2004.11

2004年11月

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11月17日(水)
 関口涼子の新詩集『熱帯植物園』を読んだ。詩集というよりは、
断章形式の長編詩と言うべきかもしれない。見開き2ページの左側
のページに、正方形または長方形のスペースに収まるように散文体
の詩が載せてあって、右側はまるまる余白。随分贅沢な空間の使い
方だが、無限に伸びていく白い空間の中に、祈りの声が浮遊してい
るようにも思えてくる。
 植物と鳥をモチーフとしながら(植物に関する部分は、彫刻家の故
若林奮氏との書簡や氏の自然に関する文章を基にしているという)、
表面的には明確なテーマを持たず、発語の行為自体を問題として言
葉を書き進めていく点は、前の『二つの市場、ふたたび』と同じで
ある。但し、今回はより、「喉元」に近い部分の発語にこだわって
いるようである。実際、発音に関する記述もたびたび出てくる。こ
うなってくると、関口さんの今までの作品の特徴でもあった、故意
に主語を省いた詩法−述語同士がうねうねとからみあっては、いつ
のまにか空間に掻き消えていく−がより鮮明に見えてくる。
 関口さんは、ここで詩を書くという行為を、聖域に足を踏み入れ
る行為として捉えているようである。聖域を、作者という主体の影
で汚してしまってはならない。作者自身の姿が、自ら発する祈りの
声に勝ってしまってはならない。聖域を清い状態に保ったまま、そ
こに足を踏み入れるために、俗な日常特有の言語形式である「主語
→述語」の関係を解体し、述語自身が自律する形式を打ち立てた、
というように理解した。気を張り詰めて読んでいくと、イスラーム
文化圏のヘテロフォニー音楽(メロディーとハーモニーの二項対立
を軸とせず、複数の旋律線が対等の立場でからみあうようにして進
行していく音楽)に聞き入っているかのような錯覚さえ覚えてくる
のだ。
 主体が作品世界を一元的に支配していく書き方に対抗するこうし
た書法は、従来「女性原理」(女性だけが担っているわけではない)
的と言われてきたものであるように思える。女性特有の生活感覚や
身体感覚を何らイメージさせることなくして、こうした観念を十全
に表現し得た点に、フェミニズムという思想の成熟や進化が示され
ているように感じた。
 随分昔、ぼくはナーガールジュナの『中論』を読んだことがあり、
内容は難しくて充分理解したとは言えなかったが、その読後の印象
に似かよっているなと思った。言葉で捉えきれない、世の存在その
ものを聖域と捉え、精密な言葉で存在全般に対して「賛」を唱えて
いくという形式が、両者に共通しているのである。
 言葉のありようについて深く考えてみたい人は、普段詩を読む読
まないにかかわらず、目を通して欲しい書物だと思った。

かつて一度名を
呼ばれたものが、
時間と距離を置
き、今になって
ひとつの蒸気体
としてここに現
れることもあり、



11月14日(日)  アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団とベルリン・フィル のコンサートを聴きにいくという贅沢をしてしまった。どちらも会 場は満席。不況と言いながら、皆さんお金を使う時は結構バーンと 使うものなんですね。    しかし、内容はどちらも出したお金を上回るものだった。ヤンソ ンス指揮のコンセルトヘボウは、チャイコフスキーの「悲愴」をや ったが、低音から徐々に組み立てられていくような重厚な響きがす ばらしい。こういう厚みのある音は日本のオーケストラではなかな か聞くことのできないものだ。チャイコフスキーを感傷的すぎると 言って嫌う人がいるけれど、ぼくはチャイコフスキーのドラマのあ る音楽が大好きで、ヤンソンスの指揮ぶりはそのドラマ性をくっき りと浮かび上がらせたすばらしいものだった。最終楽章が終わった ときは涙が出そうになってしまった。  ベルリン・フィルは、ヨーロッパの伝統を感じさせるコンセルト ヘボウの響きとは対照的に、グローバリズムの最先端をいくような 高性能ぶりを見せ付けるようなものだった。リンドベルイの90年代 の作品「オーラ」は、ポスト武満風の音楽で40分ほどの大曲。聞き やすい曲で迫力もあったが、曲の構成が単純で途中多少飽きてしま う部分もあったかな。だが、ラトル指揮のベルリン・フィルは、オ ーケストラの名技性を試すかのようなこの曲を余裕しゃくしゃくに 演奏していた。驚くべきは次のドビュッシー「海」とラヴェル「ダ フニスとクロエ」で、ピアニシモでもかすれず、フォルテシモでも 割れない、まるでステレオのようなサウンドだった。ダイナミクス の段階が、普通のオーケストラの倍ほどもあるのではないかと思わ れる程だ。もちろん、ステレオでは聞けない潤いと陰りも欠かさな い。ベルリン・フィルのコンサート・マスターが日本の安永徹であ ることからもわかるように、このオーケストラはドイツというより 多国籍的あるいは無国籍的なものである。特に、オーケストラ音楽 の爛熟期である20世紀前半の曲では最高の効果を発揮する。ラトル の指揮は非常にメルハリの効いたもので、細かいところまで明快で 気持ちがよかった。  オーケストラの響きの地域性というのは今後も消えることはない だろうが、ベルリン・フィルやロンドン交響楽団のように、世界中 の名手を集めてひたすら響きの洗練をめざすところも多くなっては くるだろう。  ブッシュが予想通り再選を果たした。家族主義とか宗教重視とか、 民衆の保守的な感性に訴えかけるエモーショナルな呼びかけが効い たらしい。民主党の支持基盤であった下級階層の人が鞍替えしてし まったということだ。社会不安が続くと安心を求めて反動的政策を 支持するようになる、というのは本当なんですかね。「反動的政策」 は「安心」を保証するものでないのに、そういうふうに見えてしま う。といっても、民主党側にもユダヤ人ロビイストがうじゃうじゃ いるらしいから中東政策はどっちに転んでもたいして変わりがない のかもしれないが。アラファトの死を契機に、混乱が長引きそうで 恐ろしい。