に神経質に
なるばかりに相手国をなじったりするようになるといささか事情が違ってく
る。例えば皆、サポーターの異様な盛り上がりの中で勝ち進む韓国チームを
褒めたたえたりしているけれど、ぼくは何か気味悪さを感じてしまった。そ
こまで「自国」の勝利に拘る必要はない、と考えてしまうわけ。勝ち負けに
一生懸命になるばかりで、個々のプレイなど味わっていないのではないか。
ゲームだから応援するチームがあってもいいけれど、それより目の前で繰り
広げられる一流のプレーヤーたちの妙技を楽しむほうが先だと思うのは多分
ぼくが非国民だからなのだろうけど、それにしてもね。「敵」チームのプレ
ーヤーの閃きある一蹴りによって自国チームが負けたっていいじゃない。残
念がる気持ちを感嘆する気持ちが上回るくらいでないと、スポーツ観戦は面
白くならない。つまり、「通」になれない。今日の韓国−スペイン戦など見
ていると、観衆の神経質な熱気が審判に重要な場面でミス・ジャッジを誘う
ようなことまでさせている、と感じられた。アジアのサッカーが勝ち進むと
いうのは嬉しいことだが、勝ち負けだけに拘るような余裕のないムードはご
めんこうむりたい。クールすぎると見られているであろう日本代表の選手の
方が、反省すべき点は反省して前向きに物事を考えているようで、ぼくには
好ましかった。舞い上がりきらないこのニヒリスティックな性格は、日本人
のいいところだと思うのだけれど、どうでしょう?

  「マン・レイ展」を見に東急Bunkamuraミュージアムへ。マン・
レイの写真は、本で見るとアイデア一発!というふうに見えなくもないけれ
ど、こうして本物のプリントを見ると深みが感じられてすごくいい。人間で
なく光が捉える世界像の数々がここにある、という感じだ。人間が接する現
実・人間が考える観念の二項対立が、光学装置というフィルターによって相
対化され乗り越えられていく。視野を切り取る主導権を光に受け渡すことに
より、人間が人間を捉えることの限界点が押し広げられた、とでも言ったら
いいか。マン・レイの手にかかると、写真というものが、対象を媒介とした
光の自画像のように思えてくるから不思議だ。そのくせ、シェーンベルクの
肖像写真などは、被写体の人となりをこの上なく具体的に表わしているよう
にも見えてくるのだから更に不思議。
  それにしてもフランスのシュルレアリスムの人たちというのは皆非常に「
社会性」のある人たちばかりに見える。社会に働きかけることのスキャンダ
ラスな効果というものをよくよく計算して、芸術家の立場の向上に繋げてい
く。メディアや資産家たちとの付き合いがとてもうまい。これは悪口ではな
い。芸術家が生活権をしっかり主張する社会なのですね。

  風邪がなかなか治らなくて困っている。ぼくは気管支が弱いので咳が止ま
らなくなってしまうんですね。体調が悪い時は家に篭もるに限る。引き篭も
っていると結構幸せを感じてしまう。ますます困ったものです。


6月15日(土) ゆるゆると風邪気味の体調が続いている。梅雨というのは暑いんだか寒いん だかわからない天候ですね。皆さんも注意しましょう。 サッカーの話題で持ち切りの6月。日本は一次リーグ突破の快挙。オリン ピックの時にはこの上なくいやらしく感じられたナショナリズムの高揚が、 ワールドカップだと余り気にならないのはどうしてだろう。多分、オリンピ ックの場合、抽象的な「国家」のレベルで事が運ぶのに対し、サッカーのワ ールドカップの場合は、もっと身近で具体的な「地域」のレベルで競技が運 営されているからだと思う。近しい者を応援する、という感覚が迫ってくる わけですね。だから自国の試合のある日は休みにする会社も出てくる。まあ、 ぼくはたいして熱狂しないほうだが、こういう地元のお祭り感覚を主体とし たスポーツ観戦というのはなかなかいいんじゃないかと思う。日本人も感情 の表わし方が随分と素直になってきた。まだ、練習中という感じもするが。 日本代表が健闘しているのには驚かされる。素人目に見ても、前回から比 べると試合運びのうまさに格段の進歩がある。でも別に日本が勝てばいいと いうわけではない。強くて運のあるチームが上位に進むだけだ。結果よりも その過程を、きちんと、じっくり、楽しむことが重要だろう。 先週の話だが、大学のJAZZ研時代に先輩だったサックス奏者の野口宗 孝さんの墓参りに行ってきた。野口さんはすばらしく個性的なミュージシャ ンで、いろいろな人から評価を受けていたが器用でないところが災いしてか 仕事の依頼は多くなかった。それでもだんだん認められてきたという矢先に 癌にかかって36歳で亡くなってしまった。8年も前のことだ。 JAZZ研のOBたちと横浜霊園に向かったわけなのだが、しかしつくづ くあのクラブはスゴイ人ぞろいだったのだな、と思った。何しろ、墓に辿り 着くと、おもむろにソプラノサックスとピアニカを取り出してジャムセッシ ョンをしだんすんだから! 周りのお参りの人に迷惑にならないかと思ってヒ ヤヒヤしましたよ。日本酒狂いの西沢さんは一升瓶を2本もその場で空けち ゃうし。その後江ノ島に行って2次会をしたが、宴会の席でも大騒ぎ。カラ オケで歌を歌いつつ、またサックスとピアニカで伴奏をつける。しかもそれ が異様にうまい。歌を歌ったあとすぐソプラノを持ち直して間奏を気持ちよ さ気に吹いている藤岡さんとピアニカでやたら凝ったフレーズを連発する安 部さんという二人の先輩は、学生時代で時が止まっているといるとしか思え なく、40歳が「不惑」であった時代の終了を告げるもののように思えた。 料理を運ぶ従業員の人が大騒ぎぶりに笑っていましたね。 野口さん、みんな何とか楽しく生きているようです。
6月1日(土) 風邪気味で丸一日家の中にいた。柄谷行人『初期論文集』(批評空間)読 了。ボールドウィン論が特に面白かったが、最初の「思想はいかにして可能 か」という論文の「思想家は自己を相対化してしまう現実の秩序と生活の地 平に耐えねばならぬという恐ろしさを見極めようとする所からのみ生まれる」 という前提はどうかなあ、とも思った。こうして考えられた「自己」は思想 家としての抽象化された「自己」に限定されてしまうのではないか。これだ とどんな対象も固定化された思想家の「自己」の中で処理されることになっ てしまう。対象への興味を通じて思想家の「自己」自体が変化するものにな っていったほうがいいのではないかなあと思った。 狂言役者茂山千之丞の『狂言じゃ狂言じゃ』(晶文社)も読み終わった。こ ちらは狂言に関するやさしい口調の入門エッセイだが、示唆を受けるところ が多かった。情感から入るリアリズム演劇に対し、「外形的には無味乾燥に さえ見える伝承された虚構的な型」の習得によって初めて「自然とその時の 情感が心に宿る」古典演劇の違いを述べた一章が面白い。定型によって日常 の感情がしっかりと伝わるものになる、のではなく、定型を通して日常の感 情を別次元から捉える面白さが出る、ということ。演技者・観客・話の中の 登場人物の三者が三者とも、日常から切り離された表現上の時空で出会うス リリングな瞬間の魅力を具体的な例を多く出して語ってくれている。型によ って共同体の秩序を強化するのでなく、型によって日常的な秩序から脱して 自由になるきっかけを共同体の成員に与える、ということなのですね。 サッカーのワールドカップが始まった。フランスを下したセネガルの選手 がダンスをするような仕草で喜んでいる姿が印象的だった。人間が感情を剥 き出しにする様は面白い。「国家」や「民族」という枠組を利用して人間た ちが喜怒哀楽を発散させているのだ、と思った。こういう競技で日本人が優 位に立てるかな?