2004.8

2004年8月

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8月29日(日)
 台風が接近していてちょっと肌寒い感じ。蒸し暑いよりはいいかな
と言いたいところだけど、涼しくなるとあのうだるような暑さが懐か
しくなったりするものだから困ったものだ。

 アテネ・オリンピックでは日本の選手が大活躍で、特に金メダルを
取った男子体操団体の演技や、メダルは取れなかったけど4位入賞を果
たした男子リレーの力走ぶりには興奮させられてしまった。ああいう
信じられないような肉体的能力の開発は、やっぱり競技力の向上を第
一に置いた生活の仕方をしなければ無理なんだろう。その点で、少な
い余暇の一部を辛うじて詩作に充てているに過ぎないぼくは、詩の競
技者として失格なのかもしれないな、と感じてしまった。それで何か
作品をひねり出さないと、と思って机に向かったらそのまま一作書け
てしまった。書き出してみると、詩作という奴は実に面白い。書き始
める前は、面白いもの書かなくちゃとか雑念が入って書き出すことに
逡巡してしまうのだけれど、書いているとその苦難の道のり自体がも
のすごく楽しくなる。でも書き終わると、次のアイディアが浮かぶま
では、何となく書くことが敷居が高く感じられてくる。もっと表現の
楽しさ/苦しみを身近なものとして捉えたいですね。

 オリンピックで活躍する日本人の姿を放映するのはいいのだけれど、
スポーツ番組を普段余り見ない立場から言わせてもらうと、もっと外
国の選手たちの活躍ぶりにも放映のスペースを割いてくださいよとい
うところだ。別に日本人が勝てばそれでいいということはないだろう。
負けた選手の姿にもそれなりの感銘は受けるものだし。余りに国別対
抗という形が前面に出過ぎることが、個々の選手の頑張りを味わう面
白さを妨げているような気がしてならない。いっそメダルの数を、国
別に集計するのをやめさせて、赤組・白組にざっくり分けて集計する
のはどうかなあ、なんてね。金をかけて育てた選手の方が有利なのは
当たり前だし、国別の貧富の差がメダルの数の差になって表れるのを
確かめることは愉快なこととは思わない、ということ。

 多摩美術大学に、学生と卒業生と教員が共同制作した芝居「自来也」
を見に行った。学校を拠点に、立場を超えた人が集まって文化活動を
行うというのは気持ちいいですね。考えてみれば、学校というところ
(特に大学)には、知識も設備も整っているのだから、みんなもっと
利用してもいいじゃないかと思った。
 作品のテーマは、歌舞伎の「自雷也」(妖術を使う義賊のヒーロー)
のイメージをもとに、愛し合うが結ばれない男女が転生を繰り返すと
いうもの。宇宙ステーションの電話交換手の女と何百光年も離れた惑
星にいる男だったり、アイドル的な歌舞伎役者と泥棒の女の子だった
り、組み合わせは様々だが、現実的には報われなくとも純愛を貫こう
とする。人間が本源的に持っている「人を愛したい」という気持ちが
直球で客席に投げつけられる感じで、素直に感動できた。ただ、その
「純愛」の描き方が、台本の上でも演技の上でもやや一本調子かな。
もっと相手を疑うとか、別の相手に乗り換えてやろうとか、不純なも
のも取り込んだ末での「純愛」でないと本当のリアリティが出ないよ
うな気がするのだけれどどうなのだろう。多摩美の学生の作る映像作
品の方には、そういう魅力的な夾雑物が溢れている印象を受けるのだ
が、ここが個人製作と共同製作の違いということなのだろうか。もう
一歩複雑な感情の表出に関してワガママになりきれていない感じも受
けてしまった。


8月8日(日)  江ノ島の<大自然>という名前の海の家で(すごいネーミングです ね)サルサの演奏を行った。夏真っ盛りというのに、海にまじかで接 したのは今日が初めて。情けないことだ。でもまあ、海を眺めると気 持ちが落ち着きますね。    お客さんの入りはまあまあだったが、子供連れ、家族連れで来てく ださった方が多かったのが特徴。東京のど真ん中で演奏してもこうは ならない。東京だと、ラテン音楽愛好者の他は、ダンス・レッスンに 通っている人か、洒落っ気のある若い人に、客層が偏ってしまう。こ の辺では、レジャーは家族みんなで楽しむもの、という考えが徹底し ているのかもしれない。さすが江ノ島。    テレビで石原慎太郎と中曽根康弘とテリー伊藤が出て、何やら喋っ ているのを見た。気持ち悪いのですぐ消してしまったが、石原も中曽 根も政治は「信念」だと言い、今の若い政治家たちには「信念」がな いからダメなのだと言っていた。政治を、個人的な「信念」の道具に して欲しくないなあ、というのがぼくの感想。政治家は、人々が暮ら しやすい社会を作ってくれればそれでいいわけで、政治によって自己 実現を図ろうなどと考えないでほしいわけだ。大塚英志が、国家とい うものはその中で生きる人々のサービス機関であってくれればそれで よい、ということを言っており、確かにその通りだと思う。どんなタ イプの人にもそれなりのサービスを公平に提供できるようであれば一 流の政治家なのだ、という自覚はないのかな?   そう言えば、7月の終わりに、<東京夏の音楽祭>の一環として行わ れたゲルギエフ指揮東京都交響楽団のストラヴィンスキー・プロの感想 をまだ書いてなかった。「詩篇交響曲」「結婚」「春の祭典」の3曲で、 最初の2曲は余り演奏されることがないから張り切って聞きに出かけた わけだが、期待は裏切られることがなかった。「詩篇交響曲」は管楽器 と打楽器、低音の弦楽器を主体とした小編成のオーケストラと合唱によ る音楽。非常に麗しい音楽で、清浄な響きに打たれた。4度を重ねた和 音は、ビザンチンの聖歌を思わせる。「結婚」は、ロシアの農民の民俗 音楽を素材とした刺激的な作品で、こぶしを利かせた非クラシック音楽 的な発声の歌手たちと、3台のピアノが大活躍する変則的な編成のオーケ ストラ、合唱からなるカンタータ。バルトークのように民俗的な素材を 西洋音楽の語法になじむように精錬するのでなく、ナマのまま西洋音楽 の只中にぶちまけた、という感じである。歌手たちはロシアからゲルギ エフが連れてきたようだが、確かに日本人には難しい発声法だろう。音 楽を通して、作曲家の姿でなく、民衆の姿が鮮烈に浮かび上がってくる。 この2曲を聞いたあと、「春の祭典」を聞くと、聞きなれたこの曲がこの 上なく素朴な感動を誘ってくるのに驚いた。ストラヴィンスキーはこの曲 を書く際に、変拍子を多用した実験的な作品を書こうなどとは考えなか っただろう。  ストラヴィンスキーはもちろんヨーロッパの第一級の知識人だったわ けだが、いわゆる西洋音楽を飛び越えた音楽を書いてしまっているよう に感じられる。構成の原理について考えながら作曲したというよりも、 曲のノリとかサウンドの鮮烈さを重視して曲を書いたのだろう。どちらか というとポピュラー音楽に近い発想のように思える。初期の原始主義の時 代の作品も、(評判が必ずしもよくない)新古典主義時代の作品も、とも に、大衆の心にグッとくるものを備えている。  ゲルギエフ=都響の演奏は、繊細でミスもなく、音楽を細部に渡って楽 しませてくれるものだった。