2005.3

2005年3月

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3月27日(日)
 最近二つの展覧会に行ったのだが、印象が対象的だったので記しておく。

 一つは「スズキコージ コラージュ画」展(SPACE YUI)で、メ
チャクチャ楽しいものだった。小学校の「お楽しみ会」風の雰囲気で、メイ
ンのコラージュ作品の他、イラストが施された楽器、オブジェ、仕掛け絵本
などがあちこちに配置されている。天井には紙の飾りまで張り巡らされてい
る。ギャラリーで催す個展にしてはものすごい点数なのだが、決して「所狭
し」と並べられているわけではない。ちゃんと空間に魅力的な凹凸ができる
ように、注意深く構成されているのだ。コラージュは、じょきじょき切り抜
いてきた人物・動物・風景が、いきなり鉢合わせしてびっくりしちゃった、
といった感じ。現代美術の冷たい匂いが全然しない。そしてギャラリーの奥
ではスズキコージ本人が、とんがり帽子をかぶって、ひたすら新しい作品を
作り続けている。
 ぼくはこの人の絵本が大好きで、中学生のときに「詩とメルヘン」で、「ホ
ルン吹きがやってきたとき」とかいった短い作品を読んで以来のファンだ。
その魅力がどこにあるかを一言で言うのは難しいが、あえて言えば、見る人
を大歓迎しながら決して甘やかさないという決意にあると思う。世界という
ものが決して人間を中心に作られているものではなく、従って人間から見る
と「暗い」と感じられるものである、という観念を、人間的な温かさと親密
さをこめて伝えようとするのが、スズキコージの作品ではないかと思うので
ある。だから、子供たちは皆、彼の作品が大好きであり、ギャラリーに入っ
てきた子たちは鮮やかな色彩、奇妙な線に夢中で見入ることになる。帰りに
彼がデザインしたCDを一枚買ってみました。

 もう一つは世田谷美術館でやっている「瀧口修造 夢の漂流物」展。瀧口
修造の詩は、今読んでも思わず興奮してしまうくらい好きだし、デカルコマ
ニーをはじめとする美術作品もやはり好きだ。若い前衛芸術家を応援し続け
た姿勢もすばらしいと思う。だが、瀧口修造の作品を集めて展覧会を開こう
とすれば、やはりこうした「回顧展」にならざるを得なくなってしまうのだ
ろうか。生涯にわたって、衝動的に生み出された(そして必ずしも公衆の目
に触れることを予測していない)作品の数々が、傾向別・年代別に「整理」
されているのを見ると、「本当はこんな年代とか傾向なんか、瀧口修造はど
うでもよかったんじゃないか」と思えてきてしょうがないのだ。それらが生
み出された背景から余りにも遠いところに、無理やり作品を正座させたとい
うふうに見えるわけなのだ。世田谷美術館のような立派な美術館で開催する
からには、こういう方法以外にはないのだろうか。わざと雑然と展示して、
鑑賞者に右往左往させながら瀧口修造という人物の気まぐれを「体験」させ
るというのは、無理なことなのだろうか。彼と関わりあった芸術家の作品も
一緒に展示されていたが、礼儀正しくささげられたオマージュ、という感じ
がしてしまって、中へ入り込めない。瀧口修造を「偉人」にしてしまうこと
に、ぼくはすごい抵抗を感じるのだ。

 画廊や美術館という空間には、作品を、それが生まれた生々しい現場から
切り離し、作品を「作品化」する力が働く。だから、スズキコージは画廊を
「部屋」に作り変え、入ってきた人をもてなそうと試みたのだろう。だが、
瀧口修造の企画展を仕切った人は、瀧口修造という「真摯で傑出した芸術家」
の「仕事」を「紹介」するという使命感に燃えて、そのため個々の作品を独
立した「仕事」として名指したのだと思う。結果として、瀧口修造の匂いは
消え、「人と作品を紹介する」というキュレーターの意欲だけが会場に張り
詰めることになった。

 表現というものを、コミュニケーションの問題として捉えたい。スズキコ
ージは、ギャラリーを「客人をもてなす場」として考えていたようだし、瀧
口修造は「友人」たちへの個人的な想いを創作の根底においていたに違いな
い。

 それにしても、三月ももう終わりだなんて、信じられないですね。一年で
一番好きな月なのに、忙しさの余り、ゆっくり季節の変わり目を愛でること
もできなかった。それでも、きのうは学芸大学までぶらぶら散歩しにいき、
古本を買ったり、街頭の若手芸人の漫才を聞いたり、コーヒーを飲んだり、
帰りに新しくできたラーメン屋さんでご飯を食べたり(京風の味噌ラーメン、
最高においしかったです!)、ゆるゆると春の一日を楽しみました。


3月13日(日)  堀江貴文のニッポン放送株買占め問題が大きな話題を呼んでいる。堀江は 非合法すれすれとは言え、法律の枠内で株を取得したわけで、法律に反して 新予約株を発行しようとしたニッポン放送=フジテレビ側が裁判で敗れたの は当然だろう。だが、堀江貴文の方も、もっとうまく事を運べなかったのか なあ、と思ってしまうんですね。金儲け主義の是非はとりあえずおいておく。 彼は知名度のある大企業を事実上買収しようとしているわけなのだから、相 手に安心感を与えるためのあらゆる努力を(方便にせよ)尽くしたほうがい いんじゃないかなあ。このままだと、フジ・サンケイグループのものすごい 抵抗にあって、堀江側が逆に窮地に立たされてしまうのではないだろうか。 あんなに言いたい放題胸の内をぶちまけてしまったら、逆襲されるのは目に 見えているだろうに−などと考えてしまうんですね。  エリアフ・インバル指揮・ベルリン交響楽団の演奏で、マーラーの9番を 聞いた。緻密でダイナミックなマーラー。ぼくは仕事のため開演に遅れ、第 一楽章を聞き損ねてしまったのだが(残念だ!)、それでも音楽の大きな流 れがよくわかるような、物語性に富んだ演奏だった。金管楽器、特にホルン がメチャウマで、こういう深々とした響きは日本のオーケストラからはなか なか聞けないものですね。ただ、日本人には「できない」わけではないと思 うので、日本の金管楽器奏者はどんどん盗んでいって欲しいものです。 今日は六本木スダーダでサルサのライブをやった。お客さんがいっぱい来て くれて嬉しかったですね。曲をいつもよりたくさん演奏して、終演はなんと 11時半に。バンマスの大塚さん、ちょっと曲数多すぎですよ。でも途中で帰 ったお客さんはほとんどいず、最後まで踊ってくれた。みんな体力あるなあ。 店のオーナーのアリスさんにビールをふるまってもらって満足の一日でした。
3月7日(月)  いただいてから長い間読めないでいた河津聖恵さんの詩集『青の太陽』( 思潮社)をようやく読了した。なかなか読めなかった、というのは、職場で 人がやめたりして生業の仕事がしんどくなったからということが結構大きく 作用している。この2,3ヶ月、現代詩というものをほとんど読まなかった。現 代詩は、書いている人の内面と自分の内面をぴったり寄り添わせながら読まな いと中身に入っていかれないところがある。自分のことでいっぱいいっぱいで 余裕のない時は、なかなか詩集を手に取る気分になれないし、無理して読むの は詩集に対して悪いという気持ちがある。  そして特に河津さんの今度の詩集のようなものは、読むまでに決断が必要に なってくるのである。『青の太陽』という表題作品のタイトルは、画家の香月 泰男の作品から取ったものであるそうだ。「蟻になって穴の底から青空だけを 見ていたい」という画家の魅力的な言葉を基に、話者は蟻の穴から外界を覗く ということの倫理的な意味を突き詰めていく。画家の抽象的な言葉を、自分の 実生活に即するのでなく、抽象的なままに突き詰めていくので、読んでいる方 としては、作者の精神生活というものを手探りで想定しながら言葉の流れを理 解するしかなくなってくる。その精神生活はかなり切迫しているようで、「そ もそも蟻の穴でしか耐ええない何かを 私は恐れたのではなかったか」という ようなフレーズが出てくるほどだ。  この詩集には「世界」という言葉が何度となく使われ、それは哲学的な「自 分をとりまく全てのもの」という意味でも使われ、またイラク戦争などの紛争 が勃発して緊張が高まる国際社会という意味でも使われている。作者は、こう した抽象的な問題に思索を巡らせて苦悩できるほどなのだから、物質的に困っ ている状態ではないのだなあ、と思った。また配偶者と喧嘩しているとか、親 が病気だとかいった家庭的な問題も特にないのだなあ、と思った。つまり、河 津さんはここで一人の「知識人」として言葉を紡いでいるのだ。香月泰男やジ ョイスのような有名芸術家に言及し、ドイツ語にも詳しい作者には、自分の日 常生活はさておいて、「世界全体」というものをどう解釈するか、が精神的な 急務となっているのだろう。  それならそれで、「知識人とは何か」という問題を、河津さんご自身の事情 に即して具体的に述べてくれないかなあとも思うのだが、それは読者の想像に まかされてしまう。ぼくは、その部分が一番知りたいのだが。  こういうふうに書くと、『青の太陽』は余り面白くない詩集のように見えて しまうかもしれないのだが、そんなことはない。美しい比喩が散りばめられて いるし、人生の問題に誠実に向かいあおうとする姿勢に打たれもする。  ぼくは最近、「帰ってきたウルトラマン」シリーズをビデオ屋から借りて毎 日楽しんでいるのだが、地球を怪獣の手から守るMATという組織のメンバーは、 四六時中「地球の平和」のことを考え、人類を守るためならいつでも自分の命を 投げ出す覚悟でいるのだ。その覚悟がMATをかっこよく見せ、地球を守るとま ではいかないけれどもっと複雑なある覚悟が河津さんの詩をかっこよく見せる。 ただ、MATの人間たちが人間味に欠けるのと同様、この詩集の作品にも人間臭 さというものが欠けているように思う。河津さんのような、何事に対しても考え の深い人が、詩においては封印している部分を開いてくれたら、どんなに興味深 いことだろうと、密かに考えてしまうのですね。