2002.9

2002年9月

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9月29日(日)
  拉致問題で北朝鮮との軋轢が深まっていっているようだ。確かにあそこ
はトンでもない国であり、拉致被害者の家族の方が熱くなってしまう心情
はよく理解できるが、せっかく開きかけた民主主義への戸を閉ざす方向だ
けは避けてほしいと思う。時間をかけて北朝鮮の国民に自由のすばらしさ
を浸透させていくことが、拉致問題の解決にもつながるのではないかと思
う。もちろん、それは日本国民自身が「自由」の問題について反省的に考
える機会でもある。物事に上達するには、自分が「先生」になって教える
立場になってしまうのが早道、という説がある。まだまだ民主主義後進国
である日本も、一度「先生」の立場になって民主主義を教えてみたらどう
か。日本自身が変われるかもしれないではないか。

  スクロバチェフスキー&読売日響の演奏会にまた行った(9/26)。曲目
はルストワフスキ「管弦楽のための協奏曲」とベートーヴェン「交響曲第
3番“英雄”」。先週のブルックナーもすばらしかったが、今回も恐ろし
いほどの名演だった。ポーランドの作曲家ルトスワフスキの曲は1954
年に書かれた大作。かなりの大編成の曲で、曲名から想像されるようにバ
ルトークっぽいところもあるが、更に親しみやすい感じ。ポップス調と言
っていいようなフレーズも多く、ヴィラ=ロボスを思わせる楽しさだ。シ
ェーンベルク一派の先鋭的な「現代音楽」(そういう曲も確かにルトスワ
フスキは書いている)も重要だけど、こういう大衆的な魅力を備えた名曲
も20世紀後半にちゃんと書かれているのだ。古典派・ロマン派中心で、
申し訳程度に「文化的意義のある現代音楽の傑作」を忍ばせる、といった
通常のオーケストラのプログラムの立て方にはおおいに異議がある。自身
が作曲家でもあるスクロバチェフスキーは20世紀以後の多様な音楽の在
り方を聴衆に伝えようとしているのだと思われた。若いクラシックの音楽
家たちは彼に習い、古楽・ロマン派・前衛といった縄張りに仕切られて狭
くなってしまった音楽の領域をもう一度見詰め直し、埋もれたよい音楽を
どんどん大衆に聞かせるように努力して欲しいと思った。読売日響は、聴
きやすくはあるがとてつもなく難しそうなこの曲を、抒情味を込めて演奏
していた。
  ベートーヴェンも大変な聞き物で、テンポをよく動かし、ダイナミクス
の幅を大きく取ったうねるような快演だった。細かいところでやたら独自
な響きがすると思ったら、なんとスクロバチェフスキー自身が手書きで指
示を記入したスコアをオケのメンバー全員に配っていたのだという。管楽
器が指揮者の要求に応じきれていない個所があったのはちょっと残念。

  パリで活躍する写真家オノデラユキの個展が都内2個所でやられている
のを知り、見に行った。高円寺のイル・テンポにおける「ミツバチー鏡」
展と、京橋のツァイト・フォト・サロンにおける「TRANVEST」展。
前者は、暗闇に包まれたアパートの一室に鏡を持ち込み、反射させた光景
を撮るというもの。後者は映画の登場人物(ジョン・ウェインのような保
安官や赤毛のアンのような少女といった典型的な役柄)に強い逆光をあて
た形でそのシルエットを撮るというもの。ものを写真にするということは
既にそこで一つの虚構の像を成立させるということであろうが(当然だが
決してものは写真に写った通りでないから)、更にもう一つのフィルター
を導入することにより、その写真の虚構性を決定的に増幅することを目指
しているように思える。ここでは写っている光景のある寂しさ以上に、写
真自身の孤独がくっきりと浮かび上がってくる。写真は可視的なものなら
何でも受け入れるように見えるが、写真自身は自らが写す対象のどれでも
ない。時間も空間もない、言わば空洞なのだ。写真家であるオノデラが
写真作品の孤独を見る者に印象づけることで、彼女自身の孤独感をも暗示
しているように思われた。

  なじみのギャラリー「ときのわすれもの」が、建物リニューアルでしば
らく休業するというので足を運んでみた。小さな空間に版画の名品がとこ
ろ狭しと飾られている。改めて、ここはお客さんを大事にするギャラリー
だな、と思った。お茶を飲み、話をしながらじっくり美術を鑑賞できるス
ペースの存在は貴重。来春の再開が今から楽しみだ。

  先週、恒例のサルサ・フェスティバルに参加するために甲府に行ってき
ました。関係者含め、50人以上の貸し切りバスで日帰り旅行を楽しんで
きたといった感じです。雨にもめげず野外でステーキを焼きうどんを作っ
てもうおなかいっぱい。夕暮れ近くなって出番がくるまで酔いを醒ますの
が大変でした。例によってペルー人の一団がステージに昇って踊ろうとす
るので制するのにひと苦労。でもまあ、いい保養にはなりましたね。それ
にしても、この甲府サルサ・フェスティバル、もう12年もやっているの
だからもっと注目されてもいいのでは?


9月19日(木) 北朝鮮に拉致された方々の安否が明らかになり始めている。8名の拉致被 害者が死亡しているとのことだ。例によって外務省のぶきっちょな対応が 非難されているが、ぼくは日本もそれなりの外交努力をしてきていたのだ な、と感じた。こんなに早く拉致の事実を認めるとは思っていなかった。つ っけんどんではあったが謝罪もあった。国際情勢に無知なぼくが北朝鮮を とんでもない独裁国家として捉え過ぎていたとも言えるだろうが、あの国 の経済的・政治的な行き詰まりは相当なところにきているのだろう。無論、 その裏には追いつめられた国特有のしたたかな計算もあるはずだ。罪もな い人を傷つけるだけの拉致という愚かな行為を国家が断行してしまう−そ の決断に至る過程を知りたい。遺族の方々も気の毒だが、どうしようもな い行為をどうしようもなく断行してしまった国家も痛ましい。 一週間前、スクロバチェフスキー指揮の読売日響の演奏でブルックナー の8番を聴きに行った(サントリーホール)。ダイナミックでよくうねる 音楽だった。ブルックナーの交響曲は、CDで聴くと冗長さを感じて退屈 してしまったりするのだが、生で聴くと、川のほとりで水の繊細な流れを じっと見つめている時のような不思議な充実感に満たされる。水墨画の傑 作を眺めている時みたいだ。 ところで、あのカスピ海ヨーグルトって何?ぼくが小さい頃、紅茶キノ コという気味の悪い飲料が流行ったことがあって、子供心に微かな恐怖心 を抱いていたものだが、あれと似たものなのだろうか。きっと「カスピ海」 という言葉の響きがいいんでしょうね。行ったことがある人は少ないだろ うから、イメージがきれいなままなんでしょう。雪印も一発逆転を狙って 「摩周湖ヨーグルト」なんか出してみるといい。でも「琵琶湖」とか「相 模湖」はちょっと、という感じ。昔恐竜の「クッシー」が棲んでいたとい う「屈斜路湖ヨーグルト」はどうだろうか。いずれにせよ、湖とヨーグル トは本来全く関係がないのに、言葉のイメージだけで結びついていい感じ になっているというわけだ。故に、カスピ海ヨーグルトっていうのは言葉 が作り出した食品、ということもできるかもしれませんね。
9月7日(日) 9月11日が近づいてきて、世界が少しずつ物騒になりつつある雰囲気。 アメリカの鼻息の荒さも恐ろしいが、その荒さに対して「先進諸国」が何 も言えないのはもっと恐ろしい。「誤爆」で死んだ人のことを「仕方ない」 という表現で済ましてしまうのにもあっけにとられる。 ヒューマニズムというような観念に固まることなく、もっとわがままに 自分自身の平和を欲するということをどの国民もやったほうがよいと思う。 でも人間にはプライドがあるから難しいですね。プライドを捨てて、人間 以下になってもよいとする覚悟が人間に欲しい気がしますね。 多摩美術大学の映像演劇学科の学生を中心としたパフォーマンス「カラザ 02」を見に行った(三軒茶屋シアタートラレ)。学科の「共同研究」と して、映像科の学生、演劇科の学生が集うだけでなく、社会人やプロの芸術 家も参加しているとのこと。ボーダーレスで自発的な、集団表現行為という ことだ。見る前からワクワクしてしまう・・・。 では、実際見た印象はどうだったかというと、とても残念だがつまらなか ったとしか言えない。ヘルメットをかぶりスーツを着た男が、琵琶を弾きつ つ平家物語を語ったり、エキセントリックな風貌の女性が寝たきりの男性に おちょっかいを出したり、といったような互いに関連性の希薄なシーンが、 散発的に連続していく抽象的な構造を持っている作品だが、一つ一つのシー ンのイメージがとても固く感じられた。15年前くらいに見た小演劇作品か ら余り進んでいない印象も受けてしまった。手っ取り早く言えば、シーン同 士も、また演技者・製作者同士も、互いにひどく遠慮しあっている感じなのだ。 パンフレットを読むと、参加者がやたらこの試みのことを「挑戦」とか「 新しい可能性」とかと考えているようだった。ボーダーレスで集まった人間た ちが何か新しい表現の試みに共同で挑戦する…こんな外にばかり向かった固 い観念性が彼らから内発的な表現の楽しさを奪ってしまっているように思え たのだ。こうした試みが失敗だなんて言いたくないし、根気よく練習したり 打ち合わせしたりした成果は出ていたと思う。しかし、その前にもっとしっ かり「内輪ウケ」してほしかったな。ヘタクソでも、当人たちが真に面白がっ てやっていることの面白さは、その周りの人間にも何となく伝わるものだ。 だが、初めに「外に向かう意識」を固めてしまったら、内側からフツフツと 湧き出てくるべき楽しさは卵の殻のような「外への意識」に圧殺されてしま うのではないだろうか。 この試みに集まってきた人たちは、きっと一人一人はとても個性豊かな魅 力的な人たちなのだろうと思う。次回作を心から期待しているが、「挑戦」 の前に楽しむべきことをもっと楽しんでください、と言いたい。