2003.10

2003年10月

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10月30日(木)
  高校の20年ぶりの同窓会があった。顔は覚えているけど名前がなかなか
出てこない。でも話し込んでいると、高校時代とあんまり変わってないこと
がわかって、ほっとする。それでも、皆、それなりに苦労して生活の基盤築
いているのだろう。大半が結婚して子供も作っている。昔、結構ワルだった
ヤツが優しい目をするようになっていて、親になっているんだなあ、と感じ
る。二次会で学級担任だった先生を囲んで飲んだが、かつてのクラスメイト
たちが「恩師を気遣う」ということをしていて、ちょっとじーんときました
ね。この、変わったり変わらなかったりするところ、面白いですね。みんな
人生半分過ぎているわけで、残りの半分も、変わったり・変わらなかったり
で過ごすのだろうと思うと、ほっとするやら恐くなるやら、である。ははっ、
何を言おうとしているのだかわかりませんね。
  会の締めに校歌を歌ったのだが、歌詞もメロディーもすっかり忘れていて
慌てた。こういう瞬間、月日の流れを恐ろしく感じてしまう。

  池袋のジュンク堂書店に、『こんな夜更けにバナナかよ』(北海道新聞社)
で講談社ノンフィクション賞を受賞した渡辺一史氏と福祉学の教授・長瀬修
氏とのトークショーを聴きに行った。仕事のつながりで足を運んだのだが、
とても勉強になった。『こんな夜更けに』は、著者が筋ジストロフィーの患
者故鹿野氏とつきあいながら、障害者とボランティアについて考えたノンフ
ィクション作品だ。渡辺さんは、それまでは福祉に特に関心がなかったのに、
ふとしたきっかけから障害者問題の記事を書くことになり、それが発展して
継続し取材をすることになり、筋ジスの鹿野氏と深くつきあうようになって
ボランティアの一員にまでなり、鹿野氏が亡くなった時はその死を他のボラ
ンティアの人に伝える役を果たすまでになったという。鹿野氏はいわば「カ
リスマ・障害者」で、自分の意志を常にはっきり通し(時にはわがままなほ
ど)、ボランティアの人々に対して「指導者」「先輩」として接した程だと
いう。介護の研修に際して、自分の身体を指し示しながらあれこれ説明を施
し、研修者から感謝されるのが普通だったというから痛快だ。外出も、マス
コミに顔を出すのも好んだらしい。反対に、ボランティアの若者たちは、「
わたし探し」のためにこの道に入ったものも多いようで、介護する者が逆に
諭されたり癒されたりすることも普通なのだということだ。自らも不安定な
立場のフリー・ライターである渡辺さんは、鹿野氏やボランティアの人々の
身になって考え、感じ、自分の身の上と重ね合せる。いわゆる健常者も障害
者も必死に生きている姿を、彼自身のフレームを通じて伝えようとしている
様がよくわかり、興味深かった。そして、ともすると熱しすぎ、喋りすぎる
渡辺さんをにこやかに制しながら、長瀬さんは専門家らしく、福祉の数々の
問題を細かく場合分けしながら吟味していく。
  個人と個人の関係には、同情しあう局面も必要だが、反発しあって闘争す
る局面もやはり必要で、その「対等に闘う」ためのベースを進んで提供する
ことが、相手の主体性を認めることにつながる−二人の話を聞いていてぼく
はそんなふうに思った。
  福祉の問題は、誰にも等しく降りかかってくる問題であり、専門家と市民
が対等に話し合える問題である。こういう議論を聞いていると、自分の日頃
の民主主義に対する考えの至らなさと傲慢さを痛感させられる。得難い機会
だったという他ない。

  渋谷のルデコに鈴木志郎康・石井茂の写真展を見にいく。志郎康さんの展
示は「三点全点」と題され、ある風景の近辺を3枚1組にして魚眼レンズで
撮ったものだ。魚眼レンズだと角度を少し変えただけで風景の構図が大きく
歪んでしまう。「近辺」が「近辺」どころでなくなってしまう面白さだ。対
象としているのは、どこででも出くわすうらぶれた感じの風景なのだが、3
枚はそれぞれ違う卵から生まれた異なる種類の雛のようだ。3枚が醸し出す
微妙な不協和音に聞き惚れるように、一点一点ゆっくり見入った。若者の姿
やファッショナブルなスポットを、この方法で撮ったものも見てみたい気持
ちになった。
  石井茂の写真はピンホールカメラで撮影したもので、「匣の中の宙」と題
されている。器物と裸体が薄暗さと静けさの中で触れ合う。一種の艶めかし
さが感じられた。カメラのことはよくわからないけれど、通常のレンズを使
用しないピンホールカメラの写真からは、光が暗がりの中で自分自身の姿を
手探りしているかのような不安感を与えられる。そこが魅力的だった。


10月23日(木) イラク復興支援に大金を出し自衛隊派遣もするとのこと。いつもの通りの 政府の対応を対米追従といって批判するのは簡単だが、それは余り意味のな いことじゃないかな。ここまできたら、お金も出し軍隊も出す代わり、その 恩をきちんと着せて、アメリカを国際社会の一員に戻す策を練ったほうが賢 いのではなかろうか。この最悪の事態が「国際社会」とは何かを全世界的に 考える機会になればいいなあ、なんて思いますね。日本が音頭をとって、大 国中心主義の国連の運営も再検討できればもっといい。あ、こっちのほうが よっぽど絵空事ですか。 本当は、荒廃した国が復興への道を歩むのもいいことだし、治安が守られ ることもいいことなのだ。それ自体は。 サントリーホールに、サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団 の演奏を聞きに行く(ユーリー・テミルカーノフ指揮)。プログラムは新作 のコロレフ「オーケストラのための“フィルハーモニア”」、シベリウスの 「ヴァイオリン協奏曲」(ソロはギドン・クレーメル)、プロコフィエフ「 アレクサンドル・ネフスキー」。まず、楽団員の体が大きいのに圧倒される。 まるで木が立っているようだ。音もまた大きい。シベリウスで、クレーメル がいつものような、弱音中心の神経質で繊細な演奏を繰り広げていると、そ の時だけはさすがに抑えているが、ソロの切れ間になると途端に過剰にダイ ナミックになる。リズムに独特のこぶしがきいていて、お国柄というでしょ うか。でも結構楽しめた。プロコフィエフの爆演ぶりにはビックリ。こうい うおバカな曲はこのくらいノッて演奏してもらわなければ楽しくない。コロ レフの新曲は、ややモーダルなきれいな音楽。現代音楽もここ最近は、「聞 きやすく」なったものだなと感じる。 松涛美術館で合田佐和子の展覧会を見る。これは収穫。映画スターを題材 にした、キッチュな気分の作品群の現代性に驚く。ポップ・アートと言って も、ウォーホールのような冷たさはなく、色彩が夢の中でのようにキラキラ 輝いている。女の人が、お気に入りの部屋のインテリアに凝るように、真剣 にナルシシズムを追求している、という感じだ。「悩める馬」とかいったダ イトルの、なまめいた表情の馬の絵に特に惹かれる。写真やオブジェも、言 語作品もある。手段を選ばず、自分だけの世界の構築にひたすら没入した人 なのだと感じた。
10月13日(月) 土曜日に米軍の座間基地でサルサの演奏をしにいった。ヒスパニック系の 人たち主宰のパーティに呼ばれたわけだ(実はもっと以前に声をかけられて いたのだが、テロの心配から急遽延期にされていたのだった)。基地で演奏 するのは今度で2回目だが、本当に広いですね。道路も住宅も贅沢に空間を 取ってあって、娯楽施設なども充実している。小さな街といった感じだ。こ れがみんな我々の税金から賄われているかと思うとちょっと複雑。 基地の中といってももちろん軍隊色を感じさせるわけではなく、アメリカ の市民たちがフツーに生活を楽しんでいるだけに見える。しかし、基地に入 る際のIDのチェックは実に入念であり、特に車を運転してきた仲間は何度 も免許証と本人との確認をさせられていた。一歩中に入れば外国、しかも軍 用地というわけなのだ。万が一、よからぬ者を侵入させてしまったらには大 惨事が起らないとも限らない。音楽をたりにやってきた日本人ということで、 みんなニコニコ迎えてくれるけれど、やはりどうしたって緊張しますね。 パーティは8時くらいから夜中の2時くらいまでだらだら続けられるよう で、ぼくたちは3ステージの長丁場をこなし、終わった時は0時を過ぎてい た。ヒスパニックといっても別に全員がサルサ好きということではなく、反 応は今ひとつだったかな。でもまあ気に入ってくれて話しかけてきてくれた 人もいましたね。ともあれ、疲れました。 渋谷のユーロスペースで中平康の映画のレトロスペクティブをやっていて、 「泥だらけの純情」(浜田光夫・吉永小百合主演)を見た。チンピラと良家 のお嬢様との許されざる恋がテーマで、二人は最期には心中してしまうとい う、センチメンタルな筋書きだ。当時のいわゆるアイドル映画で、平板この 上ないお話にもかかわらず、場面がテンポよくくるくる転換して飽きさせな い。考える暇なく、理屈抜きでとにかく楽しめてしまい、古さを感じさせな い。撮っている本人たちが心から楽しんで作っているウキウキした気分が伝 わってくる。映画が娯楽の中心だった時代というのは存在したのだなあ。今 はこのテの面白さはテレビドラマにお株を奪われているもんなあ。でも、や っぱり映画はドラマよりも丁寧に作られていて充実感が残るなあ。・・・などと 考えさせられた。面白さを演出するために、マンガチックな、オーバーな表 現も用いるし、それが板についている感じだ。 ただ、ヌーベルバーグの先駆というのはちょっと言いすぎで、トリュフォ ーやゴダールの映画にある、映画史を俯瞰する視線とか自己言及性とかいう ものはここには全くない。批評家の映画ではなく、あくまで町人の映画なの だろう。 東京写真文化館で、オランダの写真家ロン・ヴァン・ドンゲンの花の写真 の展覧会を見る。花を遠景で撮るのでなく、接写して、というよりも花の内 部に分け入るようにして、撮る。花の内部構造というのは不思議ですね。何 か得体の知れない、抽象的で官能的な世界が拓けてうっとりする。メイプル ソープよりももっと花自身の中に沈潜していて情緒的だ。これは日本人写真 家にインパクトを与えそうだ。