2005.1

2005年1月

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1月29日(土)
 Bunkamuraザ・ミュージアムでやっていた「グランマ・
モーゼス展」は楽しかった。1860年に生まれ、101歳まで生きた女
性の画家だが、絵を本格的に始めたのは70歳を過ぎてから、という
すごい人だ。
 素朴なフォーク調の絵という感じだが、ぎらぎらした個性の輝き
を感じる。色づかいや構図が大胆で、幻想的な気分を醸し出してい
る。若かった頃の農村での忙しい毎日をテーマにしているというけ
れど、こういう大事な心の中の風景こそ、強くて華やぎがあるもの
であることは、誰でも知っていることであろう。グランマ・モーゼ
スの絵は、アメリカの農村の生活など知らないぼくにさえ、「懐か
しい」という感想を抱かせる。誰もが無意識の中に隠し持っている
幸福な「心の故郷」のようなものを、幻想力を全開にして十全に描
き出せたからこそ、生活体験を共有しないものにも「懐かしい」と
いう印象を与えることができるのであろう。展覧会は今月中で終わ
りだが、見る時間のある人は今からでも駆け込んで見たほうがいい
です。

 仕事は慢性的に忙しいのだが、遅い時間に帰ってからの唯一の楽
しみは、借りてきたビデオの「ウルトラマン」シリーズを見ること。
ぼくの子供の時に放映されていた番組がビデオ化されたものだ。昔
ぼくはウルトラマンの大ファンで、家にあった白黒テレビの調子が
悪い時は泣いて隣のうちに見せに行ってもらったほどだった。さぞ
かしちゃんと見ていたと思いきや、さにあらず。子供だったぼくは、
ストーリーなど全く構わないで、ひたすらウルトラマンと怪獣の戦
闘シーンにのみ心を奪われていたことがわかった。
 改めて見てみると、地球を守る組織である科学特捜隊がいかに事
態に対処しようとしていたかに、結構大きなポイントがあることが
わかった。ウルトラマンと協力しあいながら、怪獣もたくさん倒し
ている(ウルトラマンでさえ破れたゼットンという怪獣は、科学特
捜隊が所持する新兵器で倒されている)。自衛隊との連携も取れて
いる。恐らく、一時代前の「兵隊もの」をベースに話が作られてい
るのだろう。イデ隊員やアラシ隊員のおとぼけぶりや生真面目さは、
「のらくろ」にそっくりな感じがする。
 子供向き番組だけあって、決定いい加減な設定をするときもある。
例えば、雨の日にムラマツ・キャップがダン隊員に軍機で傘を届け
させる(しかも空中から傘を落とす)などという乱暴なエピソード
がある。傑作なのは、「怪獣墓場」という話で、やっつけた怪獣の
霊を慰めるためにお坊さんを呼んで供養をするのである。黒いリボ
ンを巻いた怪獣たちの遺影の前で、隊員たちが手を合わせるという
奇妙な光景が繰り広げられる。女性のフジ隊員は、何と涙まで流し
いる!最近のウルトラマン・シリーズでは、怪獣を殺さないで動物
園のようなところに「保護」するらしいが、そんな偽善的な振る舞
いよりも「供養」の方がよっぽど誠意を感じますね。
 ウルトラセヴンのシリーズもビデオ屋に常備されないかなあ、と
思っているところです。

 ふらりと入った原宿の喫茶店で、ホットワインというメニューが
あったので頼んでみると、これがなかなかイケるものでした。ワイ
ンは冷やして飲むものという先入観があったけれど、甘酸っぱい香
りはいいし、体も温まるしで、おいしかったです。

 来週の日曜日は、六本木のボデギータでサルサのライブです。こ
のコーナーを見てる方、よろしければ足をお運びください。


1月17日(月)  横浜美術館の「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展を見て感 銘を受ける。  この企画展はデュシャンの主要作品の大部分と彼に影響を受けた 美術家たちの作品を並列させて展示したもの。初期の「階段を降り る裸体」が想像以上に迫力のある、まるでフランシス・ベーコンの ような怪物的な作品であることを知る。当時、キュビズムの画家た ちからさえ嫌悪されたらしいけれど、人間を徹底的に「物」としか 見ない、という態度がすごいですね。この人間を「物」に還元する 視線は、「大ガラス」や「遺作」にも共通している。暖かな表情の ある、「精神」の持ち主として、我々は人間に知的に接しているわ けだが、その人間の存在に、時として知性を超えたエロティシズム が感じられるのは、それが「物」でもあるからなのだ。互いに裏切 りあう「精神」と「物」が同居することで生まれるズレや軋みが、 「存在のスィング感」を生み、それがエロティシズムの源流となる。 デュシャンの描く人間には顔というものがない。クレーやミロが、 抽象的な形態に目鼻をつけて擬人化するのと丁度逆で、人間の肉体 を徹底的に物として見ようとしても、それがどこかで「精神」とつ ながっていることを意識せずにはいられないことへの不思議な感慨 (苛立ちも含む)が表現されているように思える。  デュシャンの作品に比べると併置された他のアーティストの作品 には何とものんびりした素朴すぎる印象を持ってしまう。デュシャ ンの作品のイメージを既知の観念の比喩として使おうとするところ で、既に負けている、と言うべきか。デュシャンが、人間の肉体に せよレディメイドにせよ、既成の概念の比喩として使うことを拒ん で存在の裂け目そのものを示そうとした意図が、充分汲み取られて いないように感じられたのだ。デュシャン的な作品ということでぼ くがすぐに思いつくのは、鈴木志郎康の詩作品だったりする。「極 私」と自称した作品群は、私と私でないもの、日常と日常でないも の、の裂け目そのものを浮かび上がらせる造りになっているように 思えるからだ。  東横線が桜木町駅に止まらなくなって、何だか寂しい。あそこっ て結構風情があったんだけどね。みなとみらいはいかにも人工的に 今風のアミューズメント施設を作りました、という感じがしてしま って、どうにも馴染めない。まあ、ここもあと二十年もすれば、そ れなりに歴史を持つようになり、独特の風情も出てくるのだろうが。  日曜日にクロコダイルでサルサのライブをやる。対バンのMAN TEQUILLA PERROが、みんな年は若いのに、70-80年代 の名曲ばかりを披露するものだから、オジサンバンドである我がロ ス・ボラーテョスのメンバーは大喜び。楽しく演奏できましたね。 十年も前、同じ職場でアルバイトで働いていた女性が聞きに来てく れたのには感激した。西船橋の書店だったが、神経を使う客注業務 を一生懸命こなしてくれて、信頼を寄せていた子である。今は新宿 の輸入チョコレートの店で働いているが、顔つきもキリッとしてき て、“プロ”という感じである。やりたいことが定まった人の表情 はいいもんだなあ、と思いましたね。
1月3日(月)  皆さん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願 い致します。  お正月休みで帰省して今戻ってきたところなのだが、今年は本当 に何もしなくてひたすら<寝正月>でしたね。よくここまで寝るこ とができるものだと我ながら思うくらい。近くを散歩して神社に一 人でお参りした他は、外出もせず、地元の友人にも会わなかった。 日頃の仕事の疲れの反動が一気に来た、という感じですね。おかげ で元気も出てきて、もっと本も読みたい、美術館にも行きたい、と いう気分になってきましたが、もうすぐに会社が始まるわけです。  実家の近くの神奈川中央交通の体育館がなくなっていたので驚い てしまった。この体育館はかなり大きなもので、地区のちょっとし た名所みたいなものだった。ぼくの子供の時分からあったもので、 辺りの景観もすっかり変わってしまったから、ショックを覚えた。 不況で設備を維持する余裕がなくなってしまったらしい。関連施設 の野球やテニスのグラウンドもいずれなくなるらしい。利用者でな いぼくも、時々素人のグローブさばきやラケットさばきを覗いては 楽しんでいたので寂しい限りである。企業が、勤務している人や同 じ地域に住む人たちに、生活の利便性を与えるということは、今後 ますます少なくなってくるのではないだろうか。企業が、地域社会 の柱であることから、一歩ずつ抜け出そうとしているのだろうか。  昔、父の勤めていた会社では秋に大掛かりな運動会なるものがあ り、競技に参加した人に豪華な賞品が出たり、楽しい仮装行列の催 しがあったりして、子供の頃は随分楽しみにしていたものだ。この 運動会には、会社に在籍していない周辺の住民も見に来ていた。そ ういうコミュニケーションが、少なくとも神奈川県の中西部ではだ んだん希薄になってきていて、企業はますます効率性のみを追求す るようになり、住民のほうも企業が地域社会の柱であることを期待 しなくなっている。  ぼく自身は中学生頃になるともう地域社会の催しなどには見向き もしなくなっていたくせに、いざ、そうしたものが消え去っていく のをまのあたりにすると、途端に寂しい気持ちになる。勝手なもの だなあ、という感じです。 **  前月の<錨>欄で、野村尚志さんの詩作品について、あたかも作 者の生活を模した私詩であるかのようなコメントを書いてしまい、 野村さん本人から違います、との指摘があったので、ここでお詫び を申し上げます。前月のコメントについては修正を加えました。