2004.10

2004年10月

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10月30日(土)
 台風の大きな被害のあと新潟の地震。亡くなった方のご冥福をお
祈りします。テレビの映像で、日常というものが壊されてしまった
人々の姿を見ていると、安穏な生活をしていられるありがたさを感
じてしまいますね。
 でも、これはとても不謹慎な言い方になってしまうのだけれど、
全ての財産を失い毛布に包まって隣人とお喋りしているお婆さんの
姿をテレビ映像で見て、日常が壊されると同時に日常にこびりつい
ていたしがらみとか見栄とかいったものが洗い流されて、清々した
表情をしているな、羨ましいな、とも一瞬思ったのだった。大事に
していたものがなくなるのはつらいけれど、それと引き換えに生き
ていること自体の大事さを実感できる機会に恵まれるのは「幸福」
なことではないか、ということだ。
 詩も、詩集にまとめたりなどせず、書き捨てて、読み捨てていく
のが本来の姿なのかな、と思ったりした。

 先週、鈴木志郎康さんの写真展「SUTEKINAHITOTA
TI」を見に行った。志郎康さんは、身近な風景を魚眼レンズで撮
ることが多く、見慣れたものが思わずギョッとしてしまうような姿
に変貌する様を提示することが多かった。今回も魚眼レンズを使用
した写真なのだが、対象が勤務先の多摩美の生徒さんたち(女の子
が多いですね)であることもあってか、度肝を抜くよりは柔らかく
暖かな雰囲気が勝っている。魚眼レンズの中心に据えられて、彼女
らの「人となり」が仕掛け絵本のように飛び出してくる印象だ。カ
メラを向けられた嬉しさがこれほどストレートに伝わってくる写真
は余りないように思う。生徒さんたちに愛されているんだな、とい
うことがつくづく感じられた写真展だった。

 写真展を一緒に見に行った詩人の中村葉子さんと、その後近くの
沖縄料理屋でご飯を食べた。中村さんは今月、ポプラ社から『泣く
と本当に涙が出る』という詩集を出している。ポプラ社刊行という
ことで、商業ベースになりすぎることを心配していたのだが、いい
感じに仕上がっていた。この詩集の中で、中村さんは自分の生活に
ついてストレートに語っている。普通は言葉にならないような細か
な感情の襞が率直なタッチで描かれている。こうした徹底したカッ
コつけない詩というもののありようには、びっくりさせられてしま
う。現代詩は、作者の存在を神格化するところでポイントを稼いだ
が、中村さんの詩は、作者の存在を徹底して等身大で言葉にしよう
としている。ある意味で超「自己チュー」の詩だ。彼女は駅前で詩
をビラにして配ったりする人であるが、恐らくビラを手に取ってく
れる人のことなどまるで考えていないであろう。自分には関心を持
ってもらいたいけれど、「相手」については、自分のまん前に立っ
ていようが関心がさっぱりない。逆に言えば、「相手」について考
慮する必要がないから、自分のことをあけすけに語ることができる。
更に、中村さんはそうした自分の姿を対象化して見ることができる。
「自己チュー」の人が、その自分を徹底して対象化して書いている
点において、「自己チュー」から逃れることが可能になっている詩
だと思う。


窓を開ければさむいだろう
夕方はやりきれない
物の影がうすい

空気が破れている
空気の破れ目に煙草のけむりが
吸いよせられていく
そんなのを何度も見た
            「泣くと本当に涙がでる」より



10月10日(日) ボサノヴァの巨匠、ジョアン・ジルベルトのコンサートへ。驚き ました。2時間半ほどの、ほぼぶっとうしの弾き語りは体力的にもか なりきついのではないかと思われるのだが、最後の一曲まで緊張が 少しも途切れることがなかった。歌もさることながらギターの繊細な 演奏は耳を奪われるほど。一曲一曲の特徴をよほど踏まえているので なければ、あの、刻々変化するコードワークは成り立ち得ないだろう。 聞き慣れたボザノヴァの名曲が、思いがけない表情を次々と開示して くれて、「ああ、この曲はこんな側面も隠し持っていたのか」という 新たな発見が幾つもあった。イントロだけ聞いていると、何の曲だか わからないほど大胆な解釈を施している時もある。定型的なリズム・ パターンを踏み越えるような自由奔放な歌いぶりを見せることもある が、リズム・キープが恐ろしくしっかりしているので、少しも乱れが ない。声の艶は多少褪せた感じもあったけれど、音程は完璧だ。  圧倒的な声量で聞き手を唸らせる歌手は、それはそれですばらしい のだが、ジョアン・ジルベルトのように曲の未知の面白さを、徹底的 に小味で引き出すことに専念する歌手もいていい。今日のコンサート は東京国際フォーラムで行われたのだが、この巨大なスペースが満席 になったということは、「歌をちゃんと聞きたい」という聴衆が少な からずいることを示しているわけで、ぼくには嬉しいことだった。彼 の良さを引き継ぐような、若い歌手・ギタリストが日本に現れてくれ ることを願う。歌いまくったり弾きまくったりするだけが能ではない のだ。  丸の内にできた丸善の新本店が話題になっている。ぼくも行ってみ たけれど確かに圧倒される。政府刊行物をはじめとする、経済・金融・ 経営分野が特に充実していて、企業のお客様をターゲットにしている ことは明らか。ビジネス書に限らず、とにかく「元棚」が非常にしっ かりしていて、『ハリー・ポッター』や村上春樹の新刊のような「話 題の本」はてんで目立たないし、目立たなくてよしと思っているよう な自信が感じられるのもすごい。ジュンク堂池袋店の出店やオンライ ン書店の出現以来、大型の書店は、信じられないほど多くのアイテム を揃えるタイプが主流になっていっているようだ。派手な多面展示を 売り物にすれば(かつ、売れ筋の話題作の在庫を切らさなければ)一 定の売上げはあげられる、というのは過去の話になりつつあるようだ。 顧客の好みは恐ろしく細分化している。この細分化にどこまで答えら れるかどうかが、今後の小売店の生き死にを決めていくように思える。  但し、丸善のあの実用書の棚の高さはあんまりじゃないかなあ。女 の人にはつらいですよね。それと、やたらと高年齢層を意識した作り になっているように見受けられたけれど、この層の人たちがいつまで 顧客でい続けられるかについて、不安でないのだろうか。マンガのコ ーナーも取ってつけたようだし。平積みの選書にあまり魅力が感じら れないのもどうかと思う。まあ、開店したばかりだし、その辺りの調 整は今後行われるだろう。ともかく、すごい店ができたものだ。
10月3日(日) 一日中雨が降って寒かった。残暑も完全におしまいですね。気温と しては今くらいが一番好きなのだけれど、やがて本格的な寒さがや ってくる、というわけですね。  イチローがシーズン最多安打の世界記録を作って、新聞もテレビも 連日それを報じている。ぼくは野球にはとんと興味はないのだが、イ チローのニュースにはやはり興味を惹かれてしまう。この人のすごい ところは、マスコミの攻勢に対して徹底的にクールなところだと思う。 他人が押し付けてくる偶像に対し、それを拒否する構えを見せ続けて いる。それは、他人の作った物語の中で野球をするのでなく、自分の やっている野球に対しあくまで自分自身が主体になろうとしているこ との意思表示であるように思える。  これは、自分に余程自信がないと−或いは自分のやりたいことに対 して余程確信がないと−できないことであろう。打てない時でもスラ ンプと言わず、連打の最中でも「いつも通り」と言い張る。野球のプ レイを楽しむことを最優先にして生きているからこそ、他人が彼のプ レイを別の何かの喩えに貶めてしまうことを嫌がっている、というふ うに見えるのだ。  イチローが自身の打撃に絶えず変化を加え続けることができるのは、 彼が野球をプレイすることが何より好きであり、その「好き」を一心 不乱に追求しているからだと思う。イチローを打撃の芸術家と言うこ とができるとすると、他人の存在に惑わされず自分の「好き」を自由 奔放に突き詰めている点にあると言えるのではないかと思う。これか らも「無愛想なイチロー」でいてほしいものだ。  昨日コルネットを買った。ぼくはトランペットを2本(うち一本は練 習用)とフリュ−ゲルホルンを持っている。トランペットは音のダイ ナミクスの幅は大きいが、唇にかかる負担も大きくて疲れやすい。フリ ューゲルホルンは柔らかな音色で歌モノを演奏するのに適しているけれ どダイナミクスに関しては不満が残る。だからその中間の楽器が欲しか った、というわけ。8万8千円というお手ごろ価格のヤマハのコルネット を買い、その足でジャムセッションの店に向かい、吹きまくってきた。 どうもまだ慣れなくて、大きな音量で吹き過ぎてしまい、共演者たちに 迷惑をかけてしまった(かもしれなかった)。楽器は生き物と同じだ。 手なづけるためには愛情と年月が必要なようである。