2002.6

2002年7月

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7月28日(日)
  暑いですね、東京は。みんな一斉にクーラーを止め、パソコンの電源を
落としたら少しは涼しくなるかもしれないけれど。文明が進めば進むほど
生活が快適でなくなっていくというのは不思議だ。子どもの時は扇風機も
ろくにない中をよく元気に過ごせたものだと思う。ちょっとした微風がこ
の上なく涼しく感じられたあの時の皮膚感覚はどこへ行ってしまったのだ
ろう。

  東京都庭園美術館にソニア・ドローネ展を見に行った。カンディンスキ
ーと同時代の、ロシア出身でやはり抽象画を目指した女性の画家。だが、
作品から受ける印象の何と異なることか!  カンディンスキーが抽象的な
「作者の精神世界」を言わば「具象化しようとして」抽象絵画に向かった
のと対称的に、彼女のほうは具体的な自分の生活世界を、やはり具体的な
「色たちの生活世界」に次元を置き換えることで制作を進めていたように
見える。まるで血の通った色の肉体が、キャンバスの上で楽しげにダンス
をしているかのようだ。抽象的なタイトルのついた、一見ロシア構成主義
風の紛れもない抽象画が、少しも抽象的に見えないのは驚きだ。生活と対
立した超越性を表現するのでなく、日々の日常的な生活にいつも生き生き
とした超越性を感じながら絵筆を取っていたのだろうか。
  それにしても、この庭園美術館というところはいつ来ても面白い。アー
ル・デコ様式っていうのかな? ぼくはこういう古い、折れ曲がった、かく
れんぼに最適といったような空間が昔から大好きなのだ。  


7月14日(日) どうも疲れが溜まっているようだ。金曜日に久々に自律神経失調を起こし てしまい、会社の長椅子の上で2時間ほど動けなくなるという事態を引き起 こしてしまった。職場の皆様、どうも申し訳ございませんでした。自律神経 がおかしくなると、自分の体や周囲の風景が正常な位置関係になく、浮遊し 流転しているかのような感覚に襲われる。「早く帰ってください」とも言わ れたが、帰ろうにも症状が治まるまでまともに歩けないわけ。船酔いにかか ったような状態になり、昼間食べたものを残らず吐き出してしまった。 まあ、疲れすぎないようにとの体の警告だと受け取って土曜日いっぱい寝 て過ごし、今日は元気になれた。ところで、もちろんこんな状態にならない に越したことはないにせよ、自律神経失調ってちょっと面白い病気ですよね。 三半規管がちょっとおかしくなるくらいで、周囲の現実世界が健康な時とま るで違ったものに見えてしまう。逆に言えば、健康の時に感じている現実の 安定性は、自律神経の努力による「仮想現実」だということではないだろう か。生命体としてのぼくたちは、周囲の現実を「確かなもの」に必死に加工 する身体の見えない働きによって危うく支えられているに過ぎないのだろう。 ともあれ、急病のせいで会社の送別会に出席できなくなってしまった。G 田さん、Y田さん、お疲れ様でした今までどうもありがとうございました。 有楽町スバル座に中国映画「きれいなおかあさん」(スン・ジョウ監督) を見に行った。難聴の子どもを小学校に入れようと必死で奮闘するシングル・ マザーの話。子どもに言葉を教えるために、無学な母親があらゆる努力をす る。知能は低くないが、言葉の音声と意味がうまく結びついていない息子に 対し、日常のあらゆる場面で、「赤い」とか「花」とかいう基本語を発音さ せながら覚えこませる。母親は子どもの教育のためにせっかく勤めていた外 資系の会社もやめてしまうのだ。主演のコン・リーがノーメイクで演技し、 愚かで愛情溢れる母親像を見事に描き出す。 母親が配達している新聞を盗み取られ、一生懸命取り返しに行った子ども を母親が抱き締めた時、子どもは今までうまく発音できなかった「花(ホァ) 」という単語を明瞭に口にすることができるようになる。この場面はとても 感動的だった。言葉は物と一対一の対応で冷たく結び付けられているもので はなく、それが口にされる場面や口にする相手の愛情の度合いによって意味 が決定されていくことを示しているのだろう。「難聴」という切り口で、場 や愛情との関係で生きたり生きなかったりする言葉の不思議というものを、 ごく自然に浮かび上がらせた佳品だと思った。
7月6日(土) 田中康夫知事の不信任案が可決された。気持ちの悪い出来事でヤになりま すね。ぼくは別に田中知事のファンではない。「脱ダム宣言」に対しても、 ダムのプラス面マイナス面を考え抜いた上での判断なのかどうか疑わしいと 思っている。工事が既に進んでいるダム計画を白紙に戻す割には、その根拠 の説明が足りなすぎるじゃないかなあ。議会に対してすぐに喧嘩腰になって しまうのもどうかと思う。対立の構図を作り、孤軍奮闘で戦っているイメー ジを県民に見せて人気取りをしているようにも感じられた。知事室をガラス 張りにしたところで政策を明確に説明していることにはならないでしょ。 それにしても、だ。知事の政策に対してきちんとした議論の場を作りもし ないでいきなり不信任案とは。人間の、権益を守りたい欲望というのは実に 強い。経済規模が小さくリベンジの機会が限られた地方の場合、一定の権益 を得たらそれにしがみつくしか成功への道はないのか。 一方はイメージ作りに、他方は権益の保持に、力の全てを注ぎ込んでいる。 県民はもっと自分自身のことをわがままに考えないと、いつまでも「先生」た ちのカモにされちゃうよ。 話題の歌手元ちとせのCDを全て買い、聴きまくる。いいですね。有名に なった「ワダツミの木」だけでなく、他の歌も聴いてみてください。ジョニ・ ミッチェルやジミ・ヘンドリックス、キャロル・キングの作品を歌った録音 もあるが、オリジナルを圧倒するほど、完全に自分のものにして歌っている。 たいした才能だと思った。この人は歌謡曲の歌手ではないね。日本では珍し い「ワールド・ミュージック」に分類される音楽の歌い手だと思う。奄美の 島唄を「声楽」としてきちんと修めた上で、個人の感情表現を行っている。 バックのミュージシャンもそのことがよくわかっていて、彼女の発声法にマ ッチした感じのアレンジで演奏を行っている。彼女の歌が独自だから、それ に合せたリズム・セクションの動きも独自だ。うまくはあっても、出来合い のリズム・セクションにアメリカン・ポップスをコピーした歌唱を乗せただ けのような宇多田ヒカルの音楽とは大違い。元ちとせの場合、何を歌っても 歌が根づく土壌の個性が豊かに感じられるのである。ヴァイオリンの弾き語 りという独自なスタイルで有名なハンガリーのイヴァ・ビトヴァみたいな歌 手になるでしょうね。でも、余り欲はないようで、いつかは奄美に帰りたい そうな。そういうところも気に入ってしまう。島唄を歌った15歳の時のカ セットテープも購入。こりゃやっぱりホンモノですね。 松涛美術館で「百面の能面」展を見る。能面をじっくり見たのは初めてだ が、とても面白い。ある感情を強烈に表象してはいるが、特定個人の感情を 表わしてはいない。役者によって生きた表情を吹き込まれるのを待っている のだろう。その“待ち“の緊迫した時間が能面の上に張り詰めているように 思えた。表情と無表情の丁度中間に位置するものがそこにあった。 社会思想社が倒れる。出版事情はいよいよ厳しい。ぼくが勤めている会社 も例外ではなく、リストラを進めている。出版・出版流通業界に籍を置く者 は失職して当たり前という緊張した気分で仕事をしなければならない。それ は、こんなことを言うと怒られるかもしれないが、結構気分のいいものであ る。身分は安定していても、何が何でも一つの会社に勤め続けなければなら ないなんていう、ちょっと前までの終身雇用的な考えのほうがよっぽど恐ろ しい。会社なんてやめてもいいものなのである。但し、いる間は会社の利益 を上げることに責任を持つ−ただそれだけの問題なのだ。 あっ、明日は七夕ですね。