2003.9

2003年9月

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9月27日(土)
  9月は仕事が忙しくて、また<錨>コーナーの更新が遅れてしまった。ゴ
メンナサイ。ヒーターが必要なくらい寒い日と、夏が戻ってきたみたいな暑
い日が交錯し、会社でも体調を崩す者が続出。でも、昼と夕方の気温差は、
個人的には結構楽しくもある。

  講談社の新文芸誌「ファウスト」の創刊記念トークショーに行ってきた。
「ファウスト」は、マンガに近いテイストのポップな小説を押し出した話題
の文芸誌で、舞城王太郎とか西尾維新、佐藤友哉といった新世代の人気作家
を全面に押し出し、彼らに理解のある東浩紀や斎藤環らの評論家を集めてい
る。この雑誌の特長というのは、若い太田克史さんのワンマン編集によるこ
と(個人の判断で思い切った決断をすばやくできる)、イラストと小説の融
合性(イラストーリーマガジンと銘打っているほど)、そして何よりもフォ
ントに拘っていること(“フォントディレクター”として世界的に著名な紺
野慎一氏を雇い、作家ごとに小説の活字のフォントを替えている!)、など
などである。文学の活性化とか何とかでなく、ようやく好きな人が好きな人
のために適切な媒体を用意した、という感じである。文学はこの「学」とい
う字がいけないのか、読者を主体として雑誌を作るという考えが持てていな
かったと思う。今までは、「作家」の方が主体だった。作家や評論家のエラ
さを吸収して読者が知的エネルギーを得るという構図だった。福田和也あた
りは今でも評論家中心の「上からの」文壇経営の復権を考えていることだろ
う。「ファウスト」はその逆をいくものであり、商業文学というものを読者
へのサービス中心に捉えている(サービスというと聞こえは悪いが、作品の
質の管理ということも当然含まれている)。
  不特定多数の読者へのサービスを目的としない詩にとっても、こういう文
学の在り方は参考になると思う。
  ただ、彼らの小説作品自体がぼくにとって楽しめるものかどうかはやや別
問題である。彼らの作品はバーチャル・リアリティをアイディアの源泉とし
言葉を極めて記号的に操作するものだが、あるところではその記号操作が単
純すぎて先の読めるものになっているし(舞城王太郎の作品)、あるところ
ではメッセージ性がナマの形で出過ぎてこれまた単調さに陥ってしまってい
る(佐藤友哉の作品)。まだまだ、ゲームと文学が出会った90年代文学の
域を越えていないかな、と思わせてしまうところがある。
  トークショー自体は、いわゆる「ファン」の集まりという感じで、熱気に
溢れたものだった。質疑応答も、例えば作家に生年の星座を聞くなんてのが
続出したりで、作家をちょっとしたアイドルとして扱っている。まあ、みん
な楽しめているようだし、よかったんじゃないかな。東浩紀が頑張って、若
い読者でいっぱいの会場を盛り上げようとしている姿に感動。知識人の像も、
昔とはだいぶ変わってきそうだ。編集長の太田さんが2時間半、出ずっぱり
で、編集者自身がアイドル視される状況というものも面白かった。

  ブルーノートに、ブラジルのミュージシャン、ミルトン・ナシメントを聞
きに行く。15年ほど前の初来日公演以来、2度目だが、とても感動した。
声に若干の衰えは感じられたが、深みのある歌い方は変わらず。あの途方も
ない透明感は何なのでしょうね。声を電子音のように捉えているとでもいう
のだろうか。彼が登場してきた70年代初期の音楽のある側面−楽器と声と
電子音が互いに対等の立場で関係しあう−についての研究は、これからじっ
くりなされなければならないのではないかと思った。

  毎年出演している甲府のサルサ祭り。今年は大雨の日が当たってしまった
が(というか去年もそうか)、バスを借り切って大騒ぎして遊んだ。いつも
お昼は野外でバーベキューを焼いて食べるのだが、今年はハンバーガー。雨
の中、傘を差しながら作ったハンバーガーの味はなかなかでした。プロのバ
ーテンのドラゴンさんがモヒートを作ってくれて、口あたりがいいので喜ん
で飲んでいたら途中でバタンキューになってしまった。ラムはやっぱりアル
コール度数が強いんですね。雨の割には、奇特にも集まってくれたお客さん
は帰らずに聞いてくれて(野外ステージなのに)、まあよかったんじゃない
かなあ。帰りのバスの中ではおいしい日本酒を飲み、いい気持ちで東京へ。
ただ、ここ数年出演するバンドの顔ぶれが同じなのが少し心配。地元のブラ
スバンドとかロックバンドでも呼んで、甲府のローカル色を出してもいいの
ではないかと思った。


9月14日(日) 総裁選のイザコザの果てに、野中が遂に政界引退というところまで来てし まった。ハト派の牙城が崩れたことを悲しんでいいのか、派閥政治が終焉を 迎えつつあることを喜べばいいのか、という感じだ。「戦後」を特長づけて きたものが本格的に衰退してきたな、と思った。今後、「戦後民主主義」を 守る、という構えでの民主主義の擁護は、無効になっていくのではないだろ うか。 「戦後」という括りは、物事を敗戦体験を基点にして捉えるという考え方 からくるものだろう。敗戦体験を基点に物事を考えるということは、自己否 定するということと、勝者である「西側」の民主主義の観念を咀嚼し具現化 するということだ。「西側」との協調ということが考えのフレームを規定し、 それから逆算する形で細部が形成されていく。フレーム自体についてラディ カルに問うことが避けられる代わり、具体策の執行の手順についてそれぞれ の利権に従って壮絶な争いが起こる。利権ごとに集団ができ、経済の安定 成長によって何となく存在意義を認められ、確立されていったのが派閥政治 というものであろう。無論、国民を飢えさせなかったという点と戦争を起こ さなかったという点で、これまでの自民党の政治は正当に評価されなければ ならない。が、政策決定がたった一つの政党内の派閥の力関係によってノン キになされることが許されていたのは、安定した思考のフレームが初めから 与えられていたからだろう。 今、「西側」がアメリカ一国を意味するものでしかなくなり、それが世界 の秩序を守るとはとても思えなくなって旧来のフレームが崩壊した時に、派 閥政治の存在意義が失われることはごくごく当たり前のことである。派閥政 治というものが、思考の大枠を問わず、手順についてのみ議論をする集団の 政治だからである。 しかし、ここが少し難しいところなのだが、「戦後民主主義」の外に出る と、今度はいきなり「誇りある、自立した国家・日本」の構築を目指そうな んていう奴が現れてくる。自立は多少しなければならないだろうが、誇りの ほうはどうでもいいなあ。とりあえず他の国に迷惑だけはかけないようにお 願いしますよ、あとが恐いから。 でもって総裁選の立候補者の討議を聞いていると、小泉首相は改革路線継 続の一本張りで細かい話を一切しないし、他の候補者たちは、改革と同時に 景気回復策の、これまた一点張りである。どうせ討論をやるのであれば、も のすごーく具体的な問題を取り上げて徹底的に細かい話をやって欲しいと思 うけれど、そうはならないんだな。余りこみいった議論をテレビでやっても、 視聴者にあきられるだけでアピールにつながらないとの判断なのだろうか。 世田谷美術館で「6人の個性と表現」展を見る。何らかの障害を背負った 日本のアーティストたちの展覧会だ。全員、ほぼ無名。こういう半アマチュ ア芸術家を集めて堂々と大きな企画展を組んでしまう世田谷美術館は、やっ ぱり好きだ。ほとんどが抽象画で、心の状態を素直に表わすのに抽象を選ぶ ようになったというのは、20世紀に生まれた抽象絵画が前衛絵画でなくな ったことを意味するのだろうか。 中で唯一、風景画を出品した斎藤勝利の作品に特に惹かれる。何でもない 風景を画用紙に焼きつけたようなシンプルな作品だが、過ぎ去っていく時間 を切なく感じさせる。主観に現れては消える、現象のはかなさをよく捉えて いて、アマチュアライクながら目を惹くものがある。こういうものを見てい ると、「傑作」って何だろうな、と思う。卓越した技術とか、斬新な観念と か、そういうものがなくても感動させる時は感動させてしまう芸術というも のがある。何のために描くか、という作品以前の背景を濃く感じさせるもの だけが、人の注目を集める、それだけは確かなのだ。 帰りに砧公園で犬をたくさん見る。あそこは犬の散歩の名所だからね。小 型犬のほうがかえって気性が荒く、大型犬は概してのんびりしていることに 気づく。犬同士の追いかけっこの情景も見られるが、結構必死になって逃げ ている犬もいる。もしかしたら決して平和な情景ではないのかもしれない。