2004.1

2004年1月

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1月31日(土)
 サイエンスライター松浦晋也氏とSF作家笹本祐一氏の、ロケットを
テーマとした対談を収録するために品川プリンスへ。宇宙開発の話は基
本的に暗い話だということと、宇宙開発は究極的には地球滅亡から人類
を救うために必要なのだということを知る。初めてお会いする笹本氏は
気さくで話もうまい素敵な人だった。仕事とはいえ楽しいひととき。
 帰りに東横線に乗ろうとすると、たくさんの男女が一斉にカメラを車
両に向けている。あ、今日は東横線の終点が桜木町である最後の日なの
だった。桜木町に頻繁に行くわけではないのに、何だか寂しい気分に陥
る。人間の哀しみというのは、「別れ」を基本とするものなのでしょう
ね。


1月20日(火)  紀伊国屋ホールに、姜尚中と宮台真司のトークセッションを聞きにい った。タイトルは「国家を操舵する意志」で、双風社刊の『挑発する知』 で扱われた話題がテーマになっている。両者の話のうまさと会場を満席 にした聴衆(若い人が多い!)の熱気にびっくり。若い人の間で人文的 な思想に対する興味がなくなってきたなんてのは嘘だなあ。姜・宮台と も、大学教師であり、テレビで討論慣れしているせいもあって、極めて 話の筋がわかりやすい。  北朝鮮による拉致被害者の扱いのことで姜尚中が外務大臣に呼び出さ れた時、大臣が「もうどうしたらいいかわからない」と漏らしたという エピソードには仰天した。被害者らを北朝鮮には戻さないという決定が 下る数日前だという。こんな混乱した状況下で、重大で大胆な決定がな されたことに心底驚く。姜尚中は「交渉事はリアリズムでいけ!」と北 朝鮮との地道なやり取りを継続することを提案したようだが、無駄にな ってしまったようだ。彼は、日本が、EUともっと親しくなって、アメ リカ一辺倒の外交から脱するべきだとも説いていたが、その通りなんで しょうね。日本にとって「外国」は、アメリカ以外ではないですものね。  宮台真司は「こんなことで右翼の皆さんは恥ずかしくないのか」と、 日本の外交の非主体性をヤジり、会場から笑いを取っていた。  但し、最後に司会者が両者にとっての「国家」のあり方について聞い た時に、二人の違いがキラリと出た。姜尚中は、自分が在日韓国人とし て、民族や国家の問題で苦悩してきた経験から、個人にとって国家の問 題が重荷でなくなる時代・個人が個人として自由に生きられる時代の到 来を望むと答えたのに対し、宮台真司は、グローバリズムへの警戒を語 り、日本人が持っている文化的伝統の保持を訴えていたのが印象的だっ た。サブカルチャーに日本の文化的アイデンティティを託しているよう だったが、果たしてうまくいくか?    スディーヴン・コヴァセヴィッチのピアノ・リサイタルを聴きにいく (1/19 紀尾井ホール)。曲目はベートーヴェンの「ソナタ14番・月光」 「ソナタ31番」とシューベルトの「ソナタ21番」。テクニックにやや衰 えがみられ、ミスタッチや和音の濁りが目立ったのが残念だったが、構 成力が冴えていて楽しめた。テンポをぐいぐい動かしたり、休止を息を 飲むくらい長く取ったりして、巧みに山場を作る。曲が物語であるかの ように聞こえる。こういう演奏は日本人は余りしないので、音大生が聞 いたらいい刺激になるのかもしれない。  Bunkamura ザ・ミュージアムで棟方志巧展。ああいう立志伝中の人 物のようなタイプの芸術家は苦手なのだが、作品は楽しかった。彼は恐 らく尊敬していたゴッホとは逆の方向性を持っていた人で、個人の激情 を核にするのでなく、共同体の感性の磁場を利用して創造を行う。作品 の背後から、騒々しい民衆の顔が覗くようで、飽きがこない地域共同体 の結束が緩くなっている今、この手のタイプのアーティストは出現する のが難しくなるだろう。
1月11日(日) 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。  でも年々正月が正月らしくなくなっていく感じがする。妹なんか結婚 して家庭を持っているのにおせち料理を自分ではもう作るつもりがなく なっていて、母親が作ったものを貰いにくる始末。お惣菜屋さんが流行 るわけだ。でもまあ当たり前ですよね。女の人が「お袋の味」を引き継 いで家の伝統を守っていくことにアイデンティティを見出すなんて時代 はもう終わりなんだな。だいたいぼくだって長男らしきことをしてみせ た覚えはないし。男も女も、評価の基準が明確に示される職を持てばそ ちらが活動の主になるのは仕方のないことだ。この方向が突き詰められ れていけば、稼ぐ男よりも家事の得意な男の方が女性にモテるようにな るのかもしれない。  それでも例年通り家族で大山に豆腐料理を食べに行き、帰りに初詣を してきた。今回はケーブルカーを使わないで山道を歩いて神社まで行っ てきたのだが、結構いい運動になった。大山はさすがに山ですね。熟年 の夫婦が同じく険しい山道をえっさえっさと歩いて神社を目指している 光景に何度も出くわす。ウォーキングのブームは本当なんですかね。こ れは若者が登ってもキツいと思うけど。  実家で飼われている猫のカモちゃんが今年で19歳になる。猫ってこん なに長生きするんだっけ? 動きは鈍いし余り外へも出たがらないが、 病気らしい様子はない。この猫は、妹が道で死にそうになっていたのを 拾ってきて家で飼うことになった猫なのだ。猫は犬と違って鎖につなが れることなどない。これだけ好き勝手に生きられる19年なら、ぼくのそ の倍の人生とすぐにでも引き換えたいものだ。  久しぶりに詩集を買った。「空とぶキリン社」という、詩人の高階杞 一氏が個人でやっている出版社から刊行されたやまもとあつこ『子犬の しっぽをかみたくなった日』と山村由紀『記憶の鳥』の2冊。どちらの 作者も20代かと思われる。生活の中でふと思いついたこと、ふと目につ いたものを鋭く正確に捕まえて、かつ幻想的なふくらみを持たせる詩風。 こういう、小味で勝負する詩というのはいい。感情の細かい揺れが伝わ ってきてゾクッとさせられる。 笑顔   やまもとあつこ 父が逝って 半年たって 夢をみた 「おめでとうさん」 くすぐったいほどの笑顔で それだけ言って消えていった わたしのなかの父は おもいかえすほどに若くなり 父のなかのわたしもどんどん若くなり そうして 今 わたしは産声をあげたのかもしれない それはそれは 涙がでるほど おめでたいことだから 素足    山村由紀 雨上がりの夜の庭に素足のまま下りる 部屋の明かりに照らされた細い草 その草がくるぶしあたりに触れて 刺すようなかゆみを感じる 踏みしめる草のささやかな抵抗力 踏みしめた後のゆがんだかたち 草がゆれると 表面の水滴もゆれて にじむように隣の水滴と交じり合う そうして再び離れるのを しゃがんでじっと見つめる 水滴も離れる時 激しく震える 水気を含んだ土はわたしの重みの分だけくぼむ ぬかるみはとろりとした濃い影を放ち続け しだいに土が付いている足の指が見えなくなる わたしがこうして誰からも見えなくなると 草の音が聞こえ始める 自力で垂直に戻ろうとする草の音 わたしもそれに合わせて声を出す そうすることがここにいる証だと 思えば思うほど 次第に声は甲高く割れてきて わたしの声ではなくなってゆく