2002.8

2002年8月

<TOP>に戻る


8月31日(土)
  今月は世間的には「夏休み」の月ということになるのでしょうが、ぼく
にとってはものすごく忙しい月になった。夏休みを3日申請したが、結局
仕事しちゃいましたね・・・というわけで、8月の<錨>はまとめて書きます。

 サルサのライブを2回やった。どちらも野外ステージで、一つは成田の仁
王尊(密教系のお寺です)、もう一つは由比ガ浜の海の家。
  寺で演奏するなんてことはぼくたちにはもちろん初めてだったが、実は
寺院というのは結構イベントを打つものらしい。信者の方へのサービスの
ためというわけだが、特に地方では寺の催しが地域のコミュニケーション
の場として機能することもあるようなのだ。お客さんも、いつものライブ
の時と違って若い人よりも、おじさん・おばさん・子供が多い。でもちゃ
んと聞いてくれたし反応も良くて嬉しかった。最後までご機嫌で踊ってい
た浴衣姿のちっちゃい女の子が印象的でしたね。大人になったらライブハ
ウスにも来てね。ホーン・セクションは三重の塔に登って演奏した。何だ
か不思議な気分だったな。

  映画はゴダールの新作「フォー・エヴァー・モーツァルト」を見た。ボ
スニア紛争と映画製作という二つのテーマを重ね合せ、というより混在さ
せ、そこへ気まぐれな個々人の思惑と行動を無秩序に投げ込んだ、という
感じの作品。決して作品全体を収斂させる<中心>を作らせず、だらしな
い<部分>同士がくっついたり離れたりする様はゴダール独特と言うべき
だろうか。ただ、そのだらしなさ加減の表現がやや型にはまっている印象
も持ってしまった。もっとハッとするような細かな<部分>の躍動が欲し
い。個々の登場人物が、ナンセンスならナンセンスなりの仕草を個々に持
っていて欲しいと思うのだが、ユーモアの演出が淡白に感じられてしまっ
た。映画監督のおじさんなど、もっととぼけた感じであってもいいかなあ。

  二つのシュールリアリズムの展覧会に足を運んだ。「マグリット展」(
Bunkamuraミュージアム)と「ミロ展」(世田谷美術館)。どち
らも面白かったが、随分対称的な二人だな、と思った。マグリットは事物
や観念の思いがけない連結が生むスキャンダラスな効果を本当に熟知して
いるのだ、と思った。昔からあった「騙し絵」の技法を20世紀に蘇らせ
た人、ということになろうか。洗練されたCG作品を見ているような現実
からの浮遊感がたまらない。
  ミロは大好きな画家の一人で、今回の展覧会は初期から成熟期に差し掛
かるまでの時期に焦点を当てたものだ。この「初期」という言い方は本当
にしていいのかどうかわからない。印象派的な油絵の数々は、中期の作品
に劣らず魅力的で、穏やかな表情の色彩の中に何か「闘っている」緊張感
が漂い続ける。

  新潮社の方から村上春樹の近刊『海辺のカフカ』の非売品の見本の本を
いただいた。かなり大部の長編だが、あっというまに読めた。「カフカ」
と名乗る15歳の少年の成長の物語と、太平洋戦争時に少年であったナカ
タさんという老人の物語が軸となり、異なる時空列のエピソードが複雑に
絡まりあって一つの小説世界を形成する。ゴダールの映画と違って互いに
連絡のないように思える物語群が最後にピシッとまとまる。その辻褄の合
わせ方は爽快でさえある。但し、満足したかと言うととてもそうは言えな
い。心優しい市民たちが何か大きな暴力に巻き込まれ、脱出する様が描か
れるのに、暴力の本質を見極めようとする姿勢が見られない。ほとんど中
年の妄想と言っていいような通俗的なエロティシズムの描写にややげんな
りもさせられる。また、登場人物たちをあくまで悪意の全くない存在に徹
して描いてしまうのもどうかと思う。いろいろな意味で、記号的に書かれ
すぎて、リアリティが足りない。同時に、作者の人や物に対する好みがご
く丁寧に洗練された筆致で描かれるので、読んでいて非常に安心感がある。
作者は作者なりの人生の見方を「完成」させてしまった上で、その快適な
生活を「防衛」しようとしているように思われた。それはそれで正当な態
度なのかもしれない。が、それについての厳しい自覚が見られないように
思える。いずれにせよこの小説は「売れる」だろう。

  それからジョン・ケージ作品の演奏会にも行ってきた。東京都交響楽団
のメンバーの演奏で、『四季』『プリペアド・ピアノと室内オーケストラ
のための協奏曲』『ピアノとオーケストラのためのコンサート』の3曲。
初めの2曲は比較的初期の作品で、特に『四季』はため息が出るような抒
情的な音楽。50年前後のケージの曲は、孤独な音たちが暗闇から怖る怖
る顔を出しては、互いに寄り添っては消えていく、といったようなデリケ
ートな物語性が感じられていつもまいってしまうのだが、この曲もそうで
思わず聞き惚れてしまった。『協奏曲』はリズムが楽しく、高橋アキのピ
アノは生き生きと予測を裏切り続ける音を発する。『コンサート』はチャ
ンス・オペレーションの音楽で、奏者たちは楽器の他に任意の道具を持っ
て演奏する、というより「音を出す」。この曲の演奏は、燕尾服を脱いで
普段着で行われたが、全体にカジュアルさがやや足りなかったように思う。
この曲はクラシック音楽の持つ一種の階級性を完全否定するために書かれ
たように思うのだが、奏者たちは結構きっちり「演奏」してしまっている
ような気がした。この曲を演奏するために、もちろんクラシックの訓練を
受けたプロの演奏家は必要なのだが、コンサート・ホールの外に広がる生
活空間・自然空間を感じさせるように「音を出す」楽しさをただただ無心
に示して欲しかった。

  上記以外の時間は仕事してるかぐったりしてるか、でしたね。もう秋の
入口ですか。