2005.10

2005年10月

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10月23日(日)
 土曜日に、詩人の鈴木志郎康さんと杉澤加奈子さんとお会いして話をし
た。志郎康さんのエッセイ「詩の実質」について感想を言うということと、
杉澤さんが準備している詩集について話すというのが目的だ。渋谷のトッ
プで待ち合わせて、それからうなぎを食べに行き、そのあとお茶を飲んで
と、かれこれ4時間ほども詩の話をしたのだった。
 
 志郎康さんのエッセイ「詩の実質」は、雑誌で詩の選者などをつとめて
いた体験もふまえて、詩がどう受け止められていくべきなのかを省察した
ものだ。社会の選別のシステムに従って、詩も、「いい詩・優れた詩」が
選ばれていくものとしての認識が詩人の中にもある。志郎康さんはそれに
反発し、生まれてきた子供が全て親の愛を受けるのが当然であるように、
書かれた詩は全て巧拙を超えて存在を認められるべきだとするのである。
いわば、詩に「人格」や「人権」を認めていく、という発想であるように
思える。どんな詩も、その人固有の脳髄の働きの結果であり、詩を生み出
す脳髄の働きは、やむにやまれぬ必要に応じたものだ。志郎康さんはだか
ら、じかに作者を前にした詩を読むことを勧める。作者の複雑な胸のうち
が全てわかった上で詩を読むと、どういう必然性を持って言葉が生まれる
のかがわかるからだ。

 こうした志郎康さんの考え方は、詩の言葉を自立した抽象物として見な
してランクづけしようとする考え方とはかなり異質である。詩を徹底して
関係の中で捉え、詩に個人をベースにしたある種の社会機能性を求めてい
く。この考え方でいくと、詩の批評も、批評家がある思想的な見地に立っ
て個々の詩を切っていくようなものではなくなり、生物学者がフィールド
ワークに出かけて個々の生物の生態を調べていく感じに近くなるのではな
いだろうか。詩の読み書きは、「てっぺん」「最先端」を目指すものでな
くなり、他人の中にも自分の中にも、多様性の豊かさを発見してそれを愛
し抜く行為となるのではないだろうか。

 杉澤加奈子さんの詩について、そのイメージのはっとするような飛躍を、
シャーマンの霊能力に例えた話していたのが興味深かった。杉澤さんは、
物理の試験の答案用紙の裏に詩のような落書きの言葉を書いて消し忘れ、
あとで教師から職員室に呼ばれて、そこに書かれた言葉が面白いと言われ
たそうである。そしてそのことをおかあさんに話すと、詩作品にして新聞
に投稿することを勧められ、賞を取って自信をつけたとのことだった。杉
澤さんのおかあさんはその後も全ての杉澤さんの作品を読んで感想を述べ
ているという。心の危うい部分を全て曝け出したような彼女の書法は、お
かあさんに抱き止められる安心感に支えられて、成立したものではないか
と思った。心の深い所に降りていって危なくなっていっても、おかあさん
が理解し助けてくれるから大丈夫だ、という確信が、長い間彼女の詩作を
支えていたのではないだろうか。だとすると、この詩作行為は一種の共同
作業である。詩は、徹底的に孤独になることによって、孤独から逃れるこ
となんだなあ、と思った。作者を孤独から救うのは読者だ。読者の視線は、
作者に投げられる命綱のような存在であって、その命綱のようなものを信
じて、闇の中にそろりそろりと降りていくのが詩作というものなのだろう。

 友人の守屋さんに誘われて2つのコンサートに行った。フィンランド放
送交響楽団(指揮:サカリ・オラモ)によるシベリウス「フィンランディ
ア」とチャイコフスキー「悲愴」、ブダペスト祝祭管弦楽団(指揮:イヴ
ァン・フィッシャー)によるチャイコフスキー「ロココの主題による変奏
曲」(チェロ:ミッシャ・マイスキー)とブラームスの2番。どちらもす
ばらしい演奏だった。フィンランド放送交響楽団の演奏は、情緒的で泣か
せる演奏だった。チャイコフスキーにはぴったりな感じで、テンポも大き
く動かしていたが、決して下品にならないところがよかった。ブダペスト
祝祭管弦楽団は、機能的にも優れたレベルの高いオーケストラで、木製の
高級家具の肌触りにも似たぬくもりがあった。指揮が非常にすばらしく、
音楽がどう進んでいくかを明快にわからせてくれるような爽快感があった。
マイスキーの情熱的なソロもいい。東欧のオーケストラらしく、リズムに
特徴的なこぶしというか弾力性があって、アンコールのシュトラウスのポ
ルカが、ハンガリーの民族音楽の影響を色濃く受けた曲だということを発
見させてくれた。それにしても守屋さんの誘ってくれるコンサートにはは
ずれがない。この場をお借りしてお礼を言おうと思います。


10月7日(金)  もうすっかり涼しい。9月中までは何とか引きずっていた「夏」が完全 に終焉した、という感じですね。その間、小泉自民党が圧勝した。圧勝っ て嫌な言葉だな。多様性を失った種は衰退する。このままだと日本はどこ かでポキンと折れてしまうじゃないかという気がするわけ。野党は、野合 の良さみたいなものをアピールして結集しないかなあと思うのだが、なか なかそうもいかないようだ。オトボケ風の才能ある政治家が出てきて、飄 々とした立ち居振る舞いで政治に「議論」を復活させることを望みます。  原美術館にやなぎみわの展覧会を見に行く。グリム童話やアンデルセン 童話のような、皆が知っている少女のお話を、映画の1シーンのような演 出で造形した写真作品である。イリナ・イオネスコのような、暴力的なエ ロティシズムが心地よい。が、見ているうちに急激に飽きがきてしまった。 技術は一級だし、構図も迫力がある。だが、ここで表現されている観念は もう既に一般化されてしまっているもので、素朴でオリジナルな魅力に乏 しい。作者のもともとの感性が、類型化された「少女」のイメージに覆い 尽くされてしまっているように感じた。ここまで「明快」な表現方法を取 らないと、国際的な美術の交流の場に参加できないということなのだろう か。スペインの風土に強い関心を抱いているようで、少女のエロティシズ ム云々が色濃いものよりも、むしろスペインの人や風土との交流の痕があ る、泥臭い作品の方が印象に残った。  北爪満喜さんの詩集『青い影 緑の光』(ふらんす堂)を読む。散文体 の詩が多く、デジカメで撮った写真が数枚挿入されている。視点がどんど ん移り変わっていき、主体の位置の推移があたかも飛行機雲のようなさわ やかな痕を残していく。北爪さんのこれまでの詩には、自意識の重さをイ メージ化して表現するものが多かったが、今度の詩集は、外の風景が詩人 の足取りとともに流れ込んでくるようで、意識が立ち止まることがない。 言葉がころころ回転をし続けていく速度で読書ができて、つまり、詩の中 で流れる時間を共有することができて楽しかった。 「くっきりしていると葉の影は葉の延長で実体化しているみたいだという ことが、見間違いのすぐ後で言葉となって枝を伸ばした。ということは、 ワタシはこと葉という葉をはやした木のようなものにいくらか変身してい るのかもしれない」               「青い影 緑の光」より  詩人の中村葉子さんの小説「トンちゃん」(ポプラ社)も読む。自分以 外の人間は、それこそ父でも母でも、何らかの役を演じている芝居の役者 のような存在で、確かなものはその時の自分の実感しかない、という観念 に基づいて書かれた作品。「トンちゃん」とは、主人公の女の子が大切に しているぬいぐるみのことであるが、それは主人公自身も指す。自己チュ ーというよりも、実感中心に生きるために「自己」をも脱ぎ捨ててしまっ た子供の物語である。生活の細々した出来事が、日常に慣れることを拒否 した視線によって、意味の文脈を抜き取られ、別次元の存在に再構成され ていく様子が面白い。主人公の目に触れたものどもはことごとくノンセン ス化されていく。そこに、世間に受け入れられない・世間を受け入れたく ない人間の切なさが滲み出る作品になっている。とてもよい作品なのであ るが、最後は変に弱気にならないほうがいいんじゃないか。  他に、新国立劇場でワーグナーの「マイスタージンガー」を見たり、湘 南でサルサの野外ライブをやったり、という毎日だったが、考えてみると こういう全くタイプの違う芸術を同じ個人が鑑賞したりやったりするとい う社会は、近代以前には存在しなかったのではないだろうか。ポストモダ ンの社会に生きているという事実を、客観視したい。たくさんの種類の表 現に触れたからといって、表現の多様性に触れているとは限らないからだ。