2005.5

2005年5月

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5月31(火)
  仕事の関係で親しくさせていただいているホラー評論家の東雅夫氏の新刊
『妖怪伝説奇聞』(学研)を読了。これはいい本ですね。妖怪伝承の地を訪
ね歩くという紀行文だが、「奇聞」と銘打ちながら奇をてらったところが全
くない。伝承の生まれた土地を自分の足でまめに歩き、文献にあたって背景
を調べ、古老の話に耳を傾け、目的の秘宝(魔王の小槌や牛鬼の骨!)を拝
む。その態度が非常にマジメで謙虚なのだ。妖怪の伝承と言えば、誰でもい
かがわしさを感じる。だからそのいかがわしさをめいっぱい誇張して商売に
するというのがオカルト業界というものなのだろうが、東さんはそれをやら
ない。妖怪たちがどういう必然性を持って人々の心の中に現れたのかを、そ
の土地柄を理解することで、じっくり辿っていこうとする。下調べは綿密だ
が、民俗学的な整理の方向にはいかないし、図版や写真はたくさん収録され
てはいるが、美術書のような見せ方はしない。あくまで、土地とそこに住む
人々が主人公なのだ。風土に触れてはじめて、伝承の成り立ちの独自性には
っと打たれる−そんな著者の心のときめきが伝わってくる。
 こういう本を読むと、「土地」というのは面白いものだなあ、と思う。「
土地」というのは古来からの心の叫びの集積なんですね。それに丁寧に耳を
傾ける謙虚さと情熱が、ページの端々から感じられて心地よかった。

 御茶ノ水NARUに、また原朋直(TP)の演奏を聞きにいく。ニューヨ
ーク在住の俊英ジーン・ジャクソン(DS)を加えたカルテットだ。
 ジーン。ジャクソンのドラミングは、思っていたよりもずっと繊細なもの
で、音量も八分目くらいに押さえ、共演者の演奏に合わせて微妙な凹凸をつ
けていくスタイル。だが、ダイナミックさが欠けているわけではもちろんな
く、ここぞという時には怒涛のようなフレーズを叩き、ソロの際には目が回
るような名技を披露する。ジャズ・ドラムの教科書のような、小技と大技を
使い分ける演奏だった。原のトランペットは相変わらずすばらしいパワーと
スピードで聞く者を圧倒する。凝った新主流派風フレーズを繰り出し続けな
がら、安定度も抜群だ。とてもいい演奏だったのだが、もう少しじっくり歌
を聞かせる場面があってもよかったかな。とてつもなくうまいのはもうわか
ったから、今度は感情に訴えかけるところで勝負して欲しいと感じた。

 このライブは、昔働いていた書店でアルバイトをしていた女性他数人で聞
きに行ったのだが、彼女がいつか自分の喫茶店を持って経営したいという夢
を語っていたのにびっくり。今はベルギーのチョコレートを販売する会社で
働いているのだが、そこで経営のノウハウを吸収しているのだという。人っ
て成長するもんなんですねえ。不況は続いていても、質のよいものは残ると
いう時代だと思うので、是非頑張ってほしいです。


5月15(日)  尼崎の電車脱線事故の全貌が明らかになりつつある。事故の原因の他に、 同乗していた運転士が負傷者を救助しなかったとか、事故当日宴会やボーリ ング大会をしていた奴がいたとかいうことも報道された。で、「いかにもあ りがちなことだなあ」と思ったのだった。  恐らく、定刻通りに出勤しなかったり、みんなが参加する行事に出なかっ たりすると、あとでつらい目に遭うなどということがあるのだろう。伝統的 な日本企業の集団主義の弊害がわかりやすい形で出ただけ、と感じられた。 事故現場を離れた運転士の人たちだけを悪者にするのはちょっと酷だろう。 強い労働組合がバックにある会社だと堅苦しい集団主義になるし、そうでな いとリストラの危険に日々怯えて暮らすようになる。労働者個人の自由意志 が尊重されるということは、今の日本ではなかなか難しいのだろうなあ。  イメージフォーラムの「ヤング・パースペクティヴ」展を見に行く。イメ ージフォーラムフェスティバルに出品された作品の中で、選にはもれたが一 次審査に通ったものの中で優れた映画を集めた企画だ。入選作よりも新鮮な 印象を与えられる映画も少なくないので、毎年楽しみにしている。  今日は3つのプログラムを見た。鈴木野々歩の「風をとって」は、イメー ジフォーラムで仕事をしていた作者が、そこでの仕事をやめ、風を起こす装 置を作ろうとしたり、奥さんと一緒にカメラを結びつけた凧をあげて上空か らの映像を撮ったり、と、しがらみに縛られない生き方を模索する姿を描く 映画。自己啓発セミナーに、セミナーとは関係ない質問をしつこくするとこ ろなどはよかったし、上空からの映像は、自意識を吹き飛ばすような爽快感 があって印象に残った。ただ、内面の葛藤の説明が足りなくて、いきなり場 面だけが変わるので、作者の人となりが充分伝わらない気がして残念だった。  伊東宣明の「象の話」も印象に残った。小学生の時学校をさぼって動物園 に行った子供が象と対話するというもの。象は徹底したニヒリストで、子供 い対してさして優しくもなく、現実の単調さを淡々と説く。その空想の中で の対話の最中、映像は動物園にいる動物たちの姿をひたすら映し出す。愛ら しくも親しみやすくもないリアルな動物の表情が、「現実の酷薄さ」という ものを暗示する。子供が夢も希望もない現実を学んでいく、という内容だ。  今日見た3つのプログラムは概してスタイリッシュなものが多く、現実を 正面から捉えようとしたものは少なかった。代わりに、仮想現実をテーマに したものが何本かあり、自己言及性というものがありふれたテーマとなりつ つあることを知る。でもスリリングなものは少なかったかなあ。  帰りに鈴木志郎康さんとご飯を食べる。表現は波動として人に伝わってい くものとのお話に感銘を受けた。それも横の波動ではなくて縦の波動だとい うこと。充分に理解したとは言いがたいが、志郎康さんの話はいつも刺激的 で考えさせられる。
5月4日(水)  今、クロコダイルでのサルサのライブを終えてきたところ。8時から11 時すぎまで2ステージ演奏してもうくたくた。でもお客さんは100人以上 入って盛り上がり、気分はいいです。トランペットの天神さんが連れてきた 会社の若い女の子たちのはしゃぎぶりに圧倒されました。ダサいオジサンた ちが楽しそうに音楽をやっている姿が珍しかったのかもしれません。できた ばかりのボラーチョス・オリジナルのTシャツを無料で配ったのだったが、 これがかなり好評で、お客さんも積極的に着てくれましたね。ギャラも良か ったし、満足の一日でした。次のライブは、6/19江古田のBuddyで す。お暇な方はどうぞ。  イメージフォーラムフェスティバルのプログラムを2つ見た。一つはイギ リスのアニメーション作家・フィル・マロイの作品集。ブラックユーモア満 載の作品でよくできているなと思わせるものがあるのだが、ぼくには意外と 大味な感じがして余り楽しめなかった。「絵に描いたようなブラックユーモ ア」というのは、逆に堅苦しい印象を残すものだな、と思ってしまった。  かわなかのぶひろ+萩原朔美の「映像書簡10」はすごく面白かった。か わなかのびひろは自身が胃癌に罹り、手術して生還するまでを丹念に映像に 撮る。苦しさや不安でいっぱいだったに違いないのに、この映像の明るさは いったい何?という感じ。入院生活を、創作のネタに使えるとばかりに楽し んで撮っている。治療にあたったお医者さんは、自分が診ている患者に逆に じろじろ見られる立場にされて、内心困ったのではなかったろうか。死とい うものを人生の一つのプロセスとして、受け入れるべきものとして捉える姿 勢に感銘を受けた。萩原朔美は対称的に、死や老いを徹底して「衰退」と捉 えて恐れの気持ちを率直に表明し、これまた感銘を受けた。彼の母親の萩原 葉子は、現在記憶力が衰え始めており、物の概念の把握が日に日に弱くなっ てきてしまっている。そんな母親の姿に、萩原朔美は自分自身の未来の老い た姿を重ね、恐怖する。  「受け入れる」/「恐怖する」と姿勢は異なるけれど、老いや死に対する 考えを率直に語りつくしている点では同じである。プライヴァシーというも のを、意図的にかなぐり捨てて楽しんでいるふうにも見える。鈴木志郎康さ んの新作も老いをテーマにしたものだったが、先鋭的な映像を撮り続けてき たこの人たちが、自身の老いを、今まで撮ってきた題材と同じように徹底的 に対象化し、執拗に分析する態度にびっくりしてしまうのだ。  画家の松宮純夫さんから、上野で開催されている国展の招待状をいただい たので足を運び、帰りに西洋美術館のラ・トゥール展を見る。ラ・トゥール は、近年再評価が著しい、17世紀に活躍したフランスの画家だが、これは 大変な収穫だった。写真のように正確な構図の中に射し込む光の表現がすご い。自然に対する新しい見方の獲得を印象づけられる。17世紀ヨーロッパ に於ける自然科学の急速な発達の影響が表れているのだろうか。風景をいち いち解剖しながら絵にしているように感じられたのだった。