2004.2

2004年2月

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2月29日(日)
 すっかり春めいてきている。例年、この時期の微妙な冷気に肌を当
てることは、ぼくの密かな楽しみだ。外出の機会を増やしたくなりま
すね。

 すみだトリフォニーホールに、ノルウェーのサックス奏者、ヤン・
ガルバレクのグループの演奏を聴きに行く。これがもう、大当たり。
どの曲も、フォーク調といっていいような親しみやすい甘いメロディ
ーで開始されるが、その展開の仕方は、自由自在で、山脈の稜線のよ
うな複雑さを備えている。ガルバレクの、あの澄み切った、としか言
いようのないサックスの独特のトーンに聴き入っていると、どこか遠
くの空間に連れ去られてしまったような不思議な気分にさせられる。
共演者たちも実にすばらしい。エバーハルト・ウェーバーのベースは、
ギターと間違えかねない程の細密なフレーズを連発して度肝を抜くし、
ピアノのライナー・ブリューニングハウスは、そのダサいおっさん的
な風貌にもかかわらず(失礼)、デリケート極まりない演奏で聴衆を
魅了する。キース・ジャレットに似ているけれど、キースよりも端正
で衒いがなく、ぼくはブリューニングハウスの方が好きだ。今回一番
驚いたのはパーカッションのマリリン・マズールで、たくさんの打楽
器を一切の無駄なく演奏し、全体のサウンドを夢のような色彩で染め
上げていた。ユーモアもたっぷりだし、彼女のソロアルバムがあれば
聞いてみたい気持ちにもさせられた。とにかく、全員が余りにもすば
らしく、コンサートが終わるのが悲しくてたまらなかった。ジャズっ
ていうのは、相変わらず素敵な音楽なのだなあ。日本にもこういう自
由奔放なスタイルのジャズが根付いてほしいと思うのだが、それには
聴衆がもっと成長しなくてはならないのかもしれない。

 ぼくも江古田のBuddyでサルサの演奏をした。江古田っていう
街は、余り足が向かないところだけれど、行ってみるとなかなか楽し
い食べ物屋さんがあることに気づく。演奏前に、日本で唯一というイ
スラエル料理の店で夕食を取った。いわゆるアラブ風のエスニック料
理だが、意外とクセがなく、さっぱりしていておいしかった。ラムの
焼いたやつが特にうまい。あ、吉野家も今度エスニック料理屋さんに
教えてもらって、「マトン丼」とか「ラム丼」とかを売り出せばいい
んじゃないかな。日本人の好みじゃないかもしれないけどね。
 次回のライブは、3/21(日)に六本木のボデギータで行いますので
お暇な方はどうぞ。
  

2月15日(日)  東京写真文化館で「Scenic Beauty」展を見る。サブタイトルに「 自然を愛する米国西海岸の写真家たち」とあるように、アメリカの大 自然をテーマに創作を行った写真家たちの作品が展示されている。エ ドワード・ウェストンやアンセル・アダムズの、古典としての評価を 受けた作家から、彼らの後を引き継いで現在でも活躍中の、ポール・ コザール、ロッド・ドレッサー、ボブ・コルブレナーらの作家の作品 まで、約50点をじっくりと味わった。総じて言えることは、これらの 写真家の作品の中には、「風流」の精神が隠されているな、というこ とである。ヨーロッパの著名な写真家の風景写真は、ブレッソンにし てもケルテスにしても確かにすばらしいが、そのすばらしさは作家の 「個性」「人間性」の表出のすばらしさであるように感じられる。そ れに比べると、これらのアメリカの写真家たちは、目の前の広大な光 景に圧倒されてしまい、自分を忘れて一種の「無我」の状態に陥って いるように思えてしまうのだ。今、アメリカ人というと、イラク戦争 を始めてしまった事実その他から、我がままな自己主張ばかりする尊 大な連中というイメージが浮かんできてしまいがちなのだが、彼らの 作品には、自己を空しくして対象を必死で見つめる、畏まった態度が 感得される。  生物の生存を許さないほど過酷な条件の自然−ひたすら広がる砂漠 や岩場など−を息を潜めて目を見張っている様子がどの写真からもう かがえる。芭蕉の自然を詠んだ俳句は、現代の人が詠むお気軽で主情 的な俳句よりも、実は案外これらの写真作品に近いテイストのもので はないのだろうか。  外苑前のワタリウム美術館で、有馬かおるの展示を見る。彼女は古 い新聞紙に(日本のものだけでなく外国の新聞もいっぱいある。これ だけ集めるのは大変だったろう)、落書きのようなヘタウマな絵を描 いて作品化している。走り描きのマンガのようなタッチであり、弱弱 しい字で気まぐれな言葉の書き込みもしてある。美術館に展示されて いるのでなかったら、誰も作品とは思わないかもしれない。だが、そ れこそ恐らく有馬かおるが意図しているところのものなのだろう。新 聞はヴィヴィッドな情報が満載されていて発行されたばかりの頃には 食い入るような眼差しが向けられるものだが、「古」新聞になった途 端、一気に価値が下落する。有馬はそこを自分の感情の棲みかとし、 ぼそぼそと自分の貧しい内なる声を響かせる。逆に言えば、貧しく力 のない庶民も、新聞が象徴するような、国家と国家が力でぶつかりあ う大状況のもとに否応なしに置かれることを示す。有馬かおるの作品 は、今の日本人のほどほどな「貧しさ」というものを、生き生きと鮮 明に浮かび上がらせるものなのであろう。  今日も吉野家に寄ってみた。さすがに牛丼はもう販売していないが、 店内はまたしても意外と混んでいる。ぼくは牛丼は余り好きでないの だが、吉野家という企業には興味を持っている。倒産の危機を、外部 からの援助や偉い外国人経営者の指導によってでなく、元からいる従 業員たちの必死の努力で乗り越えたことがあるからである。以前、リ アル書店の主任をしていた時、吉野家が「牛鮭定食」を始めたことを 知って早速食べに行った。めっちゃおいしいわけではなかったが、安 いし早いし、焼鮭とは言え牛丼屋で魚が食べられたのが嬉しかった。 次の日店の朝礼で「吉野家は効率一本槍・牛丼一本槍でやってたのに ここにきて鮭を加えたメニューを追加した。ちょっとした変化なのに とても新鮮な印象を感じる。みんなもいい新刊が出ないからといって 棚をそのままにしないこと。既刊本の平積み一点変えるだけで清新な 感じが出る」とか何とか言って、従業員にポカンとした顔をされた覚 えがある。うーん、こりゃ確かに複雑なたとえですね。ポカンとした 顔されるだけのことはある。でも、あの時の新メニューの追加は、立 ち直り始めた吉野家の余裕を物語っていたし、現在の危機の最中のメ ニューの変動は、やはり顧客にある種の好感を与えるのではないかと 考えている。昼間に食べる「朝定食」は、この値段にしてはなかなか イケてましたよ。
2月7日(土) ギャラリー「ときのわすれもの」で古本市をやっているというので足 を運ぶ。ここのオーナーの綿貫さんは、交友関係がメチャクチャ広く、 高価な版画のコレクターのお客さんを大勢抱えておられるにもかかわら ず、ぼくのような鑑賞専門の素人にも暖かく声をかけてくださる。「と きのわすれもの」は、版画を中心とする現代美術作品の展示販売をする ばかりでなく、本にも格別の注意を払っている。美術書だけでなく、建 築書や文芸書が趣味よく常備されているので、興味のある方が是非足を 向けてみるといいと思う。  今回は、西脇順三郎のエッセイ『あざみの衣』(大修館書店)他4冊を 購入した。『あざみの衣』は昭和36年の刊行で、全245ページの単行本だ がなんと定価は370円だ。ここ15年ほど、本の定価に大きな変動はない。 70年代の高度経済成長とともに物価がずんずん上昇したことが実感され てくる。詩人西脇順三郎が日常心に浮かんだことをゆったり書き綴るス タイルの肩の凝らない本だが、どんなささいな日常の出来事も次の瞬間 には即、ヨーロッパを含む文化の総体と関係づけられていくのが特徴。西 脇順三郎という人は、「文化」というものを服のように常に身に着けて いた人なのだなあ。近所のおじさんおばさんと、マラルメやボードレー ルが同じ次元・同じ比重で心の中に存在していたのだろう。知識を披露 する際も、全く嫌味がない。「教養」というものが昭和30年代の日本人の 意識の中では確固とした位地を持ち、尊敬も集めていたのだろう。現在 の日本には彼のような「教養人」の姿は見当たらない。これは、決して悪 いこととは思わない。ジャーナリズムやアカデミズムが「価値ある知識」 を独占していた時代が終わったことを意味するだけだ。今や知識は、学校 が教えてくれるものではなくなってきており、個々の人間が「発信」する ものに変質してきている。電子メディアが促進する価値観の多様化により、 一人の人間が死ぬと一つの図書館が消えるのと同じ、という文字文化以前 の時代の知識のイメージが、ここにきて復活してきているように思う。  ただ、西脇順三郎は文化遺産の価値は普遍的なものであるとの信念を抱 き続けることのできた時代に生きた人であり、その信念を全うした人なの だろう。西洋文学を極めすぎたせいか時折混じる、外国語の直訳のような ヘンな日本語の使い方が魅力的に感じられる楽しいエッセイだった。  帰りに吉野家で「カレー丼」を食べる。日本風まったりカレーで味は今 イチ。でも、BSEの影響で牛丼がメニューから消えて、代わりにカレー 丼やら豚キムチ丼やらの新メニューが現れ、また朝定食が夜でも食べられ るようになった。店は結構混んでいる。牛肉騒動は牛丼業界、とりわけ吉 野家に危機をもたらしたわけだが、もしかすると、長期的には良い刺激を 与えたことにならないだろうか。あの固定メニューじゃいつかは飽きがく るし、テレビが毎日報道しているからいい宣伝にもなっている気がする。 牛丼屋ってそんなに庶民から愛されてたっけ? 「最後の一杯」って言っ たって、そんなたいした味じゃないでしょ?