2005.9

2005年9月

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9月10日(日)
 台風。時折雨も風も激しくなり、かと思うと太陽がカッと照りつけてく
る。涼しくなったり暑くなったり。これの繰り返しでだんだん秋になって
いくんだなあ。

 鈴木志郎康さんが、ぼくの詩集「息の真似事」の感想を伝えてくださる
というので渋谷でお会いした。喫茶店のTOPで待ち合わせ、そのあとセ
ピアでビールを飲みながら3時間ほども話し込んでしまった。何というか、
本当に幸せな時間だった。
 自分の詩の感想を言っていただけるのも嬉しいが、志郎康さんは、ぼく
と合って感想を述べるという行為を、ご自身の詩に対する考えの実践とし
てやっておられるのだという、そのことにもっと感激したのだった。
 詩は人と人とのコミュニケーションの一つの形態である。詩人が作品を
生み出すのは、日常のコミュニケーションの手段では伝えられない何かを
伝えようとしているからで、そうであるならば、その詩人を目の前にして
どう伝わったのかを正直に話し、詩が個人と個人のコミュニケーションの
手段であることを確認しよう、というものだ。
 こうした考え方は詩壇の中で主流ではない。詩は立派な「作品」として
「評価」の対象として扱われるばかりだ。詩が、どういうコミュニケーシ
ョンをめざして成立しているのかを問う人は実に少ない。
 ぼくの詩が備えている、時間軸をずらす技法が、当の主体の影さえ薄く
なるほどの「孤独の表現」の実現のためとの解説は、目からウロコだった。
誰に読ませたくて詩集を編んだのかと問われたので正直に「母親に読ませ
たかった」と答えるとびっくりされた。この詩集は、苦労や心配をかけて
いるのに一向にそれにむくえない自分を(罪障感を伴いながら)開き直っ
て示すことができたらいいな、という思いを底流においている。そのこと
が母親にわかってもらえたかどうかは不明だが、敬愛する志郎康さんに打
ち明けることができたのは嬉しかった。
 他にも、「現代詩手帖」の座談会について、詩壇について、気になって
いる詩人について、志郎康さんの最近の詩の中でぼくが気に入っている「
顔語り」について、など、詩についての多くのことを語り合うことができ
た。こんな充実した時間をまた持てたら幸せだな、と思った。

 サントリー音楽賞を受賞した作曲家・西村朗の個展を聞きにサントリー
ホールへ。ぼくはずっと昔からこの人の音楽のファンだ。現代音楽にサブ
カルチャーの要素を持ち込み、大衆との対話を復活させようとした点点で、
非常に重要な作曲家だと認識している。
 今回演奏されたのは、雅楽の「夢幻の光」、室内交響曲第3番「メタモ
ルフォーシス」、ピアノ協奏曲「シャーマン」。
 新作「夢幻の光」は、中近東的な響きをベースにした電子音楽という感
じの不思議な音楽。音のブレ自体を「旋律」として捉えていく西村独自の
方法がフル活用された曲で、特に篳篥や笙の音のうねりが印象に残った。
男性二人による舞いも用意されていて楽しめた。「メタモルフォーシス」
と「シャーマン」はCDでも何度も聞いていて、ロシアの管弦楽曲のよう
なリズムの面白さと叙情性に改めて感銘を受ける。19世紀後半から20
世紀前半までの音楽言語を自在に引用するような、一種のポストモダン的
な音楽でもある。ピアノの高橋アキの名技にも驚く。
  演奏会の終了後、一緒に聞きに行った著述家の守屋淳さんのマンション
でもてなしを受けた。生まれたばかりの赤ちゃんが品行方正なハンサムボ
ーイなのにびっくり。こんなに情緒の安定した赤ちゃんって、ちょっと珍
しいですね。奥様の手料理もおいしくいただき、楽しい夜でした。

 丁度一週間前は、恒例の甲府のラテン音楽のライブに参加。バスに乗っ
て、景色のいい「風土記の丘公園」に行き、ジンギスカンを楽しみながら
演奏の順番を待つ。今年はご飯を大量に炊いて、ヘジョワーダにしたりお
にぎりにしたり、混ぜご飯にしたり、おいしかったですね。でもアルコー
ルも大量に摂取したせいか、演奏のほうは今いち。これは猛省すべきです
ね。いくらノーギャラの演奏とはいえ、演奏の一時間前には酔いを醒まし
ておくこと。来年からはこの誓いを守りますです。