2003.3

2003年3月

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3月31日(月)
  桜が満開、というより早くも散り始めてないか? 春だというのに初夏のよ
うな異様な暑さ。 オフィスの中などは、昼間は冷房を入れてもいいくらいだ。
大丈夫か、地球?

  東京都写真美術館で川田喜久治「世界劇場」を、世田谷美術館で「アフリ
カの光」を見る。「世界劇場」展は、VIVOのメンバーでもあったモダニ
ズム写真家川田の、50年代の作品から近作までを回顧したもの。原爆投下
の跡も生々しい広島の建物を写した初期作品が美しい。爆心地が観光地化し、
建物の壁に落書きがある。黒い肌の上の白い引っ掻き傷のような落書きは、
原爆投下という歴史的惨事の冷ややかな裏面を捉えきって見る者を慄然とさ
せる。世界中の不思議な建造物を撮った「聖なる世界」シリーズ、自動車の
姿をアクロバティックな角度から切り取った「カー・マニアック」シリーズ、
どれも写真家の、奇異なものとの出会いの喜びの感情を爆発的に表現したも
のだ。岡本太郎とはちょっと違うけれど、同じようなある種の強烈な無邪気
さに打たれる。
  「アフリカの光」展は、アフリカの大衆文化と現代美術をミックスさせた
企画展。アフリカの現代美術は美術館よりは広場のような場所で見るのがふ
さわしいような公共性を備えている。美術家を巡る、交友や住環境の輪を具
現化した作品とでも言ったらよいだろうか。「空想の動物たち」と題された
ムスタファ・ディメの彫刻作品は、乾燥した大木をどんと切って、太い釘を
無造作に打ち込んだ、ワニのお化けのような作品。粗削りとしか言いようの
ない不格好な姿に見入っていると、いつしかその生態について考えを巡らし
ているほどに想像力が膨らんでくる。彫刻を作ったというよりも、彫刻とい
う手段によって、人に想像をさせる「余地」を創作した、という感じだ。こ
んなふうな言葉を書いてみたい、と刺激を受けた。

  日テレ深夜のバカ番組「ブラック・ワイドショー」が終わってしまって悲
しい。北朝鮮ネタより何より、本来二枚めの細川俊之があんなヘンチョコリ
ンな姿に化けられるということに尽きぬ驚きを感じる。やたら音を引き伸ば
す喋り方はいったい誰が考案したのだろう。


3月23日(日) アメリカ・イギリスによるイラク攻撃が始まってしばらくたつ。これは歴 史上の大きなターニング・ポイントになるでしょうね。国際社会の「常識」 というものが通用しなくなったこと、民主主義国家を名乗る国が平気で他国 の主権を侵し民衆を殺戮するということ。日本は自国の主体性というものに ついてそろそろ真剣に考えなければならないだろう。仮にプラグマチックな ことだけを考えたとしても、大国と同盟を結ぶことによって、都合のいい面 と悪い面の二面性があることくらいすぐに想像がつく。同盟国といっても、 ただ追随するだけでないやり方が幾らでもあるだろうに。これも、基を糾せ ば我々国民がいけないんでしょうね。会社でも家庭でも個人の主体が立ちに くい空気が充満している。 アメリカに住んでいる姉が心配だ。今回のことはテロリストたちに攻撃の いい口実を与えてしまったようなものだ。大都市に近づかないようにメール でもしとこうか・・・。 連休中、イメージフォーラムの研究生たちの卒業制作展を見にいく。若い 人たちの自主制作の作品には、出来不出来にかかわらずいつも驚かされる。 とにかく作品の行き着く先というものが予想できない。誰かに、自分の存在 をわかって欲しいという激しい欲求を持つが、その「自分」というのが彼ら 自身にも全く掴めないので困っている、というふうに思える。そして最早自 分自身にずっしりした手応えを感じることに絶望し、自分に対して理想を求 めることを止め、自分らしきものの通った痕跡を力任せに引っ掻くことで成 り立つ表現。 とにかく、まともなストーリー映画が一つもないことが特長だった。途切 れ途切れな思考、イメージ、風景が、当の本人でも掴みかねている作者の茫 洋とした存在をちらちらと明滅させる。「ここではないどこかに本当の自分 がいるはず」との希望を持って物語世界を作っていった「自分探し映画」の 時代が終わり、「どこにも自分がいない、自分というものの手応えが見出せ ない」不安の感触を確かめることで辛うじて自分の存在を実感するものにな っている。これは「自分探し」からの方向転換を意味するものではなく、「 自分探し」のなれの果てを意味するものであるように感じられる。作品は一 人称で作者が自己の観念的世界を物語るものではなくなり、作者が観客に向 かって一対一で、落ち着かないせわしない口調で「語りかけてくる」形式を 取るようになっている。数年前の自主映画と比べても非常な変わりようだ。 その中で、真利子哲也の「極東マンション」には衝撃を受けた。マンショ ンで家族と一緒に暮らしている学生の男が自分について語るドキュメンタリ ー映画だ。彼は自分のしたいことが見つからず、個室にこもってだらだらし た生活を送っている。彼は自分が存在することの実感を持とうとしてベトナ ムに旅行に行き、裸で路上を走りまわったり木に登ったりする映像を撮って きて母親に見せる。母親は嫌悪の言葉を作者に対して投げつけるばかりでそ の映像から彼独自の存在性を見出そうとしない(まあ、当たり前の話だが)。 彼は無意味に野外をうろついて撮影したり、正月に親戚の家に遊びに行って 撮影したりするが、どこで何を撮っても、表現をしようとする自分は、行っ た場所の付属物以上のものにならない。遂に彼はマンションの屋上に上り、 腰に命綱を巻き、手摺りの上を歩いたりするのだ。そこで彼は命の危険を実 感し、死んだとしたらそれは「自分の」責任なのだということに思い当たる。 もちろん、だからどうなるということはない。だが、その無為をとことん自 覚していく過程を魅せられて、微かに「崇高なもの」さえ感じさせられたの だった。 そごう美術館で「THE ドラえもん展」をやっているそうですね。さまざ まな分野で活躍する30人のアーティストが「わたしのドラえもん」を表現 する、らしいです。どんなものができあがるのかちょっと楽しみだが、一人 くらい「犬のドラえもん」を作る奴はいないかなあ。種の転換を越えて、ど の程度ドラえもんのアイデンティティが保たれるのか、興味があります。
3月9日(日) すっかり春らしくなってきた。暖かくなってきて散歩にはいい季節になっ てきた。同時に、春眠暁を覚えず、とはよく言ったもので、朝寝床を離れる のがつらい季節にもなってきた。ほどよい冷気と暖かさのブレンドの具合い は、安心して無意識を委ねるのにホント丁度いいんですよね。ぼくは眠るの が大好きで、実は今日も半日も眠っていたのだった。前日に「ブラックワイ ドショー」を見て、生きているマンモスの映像(?)に感動したまま夜更か しし、11時頃起きたもののどうにも眠くて寝直したら何と3時半まで寝て しまった。自己睡眠最高記録ですね、12時間半!夢も見ず。死ぬ時もこん な感じなのであれば言うことなし、ですね。 寝ぼけ眼のまま喫茶店に行き、斎藤環の新刊『博士の奇妙な思春期』(日 本評論社)を読了。サブカルチャー批評の本かと思ったら意外と真面目な精 神分析擁護の本で、それなりに感銘を受けた。「それなりに」というのはこ の本は雑誌連載のコラム集であり、時事的な事態への対応が主で、背景を知 らない人にはちょっと不親切なところがあると感じたからだ。精神分析の意 義を様々な角度から再検討するという意味では興味が惹かれたのだが、はっ きり言って「精神分析的には」と前置きされて話をされても、精神分析自体 に(そしてラカンという思想家に)さして知識のない者は困ってしまうばか りだ。思春期とは何なのかという原理的な問題に応えるのが主旨ではなく、 精神分析に対して懐疑的な立場からの批判に応えるのが主旨である本だった のだろうか。それにしては批判の中身の説明が不十分で、何に対しての再反 論なのかよくわからないところがある。編集者は単行本化にあたって全面的 に補筆させるべきだったのではないか。 それでも斎藤環は現時点での重要な論者であるのに変わりはないと思われ る。ライフスタイルの変化と心の在り方の関係を突き詰めて考えている。ひ きこもりの若者を実存としては擁護しつつ、その危険性を指摘して社会復帰 への道を探る姿勢はもっともっと評価されるべきだと思う。理論家としての 自分と臨床家としての自分の差違に悩む態度も好きだ。行動する知識人とい うのは、こういう人を指すのではないかと思わせるものがある。 ただ、余りにもセクシャリティの問題と結びつけすぎる「おたく」の定義 には疑問が残る。コレクターとしての「おたく」と自覚的な性倒錯者として の「おたく」は区別されるべきだと思うが、前者に対する言及が弱い。東浩 紀の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)は、逆に、コピー全盛 の現在において、コレクションの意味合いが変化してきたことを力説する意 味で「データベース型消費」という概念を持ち出してきたところはよかった けれど、そのために「物語消費」を「取って替わられたもの」として片づけ がちである。サブカルチャー文化を、斎藤は心理学的にのみ定義し、東は社 会学的にのみ定義している。そのことは彼らの立場から考えて当然のことな のだが、芸術表現としてのサブカルチャーを正面から問題にする人がいない ことが痛感される。誰か、いい批評家が出てこないものだろうか。 先週、先々週とまた音楽では贅沢をしてきた。ハーゲン弦楽四重奏団の演 奏でハイドン「騎士」・ヤナーチェク「クロイツェル・ソナタ」・ベートー ヴェン「ラズモフスキー2番」(紀尾井ホール)とバッハ「フーガの技法」・ バルトーク「4番」・ショスタコーヴィッチ「8番」(フィリアホール)を、 東京シティ・フィルの演奏(飯盛泰次郎指揮)でシューマンの「マンフレッ ド序曲」「ピアノ協奏曲」「交響曲4番」(芸術大劇場ホール)を聞いた。 ハーゲン弦楽四重奏団は今脂の乗りきった時期にあるのだろう。兄弟で構 成されたグループだが、息がぴったり合っていると同時にここぞという時に は思い切りハメをはずす奔放さをも持ち合わせている。ハイドンの後期の作 品など、ベートーヴェンかと思ったくらい激しい演奏だった。バルトーク、 特にヤナーチェクは圧巻。もともと様々な奏法を大胆に導入した劇的な曲だ が、4人が互いを挑発し合うような局面を終始聞くことができ、手に汗握る ような緊張感があった。いい弦楽四重奏団の演奏というのは、4人があたか も1人であるかのように弾くのでなく、4人がまさに4人であることを主張 して弾くものだとかねがね思っていたけれど、ハーゲンの2日間の演奏はま さにそのようなものだった。 シティ・フィルのオール・シューマン・プロは、そういう「抜けた」とこ ろのある演奏ではなかったが、楽しく聞けた。というより、シューマンの管 弦楽曲というのはもっと演奏されてもいいんじゃないかと考えさせられた。 シューマンの管弦楽作品は、オーケストレーションに問題があるとかで難癖 をつけられることが多い。確かに地味な響きだし、ベートーヴェンの影響が 出過ぎているところもある。ピアノ曲に比べて評価が低いのもわからなくは ない。だが、その分、悩み抜いて曲を構成しているのがわかる。内声がとて も細かく、神経質に動いていて、作曲者の揺れ動く心の動きを忠実に比喩化 しているようである。心象というものが、それを核にした自立した構造物を 作り得るという確信があったのではないかと感じられる。シューマンは構成 力に欠けた作曲家なのではなく、何とも言い表し難い個人の心象を、音を徹 底して比喩として使用することで、他者との共有を可能とする構造をめざし たように思うのである。その結果、一見堅牢さを欠いた、不安定な音の建築 物が残ることになる。シューマンの音楽を聞くことは、今にも崩れそうでい てやっと立っている、死と接点を持った生命体の在り方を実感することでは ないかと思った。