2006.2

2006年2月

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2月27日(月)
 オリンピックでフィギュアスケートの荒川静香さんが金メダルを取りました
ね。素人のぼくが見ても、非常に美しい演技でした。例のイナバウアーも良か
ったけれど、ただ滑っているだけですばらしい曲線が次々に紡がれている感じ
でした。他の有力選手がかなりミスをしていましたが、精神面の安定が最後に
モノを言うというんでしょうか。よくテニスの試合などで、中盤までメチャク
チャ勝っていたのに、突然リズムを崩して自滅してしまうということがある。
主体性を保ち続けられる人が勝者になる。主体性って不思議だなあ、と思いま
す。

 国会で、民主党の永田議員が、堀江貴文が流したとされる収賄メールの存在
を証明しようとして、かえって窮地に立たされてしまう事件が起きました。民
主党内で、途中で永田さんに意見する人はいなかったのだろうか。絶対真実だ
なんて言い張りさえしなければ、自民党にダメージを与えることができたのに
何でこんなことになってしまったのだろう。

 しかし、似たようなシーンが自分の人生にもあったな、と感じる。有利に物
事を進めている気になっているうちに、とんでもない失敗をしでかしている、
という…。 どこかで自分を見失っているのだが、その「どこ」がわからない。
永田議員を見ていると、次第に自分の姿を見ているような気分になって、気分
が悪くなってしまうのだ。


2月19日(日)  もう2月も後半。焦って更新です。  オリンピック真っ盛りのこの頃ですが、テレビでは日本人選手の報道ばかり 流すのはなぜなのだろう。普段目にしないスポーツを楽しむいい機会なのに、 日本人の勝ち負けばかり話題にするというのは情けないのではないか。日本人 選手のメダルラッシュというならそれも仕方ないが、どうも今回は不振のよう なのだから謙虚になって外国のすぐれた選手の演技を学ぶのがいいんじゃない かと考えますね。スポーツ選手は芸能人ではないのだから、甘やかされていい ことは一つもないでしょう。  選手たち自身はそれをよくわかっており、世界との実力差も認めているよう なのだから、尚更かわいそうな気がする。  ここで放映されているのはスポーツそのものではなく、スポーツをテーマに したドラマであって、それもかなり安直なストーリーのものだ。こういうもの ばかり見て育つと、日本のスポーツというのはどんどん衰退していってしまう ような気がする。  最近、社会学者の宮台真司の本を立て続けに読んでいる。徴兵制や天皇制を 認めるような発言を繰り返しているし、「カルスタ・ポスコロ野郎」とカルチ ュラル・スタディーズの研究者を批判したりしているから、風当たりも大きく なっているようだが、ぼくは基本的には現状をよく分析した非常にまっとうな ことを言っているなという感想を持っている。  彼の主張は様々で、その細かい部分や理論的な部分はもちろんぼくの理解を 超えているが、その問題意識は「流動性の高すぎるこの世界をどう生きるか」 に尽きているように思える。大小の共同体が衰退して、人がむき出しの個人の まま生きざるを得ない状況で不安を感じ、自ら自由や主体性を放棄し、監視や 規制を求めていく−宮台はリベラリズムの立場から主体性の放棄を危険とし、 主体性が拠って立つ共同性の回復の道を探る。それは、お仕着せのものではな く、内発的で自律的なものでなければならない(そのために、「あえて」衝撃 力のある右翼的言説も辞さない)−。  大筋で言うとこんな主張になるのだろうか(間違っていたらごめんなさい)。 「空洞化した地域社会だからこそ上昇する『道徳の押しつけ』『伝統の押しつ け』『相互監視下』に抗って、多様性を許容する信頼ベースの地域社会をとり 戻す」(『ネット社会の未来像』からの発言)。  この多様性というのは、個の主体性や自律性と言い換えられるものだろう。  詩の表現は、個がその「個」性を自覚し驚くことに端を発するものだと思う のだが、個が「個」性と衝突し、その衝突が次々と他の個へ連なっていくため の場が、出版メディアでは維持しきれなくなってさあどうする、というところ にきている。長い間詩誌の選者をつとめていたこともある鈴木志郎康さんは、 遂に詩の作者にじかに会いにいくという行動に出た。  詩人たちは、詩を書かざるを得ない心境になるということ・詩を書くこと・ 発表して読んでもらうということ・他の詩人の「詩を書かざるを得ない」心 境も理解してあげること、というこれら「個」性の衝突に関わる一連のプロセ スにもっと鋭敏にならなくてはならないかもしれない。自分と他人の多様性を 味わいつくすための、苦しくも楽しい作業が詩作だということだ。それを実現 するための「地域社会」をどう構築するかは、若い詩人たちの大きな課題であ ろう。  宮台さんの場合は、政治や社会の問題を扱うからどうしても民衆を主導する 「エリート」の必要や、内外の権力と戦うための自分たちの「武装」について 力説せざるを得なくなる。政治的な実効性を得るためその表現はストレートす ぎるのではないかと思える時があり、宮台真司の著作を読む時はいつでもその 発言の裏まで読むように注意しなければならない。だが彼が本当に重視してい るものはあくまで多様性を抱擁すること・「個」性の擁護ではないかと思うし、 そう期待もする。  きのうは上野広小路のGHNINEに、原朋直(TP)カルテット(道下和 彦G、伊藤 望B、岡田佳大Ds)の演奏を聞きにいった。ファンク系のリズム を主体とした演奏で、パンチがあり、刺激を受けた。席が原さんのまん前だっ たのでトランペットの音がビリビリ振動として伝わってきてすごかったですね。 ジャズっぽい汗臭い熱さと、浮遊感が一体化した魅力的な音楽だった。こんな のやってみたいですね。