2005.4

2005年4月

<TOP>に戻る


4月30日(土)
 急に暑くなってきた。何でも東京は那覇より気温が高い日があるそうだ。
気持ちのよい風も吹いていて、まだまだ過ごしやすい時期にいるのであるが、
これからうだるように暑い夏に近づいていくのかと思うとちょっと気が重い
ですね。

 恒例のイメージフォーラム・フェスティバルが始まり、早速一つプログラ
ムを見た。
 鈴木志郎康さんの新作『極私的遂に古希』は、いつになくシンプルな構成。
今年70歳を迎える志郎康さんが日付けを読み上げてから、毎日の心境を淡
々と語っていく、というもの。途中、多摩美の生徒さんが行った演劇の映像
が挿入されたりもするが、ほとんどがモノローグに終始する日記映画だ。と
ころが、この「シンプル」とか「淡々」とかいうのがクセもので、ここで描
かれている感情は複雑で、一筋縄ではいかない。
 志郎康さんは表現者として、長年言葉でもって世界と関わりを持とうとし
てきた。コンピュータにのめりこんでからは一層拍車がかかった感じもある。
言葉で世界に関わる際に「自分という個人の存在を出発点にする/更にその
出発点に対して絶えず疑問を投げかけていく」考えを核にして、数々の詩や
映画が生み出されていったように思う。
 今回の映画では、身体の不調(路上で転んで大怪我をしてしまう)が自己
を見つめ直す決定的な因子としてクローズアップされる。言葉で個人性につ
いて考えを深めていくだけでは足りない、言葉以前の実存である身体をきち
んと捉えるのでなければ個人として立っていかれない、そういう「必死」な
ものが感じ取れた。リハビリのために体操をする様子(最初のシーンはいか
にもぎこちない感じだが、10キロ減量した二度目のシーンでは動きがスム
ーズである)、草花の枯れていく姿への思い入れ、多摩美の学生たちの肉体
の若さにはっとしてしまう眼差し・・・。そうした“老い”に対する感慨を
執拗に拾い集め、徹底的に対象化し、注意深く言葉で再構築していく。
 現在は、個人が個人のことを情報化する時代だ。ということは、「個人」
と「個人に関すること」の乖離に気がつきにくい時代でもある、ということ
ではないだろうか。個人が情報を送信するのでなく、情報が個人を生むよう
になる。つまり物語化された情報の集積が個人の代用を果たすことになる。
個人は、いつのまにか「情報」に置き換えられ、「疑問を投げかけるべき出
発点」としての役割を果たせなくなっていく。
 志郎康さんはそうした現状を冷徹に見据えながら、「疑いの対象として生
き続ける私」を救出しようとしているように見える。疑いの対象として生き
続けようとする限りにおいて、「私」は文字通り「死ぬまで」生き続けなけ
ればならない。つまり『極私的遂に古希』は、“老い”というものを、情報
的存在としての私」と身体的存在としての「私」のデッドヒートの幕開けと
して捉えた初めての表現作品ではないか、と思うのである。

 池袋の芸術劇場大ホールで、スクロバチェフスキー指揮読売日本交響楽団
の演奏でベートーヴェンの「田園」とショスタコーヴィッチの5番を聞いた。
スクロバチェフスキーの指揮は何度か聞いたが、今回のものは格別の出来で
心底驚いてしまった。「田園」は実は苦手な曲で、いい曲だというのはわか
っているけれど、筋書きが明快すぎて退屈してしまうことが多い。でも、こ
の日の演奏では、細かいフレーズのうねりをここまでやるか、というくらい
に繊細に描いていた。管弦楽というよりは合唱のような響きで、音楽が呼吸
しているなと感じさせた。「田園」が、まるでオラトリオのように聞こえた
のは不思議な体験だった。ショスタコーヴィッチの5番も細部の造形に手抜
かりがない。テンポの調整が絶妙で、微妙に揺らすのだけれど、必ず正確に
元の速さに戻る。音量のバランスもすごくて、金管や打楽器を豊かに鳴らす
際でも、うるさいと感じさせる手前で必ず絞る。力任せに演奏されることが
とても多い曲なのだが、スクロバチェフスキーは逆に「力」を八文目くらい
に抑えて、めいっぱい歌わせる表現を取っていた。読響がこの高度な要求に
よくついてきて、日本のオーケストラとは思えない(!)ような多彩な音を
出していたのにもびっくり。
 80歳にもなろうかというスクロバチェフスキーが行っている演奏は、感
情に押し流されることをきっぱり拒否して、一つ一つの音の意味を極限まで
クリアにしていくというものだ。これはよほど耳の感覚が鋭敏でなければで
きない表現のはずで、老齢に達した指揮者がここまでできるのは奇跡に近い
ことのように思える。音楽に対する執念を感じてしまった。


4月17日(日)  今日は天気がよく、散歩がてらギャラリーを幾つか回った。  青山の「ときの忘れもの」では草間弥生展。79年に発表された初期作品 から最新作までの約20点。彼女の作品は、最近どこでもよく見かけるよう になった。余りにも目にする機会が多いので食傷ぎみになっていたのだが、 静かな画廊の落ち着いた空間で一点一点丁寧に見ていくと、特に初期の作品 はぎこちない中に「この形でしか表現できない何か」が伝わってくる。ある 時期の作品はパターン化された「模様」のように見えてしまって胸に迫るも のが感じられないのだが、初期作品は、果物などの対象が、歪んだ真の姿を 隠しおおせなくなって遂に表面に顕してしまう、という趣きがあり、彼女の 心の衝動が手に取るように感じられてくるのである。  銀座の「ギャラリー椿」では、コイズミアヤ「山と隊道」展と呉亜沙「M y Position」展。コイズミさんは、箱庭療法にヒントを得たと思 われる、シンプルな白い箱の形態を取った美術作品を作り続けている人。日 常からかけ離れた不思議な“生活感”が魅力的だ。今回の作品群は、緑を取 り入れ、山の中での憩いの時間を演出している。癒される感じがいいのだけ ど、日常生活の中での「癒し」のイメージとやや馴れ合いすぎている印象も 持った。あくまで日常では得られない体験を、白い箱を見つめることによっ て夢のように現出させるというのがコイズミさんの最大の持ち味だったので はないかと思うのだ。  呉亜沙さんの作品は、少女のいたずらがきのようなタッチでウサギや女の 子たちを描き、童話的な空間を作り上げるというもの。こういう感覚、子供 の時に持ってたよね、という懐かしさがこみあげてくる。童話の感触を充分 抽象化して造形しているので、大人の男性であるぼくにも十分そのナイーブ な内面世界に浸ることができた。  四谷の写真ギャラリー「ルーニー」では、袴田章子・夏生かれんのジョイ ント写真展「FRAGILE 9つの扉」を見る。若い女性写真家二人が、 友人や母親など、それぞれの大事な人を大事に撮った作品。撮った人たちを 大事に思う気持ちが伝わってくる。人物への一言説明もあり、彼女らの生活 世界との結びつきの強さを強調している。作品を作品内で完結させず、人と の交流を見せ付けることで理解させようとする意図はいいと思う。それなら ばもう少し多様なシチュエーションを用意して撮影したほうが、各々の人物 の繊細な陰影が浮かび上がるのではないかと思った。  ちょっと歩いて疲れたので、遅い昼食をかねて四谷の尾張屋できしめんを 一杯。ぼくは昔から、きしめんって結構好きなんですね。あっさりしている けど、麺の歯ごたえもいいし、ダシも利いていてうまかったです。  さて、たっぷり休んだし、明日からまたハードな一週間を生き抜こう。
4月16日(土) 中国での反日運動がすごい。反日デモにかなりの人が参加したそうだし、日 本商品の不買を呼びかけるキャンペーンも盛んなようだ。日系企業の窓ガラ スを割ったり、日本人に乱暴を働いたり、なんてところまでエスカレートし ている。この人たち、戦前の日本人に生まれていたら中国人に対して残酷な ふるまいをしたんじゃないだろうか。背後には中国政府が自国の政府への批 判を封じる策として意図的に反日感情を煽り立てているフシもあり、怒りを 覚える。  それでも、やはり日本がまじめに過去を清算しない態度を示し続けている ことに最大の原因があるのだろう。卑屈に詫びるのではなくて、反省して清 算する、ということ。靖国参拝なんていい加減やめればいいし、日本がアジ ア諸国に侵略行為を働いたことは明らかなのだから歴史教科書に明記もし、 補償が足りない部分があれば補償すればいいのだ。こんなことは当たり前の 外交的態度のように思えるのだが、それがうまくなされないということは、 戦中派の日本人の中に「理屈じゃない理屈」があるからなのだろうな。もし そうなら、正論を声高に主張するより、遺族会を中心とする「愛国派」の方 々のプライドをどうにかこうにか慰めてあげた方が効果があるのではないか? 意固地になって侵略行為を正当化しようとするということは、敗戦という事 実にいまだにプライドが傷ついているからだろう。それと、ペコペコ謝るの ももうやめにしたほうがいい。反省の姿勢を示すことと、卑屈になることは 違うと思うからだ。中国や韓国のご機嫌をとったって仕方がない。「反日」 も国策の一つなのだろうから、それに同調することはないし、そんなものは 反省でも何でもない。  ・・・などということを、ちょっと熱く考えてしまいました。  スペインのアンフォルメルの画家・タピエスの展覧会に行く(原美術館)。 素材が素材自身について語るという、20世紀後半特有のパラダイムを具現 化したような作品群。個々の作品のタイトルは実にそっけないが、物語性に 頼らず、素材と素材に触れる“手”の出会いが大事にされている。むしろ素 材と手の触れ合いが物語化された作品とでも言ったほうがいいのだろうか。 一見とりつくしまがない「前衛芸術」のように見えるけれど、じっと立って 眺めていると、何とも言えない暖かさが伝わってくる。原美術館は、一点一 点を広いスペースを使って展示しており、タピエスの良さを味わうにはぴっ たりな感じだった。  御茶ノ水の「NARU」に久しぶりにジャズのライブを聴きに行った。辛 島文雄(P)トリオにトランペットの原朋直が入ったセッション。迫力のあ る演奏が7時半から11時半まで、3ステージにわたって繰り広げられ、聴 き終ってぐったりしてしまったほどだ。マルサリスらの新伝承派的なスタイ ル、ビーバップ〜フリーのジャズの様々な要素を自由自在に配合させたスタ イル、つまり“最先端”のスタイルだ。原の音は柔らかさと剛直さを併せ持 って圧倒的だったし、辛島文雄は奔放さで度肝を抜いていた。  とても満足したのだけど、考えてみれば、モダン・ジャズはもう10年間 もこの“最先端”のスタイルのままきてしまっているのだ。これではほとん どクラシック音楽と変わるところがない。彼らの演奏の力強さや奔放さは、 一定の枠内のものであり、その枠を決して踏み外すことがない。モダン・ジ ャズというのは、形式としては一種の“変奏曲”にすぎず、もう煮詰まって しまっているのかもしれない。  とは言うものの、堪能したことに変わりはなく、やっぱりジャズは名盤よ りもナマが一番だな、と感じたのだった。  会社の仕事が修羅場っていて、10時前に帰れる日が少なくなった。とに かく体にだけは気をつけることにしよう。それでも、今、ようやく新しい詩 集の準備を始めることができた。秋頃には出版できそうだ。きついけれど、 頑張ろう。