2003.2

2003年2月

<TOP>に戻る


2月23日(日)
  三省堂書店の神田本店に、酒井隆史氏の講演会を聞きに行く。アントニオ・
ネグリとマイケル・ハートの『<帝国>』(以文社)発行を記念した講演会
で、酒井氏は訳者の一人である。
  三省堂書店はぼくの古巣で、今でもそれなりの愛着があり、こうした意欲
的な試みがなされることは大賛成だ。人文書売場には優秀な思想書の担当者
がいて、関連のブックフェア(酒井氏に選書してもらったものらしい)も充
実した内容だった。ぼくは今オンライン書店に勤めているわけだけれど、頭
を刺激してくれる思想書が「実際に」並んでいる光景に出くわすとワクワク
した気分になりますね。
  さて講演会の内容のほうだが、タイトルは「ポリスの権力とマルチチュー
ドの力」となっており、脱国家的な資本が持つ「権力」と潜在的な民衆の「
力」を対比的に捉えてみるというものだった。ぼくは肝心のネグリ、ハート
の著作をまだ半分しか読んでいないので(しかも意味を十分に理解していな
い部分も多々ある)正確なコメントをつけることはできないが、酒井氏の話
自体は極めてわかりやすかった。キリスト教を国教としたローマ帝国が、キ
リスト教の名の元に戦争を正当化し、倫理と戦争を一体化させた「正戦論」
を発達させていった(アウグスティヌスなど)。その流れは宗教戦争に至る
まで引き継がれたが、近代に入ってその倫理を普遍化させた「永遠平和の思
想」(カント)と、戦争と倫理を切り離して国家間で力関係を調整するウェ
ストファリア体制の思想に分かれることとなった。現実的には国家を主権の
単位として主権同士の争いを極力避ける形の後者の方法で国際関係が営まれ
ていった。現代になって資本のグローバル化が進むにつれ、国家の上位に国
際機関、多国籍企業のネットワークが築かれるようになり、資本の論理を倫
理とし、それと戦争行為を改めて結び付けた新しい形での「正戦論」が叫ば
れるようになった(国家の判断を越えた判断が国際機関によって下され、力
を持つ)。この傾向は非常に危険であり、対抗していかなければならない。
 但し、経済のグローバル化は人々のコミュニケーションを促進する流れも
作り、資本は実は個々の民衆の欲望に全面的に依存せざるを得ない。故に人
民は自分自身の「生」の潜在的な力を自覚し、資本の権力をコントロールす
ることができるはずだ。−非常に大雑把だが、だいたいこんな流れの話だっ
た。グローバリゼーションの台頭を逆手に捉えていく発想には驚かされる。
アガンベンの、あの「剥き出しの生」という概念(法によって守られていな
い、難民や亡命者たちの危うい生の状態)までも逆手に取って、聖フランチ
ェスコを引き合いに出しつつ、法には守られないが誰からも干渉されない生
という肯定的な意味に転化させていたことにもびっくりした。
  酒井氏が述べるところのネグリの思想の通りにいくとすると、個々の人民
がその上位にある組織よりも力を持つことになるため、国家対国家のような
大きな規模の戦争は避けられるかもしれない。が、人民同士の争い、つまり
小さな戦争は多発していくことになるのではないだろうか。そうした多発す
る争いを禁止するため、ホッブスのような思想家が「契約」という考えを理
論化していったのだと普通は考えられていることと思われる。それでもいい、
つまり「無法状態」であってもいい、危険でもいいから自由が欲しい、と望
むだけ、人民が強いかどうかが問題なのだと思う。これについて、ネグリで
はなく酒井氏御自身がどうお考えになっているかを知りたくも思ったが、質
問をするには至らなかった。こういう内気なところがぼくのダメなトコです
ね。とにかく、満員の盛況でよかった。本を読むのもいいけど、人の話を聞
く経験も貴重なものですね。

  昨夜は原宿クロコダイルでサルサのライブをやり、その後11時頃六本木
のボデ・ギータに移動してキューバ音楽のセッションに参加した。帰ったの
は3時頃。くたくたに疲れたけど久々に開放的な気分に浸れて満足。ラテン
音楽は演奏者とお客さんの境目が余りなく、双方が場を盛り上げていく音楽
だが、してみるとネグリは意外とサルサを気に入るかもしれないな。


2月17日(月) 毎日結構暖かい。本格的な寒さを、この冬は遂に体験しなかったような気 がする。 土曜日にマイケル・ケンナの写真展を見にいった(東京写真文化館)。モ ノクロの風景写真を集成したものだ。ケンナは世界中を旅して写真を撮り、 数年前から日本にいる。どの土地で撮った風景も、皆似通った容貌をして いることに驚く。人っ子一人いない浜辺や林や山の写真ばかりなのだが、何 と言うか、そう、孤独な老人がふと顔をあげて写真家のほうをちらりと見た 時の表情を捉えた、とでも言えばいいか。孤独というものがただ淋しいもの なのではなく、充足し緊張した幸福感を持つものでもあると、これらの写真 作品は訴えてくる。一つの写真の前に長く足を止めて動かない人も多かった。 まあ、ぼくもその一人だったのだが。日本人が日本の風景を撮るとベタベタ した感傷がまとわりつきがちだが、マイケル・ケンナの写真では、個々の対 象物が、「日本」という風土から離れて、個々の対象そのものとしての抒情 性を発散している。日本の風景がヨーロッパのそれのように見える。これは なかなか新鮮な気分だ。
2月11日(火) イメージフォーラムで伊藤高志の映像個展を見にいく。これは昨年オラン ダ・アニメーション映画祭で日本特集が組まれた際に、現地で反響を呼んだ 作品の凱旋上映なのだという。伊藤高志の他、田名網敬一のプログラムも上 映されたが、時間の都合で伊藤作品だけを見て帰った。 伊藤高志の映像作品を初めて見てから10年以上たつが、今回、新旧の作 品をまとめて見て、改めて衝撃を受けてしまった。どの作品も構造が極めて 凝っていて、かつ明快そのもの。湿っぽい抒情は微塵も持たないが、メッセ ージはダイレクトに伝わってくる。 81年の「SPACY」は彼の出世作。静かな体育館の中に、何やら看板 のようなものをつけた台が立っている。視線が台に近づいていくと、看板の ように見えた面には当の体育館の中を映し出した映像が張り付いていて、更 に近づいていった視線は、一瞬その映像に飲み込まれたかと思うと再び元の 体育館の様子を見ることとなる。この一連の流れを基本とし、更にヴァリエ ーションをつけた「映像に飲み込まれる」体験が幾度となく繰り返されてい く。実際はただ体育館の中を映した無数の写真があるだけなのだが、これら を構成して連続投影した結果、異次元に放り込まれるような感覚が生まれる のである。82年の「THUNDER」は、ビルのオフィスのような場所に、 様々な長さと強さの光のパルスが映し出される作品。暗闇を裂く光の信号の 数々は、綿密な計算の基に決定されていることと思うが、印象としては、電 気を点けたり消したりする、ビルの中での日常的な光の記憶を、幽霊として 蘇らせたもの、という感じだ。そして、90年代以降は、断片的な物語をゆ るやかに導入したものに変化していく。 伊藤高志の映像作品は、ものを見るという行為の日常性や合理性を残酷に 剥ぎ取るためのものであると思う。その残酷さは限りがない。至る所に、目 に見えない、かつ制御できない「動き」があり、それが主体の安定を掻き乱 そうと狙っている、そんな印象を持つのである。伊藤高志はそれを演説して 説明するのでなく、日常を越えた様々な視野の取り方を具体的に提示するこ とで説明する。 日常という概念について考える基礎を、伊藤高志の作品は与えてくれてい るのだと感じた。 昨日は六本木のルミエル・デュースで、有名なサルサバンド、プエルトリ カン・パワーの前座の演奏を努めた。雨だったので客の入りを心配したが満員 になり、ダンスフロアには熱気がムンムンして頭がくらくらするほどだった。 本場プエルトリコのバンドはさすがにノリが違いますね。多少音程が乱れる場 面もあったけれど、そんなことよりとにかくリズムのうねりと歌い手(男性3 人)の色気がすごい。終始エンターティメントに徹したパフォーマンスで、若 い女の子たちからも大人気。演奏終了後、女性たちが一緒に記念写真を撮ろう と群がってもイヤな顔一つせずに応じてにっこりしている。というより、多分 本質的に女好きなんだな、あの人たちは。 楽しい一夜でした。
2月1日(土) 本を整理していたら、昔古本屋で買った『魔太郎が来る!』(藤子不二雄) が出てきて、思わず読み耽ってしまった。面白い! 悪魔に魅入られた弱気 な少年が、いじめた相手を魔力で復讐していくという子供向けのホラー漫画 で、ぼくが小学生の頃教室で回し読みされるほど流行っていたものだ。いじ められコンプレックスを感じた時、誰にも(親にさえも)相談することがで きず、即キレて、超越的な力に頼ってしまう主人公の少年の強烈な孤独さが 恐ろしい。あのサカキバラ少年の妙に儀式的な振る舞いの萌芽は、この漫画 が生まれる素地となった時代に撒かれたのではないかという気がしてくる。 彼は、近所づきあいの希薄な核家族の一人息子であり、与えられた個室の中 で半分引きこもったような生活を送っている。個室を与えられたが故に、他 人と群れる際のわずらわしさを回避でき、同時にアカの他人と接触する際のノ ウハウを学ぶ機会を失うわけだ。 ぼくが特に好きなものの一つは、モデルガンマニアの少年との交流の話で ある。精巧な木製モデルガンの制作を趣味とする少年がふとしたきっかけで 魔太郎にその趣味を知られてしまう。少年は、違法であるモデルガン制作の 秘密を知る年上の学生に脅され、造る端からモデルガンを安く買い叩かれて いる。魔太郎は秘密を守るが、いつしか秘密は世間に露見して少年は自首し、 魔太郎は学生に復讐を遂げる。魔太郎に好感を抱いたモデルガン作りの少年 が魔太郎を「ママも入れたことのない自分の部屋」に招き入れるシーンは感 動的だ。これは、溺れる者が救命具にしがみつく動作と同じ重みを持つもの だ。個室は、超越的な価値を持つ「誰か」を招き入れる願望を作り出す。ま だオタクという言葉が生まれる遥か以前のことだ。その「誰か」は別に生身 を部屋の主人に生身を晒さなくともかまわない。虚構の人格でいっこうかま わないのだ。 そしてぼくは、自分自身が魔太郎の個室世界の延長戦上で今も生活を続け ていることを、自覚する。このサイトのページもそうした「誰か」を待ち続 けるのかもしれない。 スペース・シャトルが墜落してしまった。イスラエルの飛行士が乗船して いたようだが、テロではないらしい。最高の頭脳と腕が集まって、入念な準 備をしても、事故というものはやはり起きる時は起きるものなのだろうか。 宇宙船の打ち上げは国家事業だから、この時期アメリカにとっては特に大き な痛手だろう。そして、「ザマーミロ」と快哉をあげる連中が出ることも必 至。亡くなった方々は、飛行士としてこの船に乗り込んだばかりに、個々の 人間としては死ぬことができず、情報の一部として死ぬことになってしまう のではないか。国家はこの人たちを過剰に手厚く葬るだろうし、遺族の方々 はそれを受け入れるだろう。だが、それはぼくの感覚ではとても淋しいこと なのだ。 ドイツの美術家ヴォルフガング・ライプの展覧会を見にいく(東京国立近 代美術館)。ライプはもと医学を志していたが、人の生死の問題を思想的に 極めよう思い、美術に転じたのだという。その作品は、コンセプチュアル・ アートとしての外見をまとうが、デュシャンのように事物の概念を転倒させ る作品ではなく、極めて読み解きやすいヒューマニスティックなものである。 生米を盛った皿を並べただけの「米の食事」、白い大理石を削ってミルクを 充たした「ミルク・ストーン」、集めた花粉を床に矩形に敷き詰めた「タン ポポの花粉」「マツの花粉」、といった作品群である。自然の素材を余り加 工することなく提示し、自然と深い交流を持つ農耕社会への回帰を促すもの であろう。 外見はシンプルだが丁寧に造られており、「美術」としての水準を保って いるのはさすがである。長く見つめていると癒される気分になってくる。し かし、不満が湧いてくるのも事実である。素材とそれが意味するものとの間 の対応関係が単純すぎて、それ以上の広がりが出てきていない。ここに提示 されているのは皆、「人間化」された自然の姿である。米は別に、人間様に 食べられるために稲から生まれてきたのではないし、ミルクも同様である。 人間が、体と精神の両方の飢えを充たすために自然を求めるのは当然である が、自然には人間には捕らえられない深奥というものがある。それは「皿」 には収まりきらないものであろう。人間が癒しを求めにいく自然の背後に、 人間の日常的な意識では捕らえられない諸原理が隠れていることも同時に示 唆してほしい気がする。ライプは科学の徒であったのだから、自然の「こわ い面」についてはよく知っているはずだ。それを示した上で、なお自然に癒 しを求める精神の姿を描くというのなら多義的な作品に仕上がっただろうけ ども。今のままではやや感傷に流されている感じがしてしまう。 1月の後半は、ペレーニのチェロ・リサイタル(トッパンホール)とイル ジー・コウト指揮のNHK交響楽団定期。前者は、コダーイの無伴奏ソナタ の演奏がすばらしく、モンゴルかどこかの草原で無限に即興演奏を繰り広げ ているかのような自由闊達さが魅力。コダーイは決して「ハーリ・ヤーノシ ュ」の作曲者であるだけではなく、バルトーク以上に東洋音楽の核の部分を 感覚的に掴んでいたすごい作曲家だ。チェロという楽器がヨーロッパ生まれ であることを忘れさせるような、多彩な音色をペレーニは次々に引き出して いた。後者はスメタナ、ドヴォルザークのチェコ音楽プロ。この二人は、ク ラシック音楽の中では俗流とみなされて軽視されているような風潮があるけ れど、ぼくは大好きだ。クラシックの作曲家もかつては大衆のために心を込 めて曲を書いていたのだということが端的にわかるすばらしい例だと思う。 ドヴォルザークの「8番」は彼の最高傑作でしょうね。ヴァイオリン協奏曲 は知られざる傑作だし、スメタナの「売られた花嫁」のリズムは生き生き弾 んでいる。N響はいつになく繊細なサウンドで快調。 CDもいいけど、やはりクラシックはナマが最高ですね。