2004.4

2004年4月

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4月25日(日)
 気がついたらもう4月の終わり。桜もとっくに散ってしまったし、忙し
さで季節の移り変わりを愛でる暇もないほどだ。
 一週間分の疲れがどっと出て、今日は一日中とろとろ眠っていた。
いくら寝ても寝たりない気分で、脳がどうかしてしまったのではないか
と思ったくらいだ。でも、疲れが溜まると意識を失うという、この身体
のメカニズムはなかなかいいね。眠るということは、社会人としての責
任を一旦放棄するということであり、社会人でなくなる時間を体が強制
的に作ってくれるというのはありがたい以外の何者でもない。

  イラク人質事件。とにかく全員解放されてよかった。アメリカに協力
している国だというのに、同じアジア人だからなのだろうか。
 人質の家族が、世間を騒がせたことをわびている姿に呆然。これほど
日本が自由にものが言えない国だったとは・・・。政府以外の、諸外国
のいろいろな考えを持つ人々と接点を持つ組織の確立が必要なのだろう
なあ。中央官庁を頂点とするのでない公的組織というものを、日本人は
いまだに想像しにくいが、そろそろ市民社会を成熟させないとヤバいこ
とになってきそうだ。
 政府の要人たちは、無差別的な大量虐殺を繰り返しているアメリカと
イスラエルに追随していくことの危険性について、恐らく我々の何倍も
承知していることであろう。わかっていてもついていかざるを得ない、
という構図を変えるためには、やや逆説的だが、反政府勢力の伸張が必
要不可欠なのではないだろうか。

 4月5日の土曜日に、スクロヴァチェフスキー指揮のNHK交響楽団の
コンサートを聴きに行った。「フィデリオ」序曲、ピアノ協奏曲第4番、
交響曲第3番「英雄」、というオール・ベートーヴェン・プロ。中では
「英雄」の、起伏の激しい表現に惹かれた。この曲は、余りにも出来す
ぎている印象を持っていて、実は好きではないのだ。最初のモチーフを
聞いたら、最後までの展開がすぐに頭の中に浮かんできてしまってスリ
ルを持って聞くことができなくなってしまう。だが、この日のスクロヴ
ァチェフスキーの演奏は、そういう聴衆の存在を計算に入れているかの
ような、細部でのデフォルメを大胆に強調したものだった。とにかくダ
イナミクスとテンポの振り幅が大きい。あの「葬送行進曲」のところな
ど、非常に情緒的で、まるでチャイコフスキーかと思う程だ。最近、ベ
ートーヴェンの曲も、古楽器の響きを意識したスタイルで演奏されるこ
とが多くなってきたが、こういうロマン派的解釈でも斬新な演奏はいく
らでも生まれ得るのだろう。ベートーヴェンという人は、つくづく時代
を超えた音楽を書いた人だなと思い知らされた。
 ピアノ協奏曲でのギャリック・オールソンの繊細な演奏ぶりにも感動。
この曲は、第5番「皇帝」よりも好きなんですよね。

 土方巽の京都大学講堂での舞踏を収録した映画をイメージ・フォーラ
ムで見る。土方の舞踏をナマで見たことは無論なく、映像で見たことも
数える程しかない。それだけに、大きなインパクトを受けた。若い人が
いっぱい押しかけてきていて、立ち見も出る盛況だった。
 土方巽の舞踏は、どちらかと言うとスタティックなもの。一見緩慢と
言ってよいほどゆっくりとした動きの部分が多い。だが、そのゆっくり
に見える動きが、実に繊細ですばやい肉体各部の震動で成り立っている
ことに驚く。一瞬たりとも静止せず、観客からは見えにくい目の玉の奥
に至るまで、小刻みに震わせている。肉体をあたかも楽器のように扱っ
ているのだ。観念や感情や思考が、「肉体」を基にしなければ成立しな
いという現実を、極限まで突きつけてくる作品だと思った。
 土方巽の舞踏は行くところまで行き着いている印象を受けるのでこの
ままの形で発展させていくことは難しいだろう。これを継承するという
ことは、全く新しいスタイルで「震動としての舞踏」を成立させること
に他ならないような気がするのだが、どういう形になるのか全く予想が
つかない。だが、ここに集まっている若い人たちの誰かがやるに違いな
い、と思う。