2003.4

2003年4月

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4月30日(水)
  だいぶ長い間<錨>コーナーの更新をサボってしまったのでいささか慌て
ているところ。今月もまた忙しい月だった。区議選の投票に行くのを思わず
忘れてしまったくらいだ(もっともぼくにとって、選挙の投票というのはさ
して優先順位の高い行動ではないが)。知事選の投票には行ったが、予想通
り石原慎太郎の圧勝。モノをズバズバ言う存在感のある人は、不安の時代に
は頼りにされるということだろう。でも本当は、不安な時代だからこそ、「
口」よりも「耳」の人の判断のほうが安心できるのではないだろうか。

  4月見たり聞いたりしたものを例によって列記してみると−

  美術展ではサントリー美術館のスピリアールト展を、東京都現代美術館の
サム・フランシス展と舟越桂展が面白かった。
  スピリアールトは20世紀初頭のベルギーの画家で、日本で本格的に紹介
されるのは今回が初めてではないかと思う。クノップフのような神秘的な雰
囲気の漂う画風で、ムンクのような激しさもある。とにかく「孤独」を印象
づけることに命を賭けている作品群で、その暗い色調にゾクゾクしてしまう。
青い色調で描かれた皿一枚が、苦しみ悶える人物のように見えるのに驚かさ
れる。きっと彼は「孤独」を発見した楽しさに夢中になっていたのだろう。
   サム・フランシス展は圧倒的な印象。出光の膨大なコレクションを、年代
順に整理したものだが、作品の変化がよくわかって面白い。初期は、絵よりは
絵の具の可能性を見せている、という感じ。白なら白、黄なら黄の一色だけ
で微妙なニュアンスを作り上げる。超・印象主義と言ってもいいような色の
戯れを堪能した。これら初期作品群をじっくり見ることができたのは収穫で、
単色の中に何とも言えない暖かみが感じ取れる。決して即物的ではない。年を
経るごとに作品はより人間臭く、表現豊かに、いわゆるサム・フランシスらし
くなっていき、息を飲むような迫力が加わっていく。
   舟越桂は木彫りの人間像を得意とする彫刻家だが、むしろ「人形師」と呼
びたい。どの像も遠くを見つめる深い視線を持っていて(手作りの目玉の出来
もいい)、一瞬緊張する。他人と対峙する時に生まれる一瞬の沈黙や緊張を、
像の上に生々しく定着させた作品と言えると思う。
  音楽会では、ブーレーズ指揮のマーラー・ユーゲント・オーケストラの演奏
に度肝を抜かれた。プログラムは、ベルクの「3つの小品」、ウェーベルンの
「5つの小品」、マーラーの「交響曲6番」。若手の精鋭を集めたオーケスト
ラは実によく鳴る。アンサンブルもいいしソロも達者で、このオケをブーレー
ズは徹底的に仕切っていく。マーラーでは、普段では聞こえてこないような細
かい音の動きがクリアに響いてきて、こういう感傷性抜きの演奏もいいなあと
思った。新聞の評では、音楽からロマンチックな表情を奪い取っていいのか、と
いう声も聞かれたが、ぼくにはそれほどサバサバした表現には思えなかった。
むしろ細部まで有機的に流れる、純粋な「音」のロマンティシズムみたいなもの
が濃厚にあったように思われた。ブーレーズを聞くのは2回目だが、自作や若い
作曲家の作品を振った演奏も是非聞きたいものだ。

  まあ、実はこうした完成された芸術作品にばかり触れていると、少しばかりフ
ラストレーションも溜まってくる。どの作品も立派なものには違いなく、感動も
できるけれど、評価が定まっており語り尽くされてもいる。これらの芸術体験は
「文化的」体験以上のものにはならないのである。ヘタでもみすぼらしくても、
同時代のフレッシュな表現に触れたいものだ。その意味で、ゴールデンウィーク
に見にいく予定のイメージ・フォーラムフェスティバルには大きな期待をかけて
いるわけである。

  ところで、会社の仕事の関係で六本木ヒルズのプレ・オープンに行った。森ビル
が街の一区画を丸まるデザインした話題の「未来都市」である。確かにデザインは
凝りまくっている。膨大な予算を好きに使えて、建築家たちは随分楽しかっただろ
うなあ。毛利庭園と名のついた日本庭園など、ジグザグした光と影の対比が眩しく
(夜訪れたのだが)一足ごとに風景が変わって面白い。中に入っている店も高級ど
ころがそろっている。ただ、余白の場所がなくて少し疲れましたね。全てを設計し
尽くしているから、どこにいても設計者に覗かれているような気分になり、落ち着
かない。住む人はかなりの収入が必要だろう。いずれにせよ、ここがしばらく東京
の観光スポットとして賑わうことだけは間違いないだろう。


4月9日(水) バグダットが事実上制圧された。フセインは行方が不明らしい。軍事力で イラクが敗退するのはわかりきっていたことなので驚きはないが、「先進」 諸国が注視する中で、人の命が奪われ財産が破壊された事実に対しては、何 度考えてもめまいのするような想いを覚える。諸国の力の均衡のもとに、う わべだけでも平和至上主義を取り繕っていた「近代」という時代が終わり、 露骨にパワーが支配する時代がやってきた、ということか。 日曜日にマゼール指揮バイエルン放送交響楽団の演奏を聞きに行った(サ ントリーホール)。ブラームスのヴァイオリン協奏曲と交響曲4番という重 厚なプログラム。とにかく響きがすばらしい。様々な楽器の音のブレンド具 合が何とも言えず気持ちがよく、いつまでも聞いていたい気分になる。どう いう訓練をしたらこういうまろやかに溶け合ったサウンドができるのだろう。 天井の高い石作りの教会で、幼い頃から聖歌隊の合唱やパイプオルガンの演 奏を聞いていると、オーケストラに向く耳ができてくるというのだろうか。 個々のプレイヤーの名技(特にオーボエをはじめとする木管)が全体のバラ ンスを決して崩さないのにも感動。ブラームスの分厚い響きが存分に楽しめ ました。ヴァイオリンのソロを弾いた18歳のユリア・フィッシャーはダイ ナミックな演奏。協奏曲のあと、ヒンデミットとバッハをアンコールで弾き 切る体力にも驚かされた。 ブラームスの音楽は、作曲者がその「魂の状態」というものを切々と聴「 衆」に訴えかける、という性質を持っている。作曲家が作曲家自身の精神を 解釈し、高邁な何かを志向するその姿勢を音の動きによって比喩化して人に 伝える。自己によって自己を抽象化するわけだ。御飯を食べたりトイレに行 ったりする具体的なブラームスの行動は、抽象化の対象にはならない。コン サートホールは、言わば神格化された自己の伝授の場となる。表現された「 自己」の前で、それを受け取る者は「衆」とならざるを得ない。一対多の音 楽なのだ。 イメージフォーラムの卒業制作展で見た真利子哲也の「極東マンション」 のような作品はその対局に位置するものである。作者は自分の立ち位置を「 多」として定める。ブラームスが絶対的な「一」を求めたのと逆である。但し この場合の「多」とは、その成員一人一人が絶対的な孤独を抱え持ち合うこと を前提とする「多」なのだ。彼は彼の映画によって、作者の「多」を観客の 「多」と交雑させることをもくろんでいるように思える。民主主義の世の中で は、個人の存在はかけがえがないことになっている。だがそれはただ理念的に 「かけがえがない」だけで、それ以上の意味を他人が感じることは無理だ。か けがえがない、なんて、だから本当はたいして他人に訴えかける力を持たな いのだ。彼の家族でもない限り、彼に対してかけがえのない想いを抱くことが 難しい。真利子哲也は個人のかけがえのなさの無価値なさまに絶望し、映画に よって観客が「作者を知った」ことを唯一の突破口に、彼の存在の重さを虚構 するのだ。故に真利子哲也は自己を抽象化する道に見向きもせず、ひたすら自 己をイメージ化して観客の心に残そうと奮闘する。 個人の尊厳を口にしつつ平気で民家に爆弾をぶち込むようなパワーポリティ クスが台頭しつつある世の中にあって、「自己」を表出する戦略性も変わりつ つあるようだ。この変化はとても面白いので、しばらく目を見開いて新しい表 現の芽を探すことに注力しよう。