2005.2

2005年2月

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2月27日(日)
 このところ勤め先でいろいろ大変なことが起きた。長い間一緒に
仕事してきた同僚であり友人である人間が突然辞めることになった
りして精神的にも肉体的にもくたくた。早く春にならないかなあ、
といった感じですね。

 残業で体を壊す人が続出してしまっている現状は、とにかく早く
変えたい。会社生活というものも「生活」の一つなのだから、そこ
での生活の権利についてはみんなきちんと主張すべきなのだろうが、
業績の厳しさ云々を理由にされるとモノが言えなくなって体力の限
界以上の業務を引き受けてしまう。これはホントにおかしなことだ、
人権侵害であるばかりではない。仕事というのは、生身の人間が行
うものであり、体力気力の余裕があってのものなのだから、疲れた
まま行うと精度も能率も悪くなる。
 というわけで、この辺は改善していこうと思っています。

 イメージフォーラムでトリン・T・ミンハ作品集を見る。フェミ
ニズムの論客であり、音楽家であり、映画作家でありと、多方面に
渡って活動を繰り広げていることで知られ、またヴェトナムで生ま
れ、フランスとアメリカで教育を受け、セネガルで講師の仕事につ
いていたことなどから、「境界」の思想家として位置づけられてい
るようだ。だが、今回、ミンハの作品を3つまとめて見て、印象が
変わった。「境界の思考」というよりは、立ち位置の極めてはっき
りした、「知識人の表現」なのだと感じたのだった。

 有名な「姓はヴェト、名はナム」は2回目の鑑賞となるが、映像
の意味を追うのに精一杯だった初回よりもずっと感動して見ること
ができた。ヴェトナム戦争の戦火及びその後の北ヴェトナムの支配
によって苦しむ女性たちの姿が映し出されるが、それは在米のヴェ
トナム人女性によって演じられたものであることが映画内で暴露さ
れる。ミンハは、様々な立場の女性を登場させることで中立を打ち
立てることを目指すのみならず、撮影者としての自らの立場を自ら
批判に晒し、撮る者/撮られる者の関係を明示する。映画というもの
の虚構性を暴露し、撮影者としての特権的な立場を自己批判しなが
らも、なお作者の揺るぎのない主張を貫徹する。社会派ドキュメン
タリーであり、メディア批判を核とした思想映画であり、叙情的な
個人映画であるという複合的な性格が、自然に受け止められる。先
に「知識人」といったのは皮肉ではなく、彼女が知識人としての立
場をすっかり晒すことにより、その優位性を自ら破棄して、観客と
共同でものを考える場をもうけている、ということなのだ。

 クラシックのコンサートには2つ行った。ミシェル・コルボ指揮
ローザンヌ声楽アンサンブルのバッハ「マタイ受難曲」と、ハーゲ
ン弦楽四重奏団によるベートーヴェンの14番と15番。コルボのマタ
イは、力みかえることなく、バッハの宗教曲の大衆的な性格をほが
らかに表現したものだ。当時の聴衆(つまり教会に集まった人々)は
映画に見入るように、胸をワクワクさせながらこの曲に聞き入った
ことだろうが、そうした光景が目に浮かぶような演奏だった。過度
に深刻に、ドラマティックにならないところがかえって深みを生ん
でいると思った。
 ベートーヴェンの四重奏曲だが、とにかく曲のすごさにびっくり
である。後期の作品はCDだと冗長に聞こえてしまうことがあるけ
れど、実演では細かいパッセージが迫力を持って響いてきて興奮さ
せられる。メロディーというより短いミチーフが様々に変容して、
深い森の中へどこまでも入っていくような感じ。求心性よりは拡散
性が勝っていて、捉えどころがないが、その思いがけない変容ぶり
がいちいち心に突き刺さってくる。ハーケンの演奏は、シューマン
の曲を演奏しているかのように激しく、ロマンティックだったが、
この音楽にはすごく合っている。第一ヴァイオリンがやや不調でゆ
ったりした楽章では音程の悪さが目立ってしまったのが残念だった。

 コンサート会場に行くと、音楽というのは振動の芸術なのだ、と
いうことが実感される。ナマの演奏の味わいは、CDや放送では決
して味わうことのできないものだ。音というのは空気のきしみであ
り、呼吸なのであって、それはCDに収まりきるものではない。皆
さん、ポップスでもクラシックでも、アマチュアの演奏でいいから
ライブの会場に足を運んで聞いてみたほうがいいですよ。ホント。