2003.7

2003年7月

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7月27日(日)
  フセインの息子のウダイとクサイが射殺されたとのこと。逮捕して機密を
聞き出すんじゃなかったのか? 大量破壊兵器はなかった、との回答を得るの
が恐かったのか?  この「成果」でアメリカ国内は湧いているらしいから困
ったものだ。幾ら同盟国だからといってアメリカの軍国主義に歩調を合わせ
ていると、日本もいつかとんでもないしっぺ返しを食うだろう。エマニュエ
ル・トッドの『帝国以後』(藤原書店)という本を読むと、アメリカは派手
な軍事行動を、アメリカ自身の経済力・政治力の後退をカヴァーするために
繰り返すのだと書いてある(この本、各国の文化水準を評価するのに、出産
率を大胆に基準に取るという荒業をやってのけてそれなりに説得力がある。
宗教の違いだの何だのは、さほど文化の違いとは関係ないそうだ)。コンプ
レックスが原動力だとすると、面倒なことになりそうだ。
  小泉首相は、経済の改革を推し進めるために、他の点は全て保守勢力とつ
まらない妥協をしているな、という感想を持つ。自民党を壊すと言って自民
党内部にしかいられない立場というのは、やっぱり限界があるかな。

  目黒の庭園美術館にマリー・ローランサン展を見にいく。ローランサンの
絵をまとめて見たのは初めてだったが、甘さよりも厳しさ・険しさが勝った
絵画だという印象が残った。彼女自身の小さな世界を護るために必死の形相
で闘っている様が、筆の痕跡に濃厚に残されている感じだ。有名なあの「灰
色」は、思っていたよりもずっと渋い色調だったが、画布を細かく引っ掻く
ようなタッチで塗られていた。モダニズムの影響が出始める前の習作期の自
画像も興味深かった。鏡に見入るような、自分に対する執着の強さを感じさ
せる。ぼくは概して、男性よりもむしろ女性の表現者のほうが好きで、それ
は自我という最小単位への男性よりも固執が強く感じられるからだが、ロー
ランサンの、一見、美しいイラストのような作品も、その内実は自我の葛藤
を重く秘めているように思われる。好きな詩人の吉行理恵の作品にも通じる
ものがある。こういう、浮遊するようでいて、自我の核心がしっかり感じら
れる世界には、どうにも憧れてしまう。

  先週、サントリーホールで聞いたハイティンクのブラームスはすばらしか
った。プログラムは、大学祝典序曲、バイオリン協奏曲、交響曲1番。結構
激しくテンポを動かしたり濁った音色を作ったりするのだが、決して派手な
ウケを狙っているようには聞こえず、内実の伴った効果を演出している点に
驚く。こんなすごいブラームスは次にいつ聞けることだろうか。ただ、バイ
オリン独奏のチョン・キョンファの出来がひどいのにびっくり。これで世界
的ソリストですか?  オーケストラは世界中の名手を集めたスーパー・ワー
ルド・オーケストラという名称の臨時編成のものだったが、精度の高さに感
動。協奏曲のソロはコンマスにやらせればよかったのに。


7月13日(日) 長崎の中学生による幼児殺人事件。悲惨ですね。けれど、某大臣が発言し たように、「勧善懲悪」を教えたからと言って、この種の事件が減るとは考 えられない。むしろ、「勧善懲悪」の考え方が身に染みてわかっているから こそ、その網の目をかいくぐることに官能的なスリルを感じてしまうのでは ないだろうか。事件の真相究明には、防犯カメラが一役買った。批判が多い が、防犯カメラというものはやはり市民の安全のために必要なものなのだ。 問題は、記録された映像を、誰がどういう権利で点検するかということに尽 きると思う。 イメージフォーラム「ヤング・パースペクティブ」に今日も行ってきた。 面白い作品が多い。佐俣由実「Father Complex」は、家族に迷惑をかけ続け た上で自殺した父親との関係について、携帯電話の向こうの相手に向かって 劇白し続ける作者自身の姿を撮った作品。作者は父親を憎んでいること・父 親のことで親戚に対し肩身の狭い想いをしたり、友人に隠し事をしてつらか ったことを赤裸々に語る。そして映画を製作する機会を得て、胸のうちを吐 き出すことができて清々しいと、涙まじりに訴えるところで終わる。作者は 父親を許したわけではないし、親戚との関係を修復できたわけでもない。た だ、諸々の想いの告白がかなったことをひたすら喜ぶのである。この映画を 見た人は、作者に対し、「苦しさを打ち明ける機会が作れてよかったね」と 心底思うだろう。芸術作品としてこの作品を鑑賞することなどできなくて、 映画を通じて、人と接することの重みをモロに実感させられることとなる。 このような、モロの実感というものが、新しい芸術の創作=鑑賞のパラダイ ムを開いていくことになるのではないかと感じさせられた。 山内洋子の「エロティック・煩悩ガール」も面白かった。早くに両親の離 婚を経験し、母親の手で育てられた作者が、こどもを生むことについて考え るという映画である。作者は「すぐ寝ちゃう女の子」なのだが、特定の男性 を深く愛することができない。だが、こどもは生んでみたい。かと言って、 一人で育てる自信はない。作者は思い余って(何故か)寺に修行に行くこと になる。和尚さんは高齢でアタマがボケかかっており、何の参考になる意見 も言ってはくれない。また、そこで修行している若い坊さんは、作者にプレ ゼントをくれたりして煩悩から解き放たれていない様子。作者は死んだ母親 の愛情の強さについて考えたり、妊娠中の友人と話したりするが、遂に男性 を愛し抜いてこどもを生むに至る納得できる道筋を発見できずに終わる。憧 れの「大きなおなか」のイメージが、木魚やら丸い鍾乳石やらの形態とオー バーラップされ、増殖していくのがおかしい。コミカルな語り口の中で、父 権制の家族の観念が、女性の生への欲望を抑圧している様が浮き彫りにされ ていく、楽しくも恐い映画だった。 昨夜は(それとも今日かな?)川崎クラブチッタでの深夜ライブがあった。 我がロス・ボラーチョスは午前2時ちょっと前からの出演。夜遅くまで起き ていると気分が高揚してきて、結構いい気分になるもんですね。他のいろん なバンドの演奏を楽しみ、自分でもちょいと踊ったりしてました。5時すぎ にお開き。朝の空気がおいしかったです。本当は途中で抜け出して深夜焼き 肉を楽しもうかと思ったのだけど、仲間はあんまり同調してくれなくて、車 で帰っちゃった。みんな若くないなあ。
7月6日(日) 遂に怖れていた夏(!)が来ました。でも意外と今日は涼しくていい感じ。 毎日このくらいの範囲に暑さがおさまっていてくれればいいのですがね。暑 さは苦手でも、夏という季節自体は嫌いではない。「夏休み」というものが あって、街行く人の表情に、何かしら解放されているものを感じるせいだろ うか。 先々週、仕事でおつきあいをさせていただいた関係で松岡正剛氏の連続書 評企画「千夜千冊」の800冊めの記念パーティに足を運んだ。もちろん、 会社の人間として行ったわけだが、集まった人の数の多さに驚かされた。松 岡正剛と言えば、ぼくが学生だった頃から、「遊」をはじめとする知的娯楽 本(と言って失礼でないかな)の精力的な編集人・著作家として知られてい た人だ。日本の水墨画をテーマとした新刊『山水思想』(五月書房)でも、 膨大な知識を次から次へと披露する独特なスタイルは健在。とにかく文化的 価値があると見れば、哲学の古典からマンガまで、書評しまくってしまおう というのが「千夜千冊」の主旨である。ジャンルをクロスオーヴァーしなが ら(多少大雑把でも)文化の諸相を総合的な視点で斬っていくというタイプ の批評家は本当に少なくなってきた。80年代には、高山宏、中沢新一、四 方田犬彦、といった人たちがいて、それなりに総合的・横断的に芸術につい て語っており、彼らの言説を頼りに自分の関心の範囲を広げていったものだ が、今はそういう批評のリーダー格と言える人が本当にいない。現在、各ジ ャンルが細分化・専門家している、というよりも、個々の人間の非常に個別 化された関心が各個人ごとの微細なジャンルを絶え間なく生み出している、 という感じなのである。このことは一概に「悪いこと」とは言えない。良い ものであっても、「総合的な視点」で語られることによって、振るい落とさ れていくものも多いからだ。表現が大衆化し、大衆が表現を消費する側でな く、生産する側になった、ということだろう。総合されないことによって、 大衆の表現はますます個々のものとなり、孤独になった大衆から大衆性が消 失していくことであろう。松岡正剛の編集スタイルは、対象とする文化のあ る確固とした地盤を想定し、文化の「本質」を具現化したたくさんの作品群 をその地盤の上でパレードさせていく、というものである。一種の還元主義 的思想であると思われる。還元主義的思考は批判されることが多いが、本来 マイナーなものである表現物をマスメディアに乗せてその存在をアピールす るためには極めて有効である。松岡氏の知的スノビズムは、それを継げる人 がいないだけに、今となっては貴重だと思う。 会場に舞踏家の大野一雄が現れ、車椅子に乗ったまま近藤等則の音楽に合 わせて舞いを披露したのにはびっくり。しかも2曲。もう、本能と記憶と執 念だけで踊っているという感じだった。97歳だそうですね。 松涛美術館に「上海博物館展−中国文人の世界」を見にいく。15−19 世紀の「文人」たちの絵画、書、それから文具などを展示したもの。全く予 備知識がないので、各作品の説明の文章さえよくわからないのだが、すごく 面白かった。中国の知識人たちの精神生活・日常生活の豊かさがうまく演出 されている。硯や文鎮、印鑑のような小物にあっと息を飲むような贅沢な細 工が凝らされているのに感動。時間を使う技術に長けていたんでしょうね。