2003.8

2003年8月

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8月31日(日)
  今日で8月も終わりだが、暑さが一時ぶり返したものの、結局、夏らしい
夏は戻って来なかったような気がする。
  小学生を殺害した宅間被告が遂に謝罪の言葉を口にしなかったことやら、
イラクで悲惨なテロが相次いでいることやら、北朝鮮問題がちっとも好転し
そうにないことやら、うすうすみんなが予感していたこれらの「悪い方向」
は、夏の悪天候とはもちろん無関係だが、うまくいかない時はうまくいかな
いもんだよね、という鬱々とした気分を形成させてしまっているようだ。も
ちろんこれらのことは連鎖して起っているのでなく、個別の複雑な事情に因
っているのだが、テレビを通じていっしょくたに受け取っていると、まるで
一つの絶対的で抽象的な「悪」の根源から流れ出しているように感じられて
くるから困ったものだ。余りにも多量の情報に接していると、個別に判断し
たり、或いは判断を保留したりする頭の働きが麻痺してしまって、早急に結
論を出してしまいがちになる。我ながらイヤになりますね。知らないことを
知らないと言うことのほうが難しい時代って、いったい何だと思ってしまう。

 ぼくはこの夏、映画や美術館に足を運んだ他は、ほとんどどこにも行かなか
ったし、何もしなかった。関心事の幅というものが、このところますます狭
まってきた。詩に対する意識も随分と変わってきて、まず「現代詩手帖」や
「詩学」のような詩誌を手に取るということが全くなくなってしまった。詩
人たちとのつきあいも、ひどく限られたものになってしまっている。今ほど、
自己満足のためだけに詩を書いた時期はない。それでも、ますますぼくの詩
は読まれることなしには成立しないような、「誰か」の反応を常に当てにす
る語りかけ口調のものに変貌していっている。対話が一番成立しにくい場所
で、いかに対話を成立させるか、そのことばかりを考えて、しばらく詩を書
くことになるだろう。

  タワーレコードをぶらついていたら、作家深沢七郎のギター演奏を収めた
CDが出ていたので試聴してみた。余りにも良いのですぐ買って、今じっく
り家で聞き直しているところ。深沢七郎は、三上寛の解説によると、「小説
家である以前に、類稀なギタリストだ」ということになるが、事実、『楢山
節考』で中央公論新人賞を取る前に、既にギターで相当な場数を踏んでいた
そうだ。自作を含む、日本人の作品ばかりを演奏したアルバムだが、クラシ
ックとも演歌とも創作民謡ともつかない、土の臭いと情が染み込んだような
独自の音楽だ。いかにも我流で学んだ、という感じの演奏だが、技術的にも
意外としっかりしており、破綻は見られない。ぽつりぽつりと、一音一音に
強い表情を込める弾き方はユニークとしか言いようがなく、モンクのソロ・
ピアノを思い出したほど。プロとかアマチュアとかを超越した、純粋な音楽
家の音楽を、本当に久しぶりに聞いた。

  夏らしくない夏だったが、麦茶はよく飲んだな。ぼくは麦茶が大好きで、
子供の頃は母親によく作ってもらっていたものだ。暑い日に、ごはんに冷た
い麦茶をかけて、麦茶づけにして食べていたものです。麦の風味が微かに香
る、それだけでごはんが非常にうまいものに感じられて、満足を感じていた
ことを思い出す。味覚は、特別な思い込みなしには成立しないものなのであ
ろう。今年は麦茶は飲んだけれど麦茶づけは食べていない。今夜あたり二十
年ぶりくらいの麦茶づけを食べてみようかな。


8月11日(月) ようやく「暑い夏」がやってきたが、東北や北海道では冷夏が続いている ようだ。そう言えば10年ほど昔、冷夏で米不足の年があった。あの時は確 かタイ米を大量に輸入してそのまずさにみんな不平タラタラだった。あれは 輸入元に対して失礼だったなあ。そもそもタイ米は白い御飯のままで食べる 品種じゃないし。あの時と似た状況にはならないのかな? と言っても、日本 の農業政策の行方が気になるのは冷夏の時だけなのだ。 土曜日の深夜1時半からサルサのライブに出た。新宿ゴールデン街の復興 チャリティライブということ。どんなに遅い時間帯でも、遊ぶ人がいること に驚かされますね。新宿2丁目に近いライブ・フリークという店に出たのだ が、あのあたりはアッチ方面の人がいかにも楽しそうに歩いているのによく 出くわすが、こっちまで楽しい気分になれる。2丁目独特の非現実感は健在 のようですね。 Bunkamuraミュージアムで「フリーダ・カーロとその時代」展を 見る。カーロだけが特別扱いではなく、20世紀前半にメキシコで活躍した、 シュルレアリスムの影響を受けた女性画家7人を公平に取り上げる構成にな っている。特定の時代に、特定の地域で、特定の思潮の影響下で創作活動を 続けた特定の性の画家たちの展覧会ということ。ある土壌を微妙に共有した 上での個性の違いを楽しめる優れた企画だと思った。 その7人とは、フリーダ・カーロ、同じくメキシコ出身のマリア・イスキ エルド、ヨーロッパから来たレメディオス・バロ、レオノーラ・キャリント ン、アリス・ラオン、写真家のローラ・アルバレス・ブラボとカティ・オル ナ、である。皆、高度に洗練されたテクニックを身につけていて、非常に垢 抜けた印象を持つ。と同時に内的な欲望を強烈なイメージの提示によって比 喩化する方法を取るという点でも共通項を持つ。そのイメージに、民俗的な 要素(必ずしもメキシコのものばかりでない)を混入させるという点も似通 っている。文化的土壌というものはあるものなんですね。これは女性ならで はと言っていいのかどうかわからないけれど、生活の臭いがそれぞれ濃厚に あるのもいい。生活の細かい部分を丁寧にイメージ化し、抽象的なレベルに 無理なく持ち上げているように感じた。 今日はとりわけ二人の画家、メキシコ民衆特有の生活の民俗的な要素を意 識的に取り込んだイスキエルド(迫力ある魚の描写が印象に残る)とミロの ように空間に記号が浮遊する画風のアリス・ラオンの作品を楽しんだ。もう 一回見にいきたいものだ。 『野村尚志詩集1988−2002』(武蔵野書房)を毎日少しずつ読ん でいる。彼の選詩集といったところ。「詩でもっとも大事なのは言葉の透明 感」だとあとがきで書いているけれど、確かに詩集全体は、風が吹き抜けて いくような印象が残る。ただ、一編一編を読み進める際の抵抗感というもの は相当なもので、この透明感を支えているのは現実を素材にして虚構を造形 する葛藤の不透明感なのだろうとも思う。とにかく何度も繰り返し読んで、 勉強したい詩集だ。 晴天 野村尚志 茶碗一杯の大根おろしはたいへんだ ふっとゆるめた手が まな板にふれて わたしは天井をみあげています そして「わたしは天井をみあげている」と思っているのです 「確かなものにつきあたらないので 今日はいちにち大根おろしを続けていました」 訪ねてくれた友人とお茶を飲んだあと そんなひとりごとを考えてみたまではよかった ほんとうにはじめることはなかったのです (となりの庭からキンモクセイがかおります (キンモクセイは好きです 冷蔵庫に大根をしまうわたしは たぶんこれから散歩をする そして散歩をしていることを忘れてしまって そのうちに わたしのからだのうちがわに あかるいものがみちてくる