2004.7

2004年7月

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7月25日(日)
 詩人の杉澤加奈子さんから小詩集「ボクジュウ」をいただいた。短
い作品が8編収録されているが、どれも切ない美しさを湛えた詩ばかり
だ。
 冒頭の「自分人形」という詩の全文は次のようなものである。

自分そっくりの人形を作ってくれる店があるというの
で、わざわざ二時間半も電車を乗り継いで出かけた。
半日ほど待って、出来た人形を背負って知らない街
を出た。途中で腕が外れて地面を引き摺った。そっく
りなのかどうかだんだん自信がなくなってきている。

 一種の「怪談」だが、単なるお話に終わらない深みがある。
 そもそも「自分そっくりの人形」がなぜ欲しいのか? 話者は自分
に自信がない、というより自分というものに熱い実感が持てないでい
るのではないだろうか。「自分そっくりの人形」を目にすることによ
り、逆にそこから、自分なるものを探し出そうというのであろう。「
自分」がよくわからないから「自分そっくり」に自分を教えてもらお
うということだ。自分を探すのに、金銭との交換を要求してくる「店」
に頼らなくてはならないのも哀しい。親兄弟、友人、恋人など、周囲
にいる人たちにも自分というものがわかってもらっていない、と感じ
ているようだ。長い時間ののちにようやく手に入れた人形は、すぐに
損壊し、結局「自分」のイメージを与えてはくれないのだ。
 この詩を読んで、作者は日常を生きている自分のことを「人形」で
あるかのように感じているのではないか、と思った。

 最後の「逃げ水」という詩も前編書き写してみよう。

さようなら私の頭の中だけにある
ひかった緑色の線よ
目をつぶっているあいだに
消えてしまえるかもしれない

ゆらめくような暑さから
地面に這いつくばっていました
見たこともない足の長い虫が
私の背中を踏んでいく

夏の一日
輪郭が薄くなって
遠くの台所で水音

日傘を差した女達の群れ

こっちですよって
手を振ったのに
私のことなどまるで見えないみたいなんだ

 第一連の「消えてしまえるかもしれない」という言い方の特異なこ
と! 逃げ水よりも自分のほうが「消える」べき存在だと言っている
ようではないか。話者の背中を虫が踏みつけ、また、話者の声は他人
には届かないのだ。

 この小詩集からは、自分の存在の希薄さに対する慄きの声が聞こえ
てくる。話者は一生懸命他人と関わろうとしたり、自分自身に対して
熱い実感を持とうと努力するのだけれど、その試みはことごとく挫折
してしまう。何か、周囲や時代や、或いは日常を生きている自分自身
からさえも取り残されていく感情だ。ホラー風味の作品が多いのは、
幻想文学好きの作者の趣味によるのかもしれないが、それ以上に、こ
うした「取り残されていく」という感情が、不安を通し越して恐怖に
近づいているからではないかと思った。

 野村尚志さんの個人詩誌「季刊 凛」5号もよかった。二編の詩が収
められている。特に「海」という詩がよかった。高層ビルのエレベータ
ーに乗っていて、小さい男の子が降りる階でもないのにただ「二階」と
口に出してしまって母親からたしなめられるというもの。現実をただ認
識することと実際口に出すこととで、言葉を巡る状況が大きく変わって
しまう瞬間を、繊細に掬い取った鋭い作品だ。

「二階」と男の子が言った
階数表示のランプが降りていくのを
わたしも見ていた
二階だなと思った

「またこの子は、一階じゃないの」
あきれた調子の声が聞こえた
母親かな
二階は一階になるものだから

男の子は何も言わなかった
男の子の見上げる先に
ともって消えた二階はあって

高層ビルのエレベーターで
高層ビルみたいな大人たちにかこまれて
男の子は一本の木みたいだった
男の子は何も言わなかった

男の子が言ったのは
「二階」というひとこと
海を見て「海」と言葉にしてみるような

***

 ここ最近、ジャムセッションを開催しているライブハウスに行って
飛び込みでジャズを演奏するということを何回かしている。昨日は、
新大久保にある「ル・コルビュジェ」と高田馬場の「イントロ」をハ
シゴしてしまった。知らないプレーヤーと共演するのは新鮮で楽しい
ですね。うまい人もあまりうまくない人も、それぞれに個性があるの
がわかって面白い。ただ、ジャムセッションだとみんなが知っている
スタンダードナンバーに演奏する曲が偏ってしまうので、ちょっと単
調にもなる。固定メンバーでのバンド活動もやりたいものだなあ。


7月11日(日) 暑い、というより蒸し暑いですね。クーラーをどうしても強めに利か せてしまうので、逆に夏風邪に注意しなければいけないかな?  土日を使って、ミステリ作家伊坂幸太郎氏のインタビュー原稿を起 こす。会社のサイトで8月にアップするためのものだ。インタビュー をきちんとした形でやるのは初めてなので緊張したが、伊坂氏が非常 に優しい方で、素人インタビュアーの質問に対してとても親切に応え てくださったので、助かったし原稿にするのも比較的楽だった。  ぼくはミステリー小説に限らず大衆小説は余り読まないのだが、伊 坂氏の作品は人間関係というものを繊細に描いているので入っていき やすかった。インタビューで、職業作家になる前の会社員生活がおお いに役に立ったと言っていたけれど、そういう感じがありありと窺え る小説である。登場人物同士の関係がよく描けているという前に、作 者の登場人物たちへの気遣いがよく伝わってくるのである。直木賞取 れるといいですね。  「ブラジル:ボディ・ノスタルジア」展を見に行く(東京国立近代 美術館)。20世紀前半に活躍した画家から、60年代生まれの作家まで の作品を収めた、ブラジル現代美術を紹介する展覧会だ。個人的な「 遊び」感覚を追求する傾向と、社会的な問題を追及する傾向とが、渾 然一体となって不思議な雰囲気を醸し出している。NGO活動を基盤 として、貧民街の少年少女の手型足型をそのまま作品にしたてたもの もあれば、鉄板をつなぎ合わせて、鑑賞者に形を自由に組み立てても らう作品もある。ブラジルは、西洋に徹底的に征服された国だから、 その被害意識は想像もつかないものなのであろう。抑圧の中で「遊び」 を探しだすことは、人民にとって死活問題だったのだろう。その精神 が現代の作家の意識にもしっかり生きていて、感動したのだった。深 く社会や歴史の問題を追及しながら、人を楽しませることを忘れない。 世界的な「名画」を見るよりよほど面白い体験だ。こういう展覧会は、 もっとしょっちゅうやってほしいものですね。
7月4日(日)  昨日聞きに言ったヴェルディの『ファルスタッフ』(新国立劇場) の余韻が冷めない。この曲を全曲通して聞いたのは今回が初めてだっ たせいもあると思うが、驚きの連続だった。ヴェルディが80歳近くな って書いた作品なのだが、最後まで前進し続けた芸術家なのだという ことがよくわかった。  台本はもちろん、シェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」 を下敷きにしたもので、ヴェルディには珍しいコメディ。長々しいア リアで聞き手を圧倒するのでなく、オーケストラと歌との非常に細か い掛け合いでドラマの起伏を鮮明に浮かび上がらせていく方法である。 主役はむしろオーケストラと言ってよく、マーラーやリヒャルト・シ ュトラウスの世界の一歩手前、といった感じだ。コメディというのは、 長音階を主体にしなければならないから、曲想が単調になってしまい がちなものだが、うねるようなリズムや重厚なハーモニーの設定によ って、複雑な味わいが醸し出される。独唱の旋律線の美しさを最優先 した「椿姫」や「イル・トロヴァトーレ」では聞くことのできない特 徴ですね。こんな深みのある大衆音楽が存在した19世紀のイタリアの 文化の土壌が、羨ましくてならない。  歌手は、ファルスタッフ役のベルント・ヴァイクルがすばらしい出 来。コケにされる役柄をキマジメに演じて余計おかしさを醸し出して いた。ダン・エッティンガー指揮の東京フィルも好演で、複雑で細か いパッセージが連発するこの曲をほとんどノーミスでこなしていた。 いつかまた聞いてみたいですね。