2003.1

2003年1月

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1月12日(日)
  妹からお土産にもらった麦焼酎がおいしく、仕事から帰るとグラスに
ついでストレートでちびちびやる。これが目下のところ一番の夜の楽し
みで、ぼくもオヤジになったものだなあ、という感慨が湧く。悪い気分
ではないですね。一人暮らしをしていると、なかなか意識が年相応にな
らないところがある。だから焼酎のようなオヤジっぽい飲み物でも飲ん
で、外圧でもって意識的にオヤジになるわけです。ああでも焼酎って若
い人でも好きな人は多いかな。うちの会社の女子社員で鹿児島出身の子
がいるのだけど、彼女は実家から芋焼酎がわんさか送られてくるのだと
嬉しそうに話していた。東京で働いている息子や娘のために田舎の実家
が米や果物を送るという話はよく聞くが、酒まで送ることがあるのです
ね。きっと酔っ払っている状態というのが「みっともないこと」ではな
くて、ある暖かい社交的な空間性を象徴するものとして認められている
のでしょう。そうすると、オヤジ的存在というものは、本来親しい人が
集う場での振る舞いを、個人空間や公共空間にまで力強く引きずってい
く存在なのだと言えないだろうか。田舎の人って良しにつけ悪しきにつ
け、「オヤジ的」ですもんね。個人空間・共同体空間・公共空間の境界
線が明瞭でなくて−−なんて論理がいい加減になってきたので話題を
変えましょう。

  北朝鮮の核不拡散条約脱退という困ったニュースが飛び込んできた。
困ったことには違いないのだが、だいたい核爆弾を特定の国だけは保持
していてもよいというのもおかしな話だな。国際社会の「平和」という
ものが、理不尽な国家間の力関係によって保たれていること(或いは保
たれていないこと)を認識するチャンスだろう。北朝鮮が拉致を認めた
時は一歩前進かと思ったけれど、なかなかそううまくは事は運ばない。
困った国の困った人たちは、「先進国」側の矛盾をうまく突いてくるわ
けで、矛盾が少しでも糾されない限り、不安定な状態は続くだろう。日
本はアメリカの後ろについて先進国の末席に座ろうと必死になっている
ように思えるが、この状況では少しは中立的な役目を果たさないと痛い
目に遭うのではないか。国民の一人としておっかない気がする。

  初台のワコウ・ワークス・オブ・アートでゲルハルト・リヒターの新
作展を見る。リヒターは写真と抽象絵画を融合させた独特な作風で知ら
れるドイツの美術家で、日本でも定期的に個展を開いている。今回の新
作展は二つの会場に分かれて展示された。一つはアルミ板(?)に油絵
の具を文字どおり塗りつけたもの。抽象表現主義の絵画のような劇的な
動きはなく、塗り付けた絵の具の偶然できた微妙な色合いを楽しむ、と
いうものに仕上がっている。陶磁器の肌を眺め回す時の楽しみ方に似て
いる。ただ、リヒターの絵画は、眺めた人が何かしらの遠い記憶を引き
出すための誘発剤として作用するようだな、と感じた。目をつぶった時
に現れる瞼の裏側の光景に妙に似ている。
  第二会場の作品は、グレイ一色の絵画・銀色の球・鏡・そしてガラス
を何枚か重ねただけのオブジェ−この作品の前に立つ人は、反射の関係
で、自分の影が何層にも渡ってガラス面に映るのを見ることになる−で
ある。第二会場の作品は部屋全体が一つの作品として作られている。鑑
賞者は、作者の思考や感情を読み取るのでなく、画廊の特種な空間性に
より、実社会から切り離されぽつんと孤立した自分自身の存在をこれら
の作品によって確かめる、こととなる。
  リヒターの新作群は、人間の孤独をテーマにしているように思えるが、
従来の美術作品のように「孤独」という概念を、孤独な作者の感情の比
喩として表出することはせず、ストレートに鑑賞者に鑑賞者自身の孤独
を味わわせようとしているようだ。ロマンティックな孤独ではなく、誰
もが持ち合わせている日常的な孤独。日常的とはいっても、こういう概
念を「意識する」機会はなかなかあるものではない。

  その帰りに東京オペラシティアートギャラリーで「アンダーコンスト
ラクション−アジア美術の新世代」展を見た。中国、韓国、日本、インド
ネシアなどアジア各国の若手のアーティストたちの作品を集めたものだ
が、リヒターの作品と対称的に、人との交わりを積極的にテーマにした
作品ばかりを展示していた。日本の野口里佳は、中国の寒中水泳のグルー
プを撮影した写真作品を発表していた。彼女は彼らと個人的な親交を結
び、余りにも仲良くなってしまったため、展覧会場に寒中水泳同好会のメ
ンバーが応援に駆けつけたくれたことに感激して泣き出してしまったのだ
という。韓国のギムホンソックの「ボート」という作品は、筏にサバイバ
ル用と思われる日常品を満載させたオブジェ作品である。ところが、この
「サバイバル品」の中には、余り役に立たなそうな品々も多く混じり込ん
でいる。現代においては、ただ命をつなぐだけでは生きていることになら
ないのだ。現代の中途半端な豊かさを象徴的に示すことで、生きていくこ
との大変さを逆説的に表わしている。
  この展覧会に参加したアーティストたちは、大小の共同体の在り方を
鋭く見つめ、時には個人的・親和的に、時には政治的・批判的に、表現
している。アーティストと他者との関係が浮き彫りされ、その結果、アー
ティスト自身の思想や感情が限りなくオープンになる。

  リヒターの作品とアジアの若いアーティストの作品は、方向性は対称的
だが、人が生きるために抱え持つことになる交通の領域(ひとりぽっちと
いう交通も含め)を指し示すことに重点を置く点では共通している。
  内なる自己の暗示ではなく、他者との複雑な関係の明示。この開放性は
21世紀アートの特長となるのではないだろうか。


1月5日(日) だらだら過ごしたお正月休みも終わり、明日から「平日」が始まる( と言っても今日はお昼に会社の新年会があり、そのまま会社に行ってあ れこれ作業をしたのだったが)。 例年正月は何もしないで骨休みするのだが、今年はいつもにも増して だらけた日々を過ごした。外出したのは、2日に両親・妹夫婦と一緒に 大山へ行って豆腐料理を食べた時くらい。うまい豆腐ってなかなかオツ なものですね。味があるんだかないんだかわからないところに、微妙に 味がある。自己主張を余りしないという個性。湯豆腐、揚げ豆腐、胡麻 豆腐と、いろんな調理法で食べるフルコースを頼んだのだが、結構お腹 いっぱいになってしまった。帰りにケーブルカーで下社まで昇って初詣 をした。初詣に行くなんて、実は5年ぶりくらいなのだった。周りを見 回すと子供と熟年、お年寄りが多い。若いカップルが意外と少ないのに ちょっとびっくり。10年ぶりくらいに御神籤を引いて、大吉を当てた。 ああ、こんな人並みなことをするなんてホントに久しぶりだ。悪い気分 ではないが、来年も来てみるかという気には特にならない。大勢の人が 記念写真を撮ったりお参りしたり御神籤を引いたりしている光景を眺め ていると、だんだんテレビの画面を見つめている気分になってくるから 困ったものだ。一人暮らしが長いと、周りと波長を合わせる能力が劣化 してくるものらしい。 退屈しのぎに、家の本棚にあった星新一のSFショートショートを読ん でみた。これがなかなかいい。小学生の時に夢中になって読んでいたも のだったが、今読んでも充分な娯楽になる。意外性を持ったプロットも いいが、問題はその文体である。均質で実用的な文章に見せかけて、細 部が結構凝っている。作者がその場から二、三歩離れて、描かれた状況 の面白さを読者に向かって独自の話術で増幅して語り伝えている感じだ。 登場人物たちはたいがい類型化された性格を持たされているが、それら の性格が独特の語尾等の工夫によって、わざわざその人工性を強調され ている。小説が虚構であるという当然の事実を豊かに楽しむ贅沢がある な、と思った。