2004.3

2004年3月

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3月28日(日)
 友人の守屋淳さんの結婚パーティ出席。朝から体調が悪く、遅刻しそ
うになってヒヤヒヤする。守屋さんは、リアル書店員時代に上司だっ
た人で、出版社の方とのつきあいがうまく、いろいろなアイディアを
ひねり出しては(或いはひねり出させては)、面白い企画を次々打っ
て売場を盛り上げていた人だ。今は中国古典ものの著作を世に出して
いるライターとして活躍しており、『最強の孫子』は版を重ねている
ヒット作。奥さんも同じ書店出身者で、上品で気持ちのよい人だ。今
日は琴の演奏も披露してくれたが、結構な腕前だった。
 ぼくもお祝いに、無伴奏のトランペットで「スターダスト」を吹い
たけれど、吹き始めてこれがなかなか難しいことがわかった。テーマ
はきれいでわかりやすいが、ストレートに演奏すると変化がなくてつ
まらない。と言って、アドリブをやりすぎると原曲をよく知らない人
には、何をやっているかわからなくなる。リズムセクションがあれば
アドリブのことだけ考えていればよいけれど、無伴奏だとハーモニー
の進行をきちんと伝えることを優先しなくてはならない。いい勉強に
なりましたね。
 最近は友人たちも既婚者ばかりになってきて、結婚式に出ることも
少なくなってきた。ぼくも人生が半分以上過ぎているのだなあ、とい
うことを実感させられる。まあ人生というものは、何をやっていても
常に過ぎていくものだから、今更慌てたって仕方がないでしょうね。

 その守屋さんとコリン・デーヴィス指揮ロンドン交響楽団の演奏を
聞きにいく(サントリーホール)。会社の仕事が忙しくてなかなか抜
けられず、第一曲目のシベリウスを聞き逃してしまった(痛恨!)。
2曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲22番。ピアノの内田光子が、繊細
そのもののタッチで、優しくも哀しくもあるメロディーを歌い上げ、
聞いていて思わず涙が出そうになるような名演だった。メインはベート
ーヴェンの8番で、この小柄な曲がデーヴィスのぐいぐい盛り上げてい
く指揮で聞くと雄大なスケールの大曲に聞こえる。デーヴィスの演奏
は、ここぞというところでテンポを急激にアップし、音量を上げるこ
とで聞き手の注意をひきつけ、うるさくなる手前でパッと元に戻すと
いうもの。緩急のつけ方によって、曲は生きるものなのだということ
を教えられる。

 職場にいる前川知大さんが主宰している劇団「イキウメ」の「窓際
のベリーロール」公演を見る(サンモールスタジオ)。何日も同じ部
屋の夢を見る男。原因を追究していくと、なんとそこは植物人間状態
になった男が夢の中で作り上げた仮想現実の空間だった。男は絶望し
て自殺を図り、植物人間になった建築家だが、昏睡の闇の中で、妻と
ともに生活していた部屋をイメージしているうちに、徐々に仮想現実
としてのしっかりした空間性を備えてきたというのだった。そればか
りでなく、その空間が現実世界にも影響を与えて、建築家の男の妻が
荷物を引き払ったあとの部屋に、昔通りの部屋を再構築してしまうま
でに至っているのだ。同じ植物人間仲間がその部屋に流れ着き、また
再構築された現実の部屋を訪れた生身の人間たちもそこへ流れ着く。
「仮想現実/現実」が接点を持ち、植物人間と生身の人間が交流する。
アパートを借りにきた女性が植物人間状態になった夫を引っ張ってき
て、「再生」させて涙の再開を果たしたりなど、人間臭いドラマが展
開するが、妻と再会を果たした建築家の男は再び意識を持つことに対
して絶望し、遂に仮想現実の部屋を壊してしまう、というもの。
 手のこんだ構成とアイディアが面白く、テンポの速い演出で見る者
を飽きさせない。バーチャルリアリティをテーマにした作品なのに、
SFっぽい感じがせず、生活感のある、人間臭いドラマが見事に展開
されている。最近とんと見なくなってしまっていたけれど、小演劇も
進歩しているのだなあ。
 今や「仮想現実性」「自己言及性」は特殊な切り口でなく、むしろ
無視することのできない創作の基盤になってきているのだと言えるだ
ろう。「仮想現実」のイメージを基盤に据えながら、「現実」の側の
泥臭い問題について真剣に考えていく姿勢を見せるところに新しさが
ある。但し、あの「小演劇調」のまくしたてるような口調と軽快な身
のこなしは、ややこの作品本来の主題と相容れない気がしてしまう。
地を這うような日常性の大胆な導入が演技に必要なのではないか。エ
ンターティメントとしては楽しめるが、各人の胸のうちを深く味わう
という点では物足りない。テンポの速さも良し悪しで、肝心の建築家
の男の絶望の深さの表現がこれではやや希薄である。
 アングラ演劇後の「小演劇」(曖昧な言い方だが)が、成熟してき
たと同時に脱皮の時を迎えている予感を持った。演劇の公演に足を運
ぶ機会を増やしてみようかな。


3月14日(日) イメージフォーラムの卒展を見に行く。毎年楽しみにしているのだ が、考えてみると、もしかしたら関係者以外でここに来ているのはぼ くだけかもしれない。ここで、最も若い世代の表現に触れることはぼ くにとってとても大事なことだ。それは何万円も払って海外のオペラ 公演を聴く時とは違う体験である。作品のいい悪いではなく、「“作 品”というものを創らざるを得ない」追いつめられた精神の跳躍に立 ち会うことができるからである。たびたび思うことだが、こういうも のを見なくて(別に映像表現に限らないのだが)、およそ芸術という ものを語ることができるのだろうか? 芸術を論ずる世の評論家や学 者たちは、自然科学者に比べて全く怠惰だと思う。例えば昆虫の研究 者は、新種のカメムシが存在すると聞けば、どんな奥地に分け入って でもその生態を観察しようとするだろう。自主制作の発表会は、「新 種の芸術」の生態を観察するのに持ってこいの場であり、しかもそれ は東京のド真ん中で催され低料金で提供されているというのに、誰も 積極的に鑑賞しようとしない。まあ、それを論じても何の「得」にも ならないから仕方ないと言えば仕方ないが。  マイナーな表現というものは決して芸術の「負け犬」ではなく、そ れどころか表現の核心を担っているものなんだけどな。イメージフォ ーラムに対しては、応援しているからどうか頑張って、と言いたい。  土・日で3プログラム・18作品を見た。  真利子哲也の『マリコ十三駒』。大学の卒業論文を書く時期になり、 作者は自分と大学生活の関わりを改めて考え直す。彼は取り壊されよ うとしている古い学館に愛着を持ち、大学側に抗議の「儀式」をして やろうと思いつく。丁度その時、彼は卒論の指導教授から、彼の姓の 「真利子」は、源平合戦の頃の水軍(海賊のようなこともしていた) を組織していた一族の名だったことを知らされる。彼は先祖の墓にお 参りし、勇敢に戦った先祖のためにも、抗議の「儀式」を遂行するこ とを改めて決意するのだ。彼は、浜辺で褌姿の少年たちと一緒になっ て「儀式」を行う自分を想像する(このシーンは実写で描かれる)。 そして遂に、「マリコ十三駒」(当時の軍艦の名前)と書かれた旗と カメラを持ち、大学当局が建てたばかりのピカピカの新学館の中へ、 褌一丁の姿で乗り込んでいく。  ナンセンスな設定だが、筋は一本きっちり通っていて、それは古く なってしまったものへの愛惜の念である。旧学館・海賊だった先祖へ の想いだけでなく、今は使用されなくなりつつある8ミリカメラへの愛 惜の想いも込められている(この映画は大部分が8ミリで撮影されてい る)。それは、移り変わりの激しい時代に生きる不安を表しているよ うに見える。前作『極東のマンション』にはなかったエンターティメ ントの味わいも出していて、楽しめた。ただ、先祖への想いをイメー ジだけで処理しているところにはやや不満が残った。ご先祖様だって そんな勇ましい生活を毎日送っていたわけじゃなく、案外君のような しょーがない部分もあったんじゃないの。この点にはもうちょっと想 像力を働かせて欲しかった。  アラモミカリコの『ホットケーキの上のアイスクリーム』と『キリ カブジミィ宛』もよかった。『ホットケーキ』は、仕事を辞めて恋人 と同棲するが、毎日やることもなく、また恋人からも手荒な扱いを受 けている女の子の話。ホットケーキの上にアイスクリームを置いてそ れが溶けて流れる様を見ているうちに、白い山羊が現れて「幸福」の 問題について話しかけてくる、というもの。『キリカブ』は、森に残 って世間の悪口を言う切り株のジミィと、森を離れて旅に出るジミィ の片割れのお話。前者はアニメで、後者の赤い紐で縛られて地面を引 きづられていくジミィは実写で、描かれる。どちらも実写とアニメを 組み合わせた作品だが、実写部分とアニメ部分を、対比的に扱うので なく、同一平面上に配置して互いが互いにいとも簡単に流れ込むよう な作りになっている。もう一つ濃密さが欲しいが、一種「プチ厭世的」 な気分がよく出ている。  荒田雄一郎『5人の童貞といとしちんこの撮影者、でさえも』には笑 った。部屋に友達を呼び、全員裸にしてひとときを過ごすだけ、という 作品。作者も含め、全員男の子。性器丸出しの裸になると、みんな何 やら開放的になり、気分が高揚して陽気になる。男の子ってかわいい もんだなあ、と微笑ましい気持ちになる。一人一人の個性がもうちょ っとずつ強く出ると、鑑賞者も彼らと友達になったみたいな気分に浸 れるかな。  澤本朋子『光について』は痛々しさを感じさせる作品。作者は左耳 は全く聞こえず、右耳は補聴器つきでやっと聞こえる聴力の持ち主。 耳が不自由なおかげで両親から疎まれた体験を語り、音への憧れを語 る。普段ぼくらが何気なく聞いている音が、真剣な欲望の対象になっ ていることに気づかされ、心打たれる。一人外へ出て、聞こえない耳 にウォークマンのヘッドフォンを押しあてるシーンの哀しさは、忘れ ることができない。  今のところ飛び抜けた作品に出会ってはいないが、そういう「収穫 物」を求めにイメージフォーラムの卒展に来ているわけではない。ど んな人も、外側からは見えないところで生きているんだなあ、という ことを実感しドキッとする快感を求めに、来ているわけなのだ。  それにしても、「先が見えない」「やることがない」「闘うにも敵 が見えない」といった、八方塞がりの心情がどの作品にも張っている ように見える(明るい感じの作品でもそうだ)。この気分は、若い人 たちだけでなく、中高年も同じであろう。