2004.12

2004年12月

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12月26日(日)
 サルサのライブを六本木で2回やる。お客さんはいっぱい来てく
れたし、楽しそうに踊ってくれた。けど、もう少し演奏を「聴いて」
くれる人がいたらもっと嬉しかったかなあ。まあ、ダンスバンドな
のだから、お客さんが踊ってくれればそれで満足しなければいけな
いわけだが。新宿の「居酒屋かあさん」でのバンドの忘年会で(意
外と日本酒のメニューが豊富でしこたま飲んでしまった)、リーダ
ーから「管楽器はもっとクラベスのリズムにノッて演奏すること」
とやんわり諭され、反省する。来年の目標は、小節を数える時に、
2+3、3+2のリズムを常に意識することに決まったのだった。
ともあれ、今年は結構ライブの多かった年となりましたね。

 イメーイフォーラムに玉野真一映像個展「みあげた原人」を見に
行った。とてもインパクトのある作品群で、刺激を受けた。「よっ
ちゃんロシア」は、男が坂をごろごろ転がっていくうちに女と出会
い、二人で手を叩き合っているうちに女の股からパンツがずり落ち、
男はそのまま女にのしかかっていく、という作品。「残りもの」は
虫や猫の死骸を感傷性抜きに映し出したのち、男が墓地へ行き「秋
山家之墓」の前で「いけいけあきやまー」と連呼する、だけ、とい
う作品。「こうそく坊主」は、野球選手と坊主頭の若い男が、女が
握るゴムチューブを首に巻いてあえぎながら反復運動を繰り返す、
という作品。「純情助けこまshe」は、扇風機を愛撫する男、ベ
ッドの上で足をバタバタさせる男、公園の噴水まで水を汲みに走り、
汲んできた水をベッドの上の男にぶっかける女の、三者三様の奇怪
な行動をひたすら追う作品。「ちゅーしてチュ」は、男二人が子犬
のようにじゃれあう作品。全てセリフは一切なし。性欲がテーマと
言えば言えるが、性欲を超えたもっと根源的な衝動の表出がテーマ
になっているようだ。その衝動は言葉では言い表せないので、過激
な態度や身振りを丁寧に構築することによってそれを観客に伝えて
いく、という方式を取っている。一見破天候な作品に見えるが、実
は非常に知的な作品で、人間の文字通りの「生命」が出来合いの言
葉によって標準化され、矮小化されてしまうことに、力強く抗議を
申し立てている、という気がする。人間の身体、自然の身体、時間
の身体の、ナマのぶつかり合い。それが一種のグルーブ感を生み、
ジミ・ヘンドリックスやボブ・マーリィのライブ公演の映像を見て
いる時のような高揚感に包まれるのを感じてしまう。

 こういうのを見てしまうと、「言葉」というものの可能性を逆に
改めて考えてしまいますね。言葉を玉野真一の映像のように躍らせ
てみたい、グルーヴで勝負する言葉を書いてみたい、そんな気にさ
せられました。元気が出ました。
 
12月18日(土)  忙しすぎて毎日帰るとぐったり。残業しない時は忘年会続きで、 しかもこの間の会社の忘年会は、仮装あり・ボーリング大会つきだ った。みんな、メイド服だの松田優作ヘアだの、派手なカッコをし てくるものだからびっくりだ。ぼくもイタリアの道化師がつけるよ うな、鳥のくちばしがついた仮面をかぶってきたのだから人のこと をとやかく言えないが(くちばしが長くてプレイの邪魔になりまし たね)。今年も終わりに近づいているわけだが、何かが片付いたと いう感じは全くない。それどころか混乱が増す一方。もう無理に整 理したりしないでこの混乱をプラスのほうにどう生かせるかが大切、 という気がしていますね。  忙しい合間を縫って、最近結構詩をたくさん読んだ。中村葉子さ んから送られてきた「中村葉子の詩 街頭ばらまき版12号」には「 朝」と「夜」という二編の詩が収められている。「朝」は、「きょ うは 起きるまで眠ってみようと思う」という奇妙な書き出しから 始まる。何もしないで眠ることを意識し続けていると、何かを思わ ないではいられなくなり、目が冴えてしまって、結局夜の散歩に出 かけることを決意する。「夜」は、なすこともなく自転車でちょっ と遠い川べりまで行って、冬にもかかわらずそこで花火の音らしき ものを聞く、という詩。なすことがないから、そこで見たり感じた りしたことが全て「なすこと」になる。人影を見ればその孤独な心 持ちを類推するし、コンクリや川辺の石などがやけに気になったり する。でも冷静さを失わないで、自分もそうした「夜の仲間たち」 の一つに、突き放して数えるふうであるところが面白い。こうした 意識の運動が就寝の儀式の代わりになり「少し眠くなってきた」と いうエンディングを迎えることになる。いつもながら、中村さんの 詩の臨場感は素敵ですね。   野村尚志君から詩誌「凛」をいただく。  「声かけてやりたい」という詩は、話者の「わたし」が子供の運 動会を見に行くシーンを描いている。「わたし」は運動会の写真を 撮るよう頼まれている。だが、カメラを操ることに神経を集中する ことで一生懸命跳んだり走ったりしている子供たちを応援すること が疎かになることを恐れ、わざとカメラを忘れる、という内容。い いなあ。  野村君は実生活面で、新潟の震災時でのテレビ局の報道の仕方に 抗議し(“望遠レンズを多用して被災者を写すことは「盗撮」に当 たるのでやめよう”)職場を追われたようである。恐らく、望遠レ ンズの使用ということ以上に、報道側(NHK)の被災者に対する 視線の冷たさを敏感に感じ取ったのだろう。そんなに早急でなく、 もっとじっくり穏健なやり方で疑問の声をあげてもいいのではない か、とも思うのであるが、気持ちのままに行動せずにはいられない ところが、やはり野村尚志という詩人の気質なのだろうか。  「声かけてやりたい」は、柔らかな生活実感と確固としたメデ ィア論を危うい一線上で両立させた興味深い作品だった。  建畠哲の詩集『零度の犬』(書肆山田)は、「中年」を生きる難 しさと快楽を表現した詩集と思える。古典的な翻訳文学で使用され てきた文体をもとに考案されたと思しき独特な文体(「〜よ」とい ったような)が、おっとりとしたユーモアと苦味を生む。話者は、 テーマとした物事に対し夢中になるでもなく、冷めるでもなく、微 妙な距離を取りながら語りを進めていく。この詩集に収められた作 品のほとんどが、散文体で書かれているにもかかわらず、中年に達 し人生に対しある流儀が生まれた人間による、「文語定型詩」であ るという印象が強い。また日常の機微を捉えることがモチーフにな っているにもかかわらず、一種の「格言集」となっている印象も与 えられる。新鮮な体験を言葉に書き直して保存し、いつでも愛でる ことができるようにしている感じだ。美的体験のアーカイヴを作り、 今後の生活の糧にしようとしているかのようだ。  一方で中村さんや野村君のような直情的な詩があり、一方で自ら の「美意識」の在り方をじっくり見つめることを目指した詩がある。 表現の幅というものは面白いものですね。