2003.6

2003年6月

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6月18日(水)
  先週で39歳になりました。40歳目前ということです。女房子供のいる
「きちんとした人生」というものを無視してかかっているぼくですが、年齢
というものは意識しだすと恐ろしいものですよ。最近は「死」ということも
ぼんやり考え始めていますね。身体というものは、衰退していつかは死に至
る。事物が変化していく様を眺める時には誰しもある無常感に囚われるもの
だと思うが、自身の肉体が劣化しつつある状況を認めるのは結構しんどいだ
ろう。この、死に対する心構えを一生かけて作っていくのが、旧来の人間の
たしなみだったのではないかと想像する。子孫を残す、なんかその最たるも
のでしょう。昨日、会社の同僚に二番目のお子さんが無事に生まれて、とて
もよかった。感動しただろうなあ。よかったのだけど、ぼくはできるだけそ
ういう準備を経ないで死に至りたいと思う。衰退の果てにある日突然ストー
ンと死にたいなと考えるわけ。「きちんとしない人生」を全うするとという
ことは、死ぬ直前まで、最期の一息まで「好き勝手に生きている」ことだろ
う。これはこれで結構難しい気もする。詩を書くなんてことは好き勝手の最
たるものだけど、「好き勝手に」なんてなかなか書けるものじゃない。自由
に、とか、いいものを書こう、とか、雑念が入ってくるともう「好き勝手」
ではなくなる。対象を見つけて追いかける、それやってるうちにいつのまに
かおじいさんになっていたら幸せでしょうね。いつか、劣化しきった自身の
身体の様子をじっくり対象化して書きたいものです。

   先週もコンサートに行ってきました。シャルル・デュトワ指揮NHK交響
楽団の演奏でリヒャルト・シュトラウスの「エレクトラ」(演奏会形式)。
デュトワはこれでN響の音楽監督の任期が切れる。惜しいことだ。この曲は、
オーケストラの性能をフルに活用した華麗きわまりない音楽で、全曲これ山場
と言わんばかり。ドビュッシー風の色彩感覚もあるし、ストラヴィンスキー風
のリズムの躍動もある。もちろん、ドイツロマン派らしい荘重さもある。いろ
いろな要素を混ぜ合わせて曲を作っているのだが、どの要素もぎりぎりのとこ
ろで暴走させず、うまく抑えてまとめている感じだ。前衛的な手法を散りばめ
たエンタティメント音楽といったところか。こういう一種の安定感が、マーラ
ーと比べて日本では評価の低い所以なのだろう。が、音のスペクタクルを手放
しに楽しむ贅沢というものも存在するわけだ。ドラマを盛り上げる効果とい
う点で、リヒャルト・シュトラウスの音楽は、恐らくハリウッドの映画音楽に
多大な影響を与えたことだろう。デュトワは骨太にがっちり解釈していて、音
のお祭り騒ぎになりがちな「エレクトラ」を交響曲のように指揮していた。N
響も快調。やはりデュトワにはもう少し音楽監督でいて欲しい気がする。コン
ネル以下の、疲れをみせない歌手陣にも驚く。

  リニューアルしたギャラリー「ときのわすれもの」にも足を運んだ。高い
屋根にはっとさせられる木造の建物。外国の教会の中にでも足を踏み入れた気
分になる。展示は小野隆生の新作。一見落ち着いた表情の静かな人物画だが、
目の表現に特色がある。まるで目の中に、その人物以外の異様な「何か」が隠
れ棲んでいるようなのだ。恐らく、顔から独立したかのような異様なこの目の
輝きを念頭に入れて、表情全体を「再構成」する仕方で作品を制作しているの
だろう。穏やかな表情の人造人間のポートレートといった印象だ。

  サルサのライブを2回こなす。一つはいつもやってる渋谷クロコダイルだが、
もう一つは青山CAYの0時スタートのライブ。ティンバレスのウィリー長崎
氏と共演して、その個性的なノリにビックリしつつ演奏した。楽しかったけど
疲れましたね。みんな夜通し遊ぶわけですよね? 体力あるんだなあ。


6月1日(日) 雨が多くなってきた。さすが6月ですね。じめじめしたこの季節を嫌う人 も多いけれど、ぼくはそれほどイヤではない。曇りとか雨とかいう天気の日 は結構元気なことが多い。家の中でじっとしているのが好きなタイプなんで すね。傘をさして散歩に出ると、アジサイに出会う機会が多くなるだろう。 アジサイは花の中で一番好きな花なのだ。 20年ぶりに高校一年のクラスの同窓会があった。本当に久しぶりに会っ たというのにみんなあんまり変わってない。さすがに名前はすぐに思い出せ ないものの、顔をみると「あっ、あいつだ」とすぐに気がつく。喋ってみる と性格まで高校時代と同じなので、懐かしいやらおかしいやらだ。それでも みんなそれぞれ大人としての年月を背負っていて、仕事や子供のことを自信 を持ってゆったり話すところなどは、やはり成長しているなあと思わせる。 そして、もう人生の折り返し地点にいるのだ、とうことを意識させられ、ギ クリとさせられる。ぼくなどはのんきな性格なので、年相応の生活をしなき ゃなどと思うこともなく、いまだ好き勝手な毎日を送っているわけだが、こ うして同窓生の仲間たちと談笑する機会を持つと、ちょっとアセりますね。 でも、みんな元気でよかった。 大学の先輩だったサックス奏者の野口宗孝さんのお墓まいりにも行ってき た。 横浜霊園にはいつのまにかお墓が増えていてびっくり。今まで通路だっ たところを均して新しく墓を立てている始末。傘をさしてお参りをし、墓前 で、故人も好きだったビールを飲んだ。野口さんはすばらしいミュージシャ ンだったのだが、余りにもユニークな演奏スタイルだったので、認められる のが遅かった。ようやく評判になり始めた頃に癌に罹ってしまったのだから、 さぞ無念だったろう。帰りに大学のジャズ研OB仲間と藤沢で飲み会。友人 が子供を連れてきていたので遊んでやっていたら、結構クタクタになるまで 相手をしてしまった。子供の、遊ぶエネルギーというものは本当にすごいも のですね。 イメージフォーラムで「ヤングパースペクティブ」展のプログラムを2つ 見る。印象に残ったのは清水継祐「太陽系第3惑星」と鈴木志帆「沖の未明」。 「太陽系第3惑星」は水槽で奇妙な魚を飼う女の子の話。女の子は魚が好き になって、魚のエサを取るためハエ殺しに習熟し、海洋性の魚の水槽に塩分 を補給するため、汗を掻いては水の中に垂らす。魚は自分の生い立ちをちょ っぴりと、円周率の数字を何ケタも喋る。だが、魚は女の子の話を聞くわけ はでなく、コミュニケーションは成立していない。魚=か弱いものを愛する 女の子の切ない気持ちがゲーム的な展開の中で伝わってくるが、それは男性 である作者=魚=か弱いものの願望の裏返しなのか? シリアスな追求をは ぐらかす、繊細な照れ隠し。 「沖の未明」は、小川未明の童話を基に作られた一種の音楽劇。盲目のチ ェリストである弟とダンサーである姉は、砂浜にダンボールハウスを作って 生活している。ある日姉はおエライさんに誘われてダンス・パフォーマンス を披露しに行くが、残された弟は「別世界にいるもっと優しい姉」に誘われ て姿を消してしまう。チェロのフリージャズ風の演奏がすばらしく、この音 楽を作品の中心に持ってきたのは大正解。演技や演出も同じくらい濃密であ れば言うことなしだったのだが、音楽に合わせて全体を構成するというアイ ディアはなかなかいい。 「ヤング・パースペクティブ」は、イメージフォーラムフェスティバルの 一次審査を通過した、選外佳作作品なのだが、実は入選作よりずっと面白い のだ。アイディアの斬新さ、気持ちの濃さが違う。審査員だった人たちには この斬新さがわからなかったのかなあ?