2005.8

2005年8月

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8月29日(月)
 もうすぐ8月も終わり。猛暑のようで、意外とからっとした日は少なかっ
た気がする。海にも山にも行かなかったし、ちょっと寂しい感じもありま
すね。まあ、いつものことですが。

 詩集の発送もだいぶ済んでほっと息をついた。今回は、丁寧な感想を手
紙で何通かいただくことができ、嬉しい気分。こちらも読んでいいなと思
ったら照れずに作者に感想を伝えよう、と改めて思う。これ、やっぱり表
現の基本ですよね。私信というのは批評の言葉と違って、個人としての気
持ちや気分が伝わってくるので、読んでいてぐさっとくる。こういうやり
とりの積み重ねの中で、新しい詩が生まれてくるようであればもう最高だ
と思う次第。

 ギュスターブ・モロー展を見にBunkamra・ザ・ミュージアムへ。
このところ象徴主義の絵画展を立て続きに見たけれど、知名度ではモロー
が一番だろう。お客さんもいっぱい入っていた。色使いや線がとにかく官
能的だ。人物はどれも両性具有的な魅力を湛えていて、男女の緊張した対
比関係で官能を表現するというよりも、「官能性」というものが、モロー
の頭の中核を支配する抽象的な原理であるかのようだ。つまり、色や線が
官能的な男女の肢体を形作っていくのでなく、たまたま男女の形態をまと
うことになった色や線が、それ以前から既に独自な官能性を身につけてい
るのだ。ここから抽象画まではあと一歩で、色が形態を脱ぎ捨てて暴走を
始めそうになるのを、厳格なデッサンが押さえつけて、スタティックな美
をぎりぎり維持しているという感じだ。
 まだ胎内にいる「現代美術」は、こんなに魅力的だったんだ。

 お盆は一日だけ実家に帰り、家族で食事を楽しんだ。昔住んでいた社宅
のあたりをドライブしてみようということになり、小田急線の愛甲石田の
周辺を車で回った。根こそぎ変わっているのではないが、光景はやはり2
1世紀のものになっている(当たり前だが)。昔の光景に二度と会えない
のだと思うと、わけもなく胸をしめつけられるような痛みを覚えた。通っ
ていた小学校など、建物が新築されて見ても全くわからない。それでも、
基本的な施設や店の位置だけは意外と変わらないものだ。三十年前、「三
平食堂」という名前だった冴えない食堂が、「一平」という名のこぎれい
なうなぎ料理屋に変身していたのには笑った。
 でも、昔遊んだり面倒を見てもらったりしていた人の生死すら、今はわ
からないのだ。


8月13日(土)  ローリー・アンダーソン展「時間の記録」を見る(インターコミュニケ ーションセンター)。若かった頃のぼくには(つまり80年代には)ロー リー・アンダーソンの仕事は「スーパースター」のそれのように感じられ た。脱領域的なポストモダンのパフォーマーの代表格というイメージだ。 しかし、今改めて見直してみると、人を驚かせるのが好きな気のいいおね えさん(おばさん?)がコツコツ地味に工夫を重ねている様が魅力的に思 えてくる。コマーシャルの仕事も手がけるし、一銭にもならない手弁当の 活動にも精を出す。ドーンと芸術的なパフォーマンスを打ち出すのではな く、日常をほんの少し斜めから眺めるスタンスがよいのだ。バイオリンは うまいという程ではないし、美術家として目を剥くような鮮やかな造形を 創造するわけでもない。公共の場で睡眠を取ってみせるパフォーマンスや 観客が自由に音を選ぶジュークボックスの部屋、ターンテーブルつきのバ イオリン・・・。それらは、退屈な<日常>の前に鏡を置き、<日常>に <日常>自身の姿を眺めさせて、<日常>性の意味を宙吊りにさせること をもくろんでいるように見える。  こういう地道な手作業・企業や地域社会の関係者との交渉を厭わないア ンダーソンの姿に敬服する。彼女自身が会場内をうろうろ歩く回っていて いつでも話しかけられる、なんて感じだったらもっと楽しかっただろうな あ。  夜は、池袋万希でジャムセッション。今日のお客はぼくを含め5人で、 まずまず楽しかった。終わってからみんなに詩集を配ったら、かなりびっ くりされた。本ってやっぱりびっくりされるもんなんですよね。だから、 丁寧に作らなくてはいけないんですよね。最初の「びっくり」が醒めた後 でもインパクトを持続させるために。
8月7日(日)  第三詩集『息の真似事』ができた。第一、第二詩集と同じく書肆山田か らの刊行。もう二週間もすれば一部の書店には配本されるだろう。  今回の詩集は、「人の暮らし」と「言葉の暮らし」の二種類の「暮らし」 の違いと重なり合いということに焦点を置いた。カバーに使わせていただ いた篠原俊之さんの写真は、コンクリートから電線のようなものがにょろ っと出ている変わった構図の作品だが、電線のようなものの、本体とその 影の区別が曖昧なところが面白く、この詩集のコンセプトにぴったりだと 感じて使用を決めたのだった。編集の大泉さんはこの微妙な肌触りの写真 をとてもうまく表紙にしてくれた。ありがとうございます。  帰りに書肆山田の鈴木一民さんと飲み、詩の話をする。詩人は他者にも っと関心を抱かなくてはいけない、というところで意見が一致した。  自分の書いた作品を改めて読み直してみると、異質なものが共存する「 薄黒さ」をもっと鮮明に出せたら、と反省。まあ、自分の詩を客観的に読 んで反省の機会を持つことができるところが、詩集を制作する意味の一つ だとも思っているので、今後の課題としよう。ここからどこへ向かうか、 ぼんやりとだが、見えてきた気がした。  トランペット&コンガ奏者・ジェリー・ゴンザレスの演奏をブルーノー トで聞く。ラテン・ジャズ風なものを予想していたが、これは完全なモダ ン・ジャズですね。コルトレーンに強い影響を受けた人の演奏だというこ とが一聴してわかる。トランペットで吹くには難しい、うねうねとした複 雑なフレーズを破綻なく繊細に吹き通す力に驚く。特に、バラードの演奏 がすばらしかった。彼のコンガは独特なもので、ラテン・パーカッション というよりはジャズ・ドラムのような叩き方をしているのが印象的だった。  とにかく暑い。7月は雨も多くて涼しい日もあったが、8月に入るとま さに「東京の夏」と言いたいような、うだるようなヒート・アイランドの 熱に閉口する。舗装道路のコンクリートを引っぺがしたら少しは涼しくな るか。いやそんなことしたら土建屋に税金が流れてしまうし。  夏は麦茶と冷奴が欠かせないですね。