2006.4

2006年4月

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4月30日(日)
 小沢一郎が民主党の代表になりましたね。やっと腰をあげたか、って感じで
はあるが。民主党は千葉で補選でも勝ったから、政治の流れは長かった小泉の
新自由主義路線から生活や福祉を重視する方向に傾いていくのかもしれない。
外交もアメリカ一辺倒からアジア外交重視にじりじり路線変更がなされるのか
なあとも感じる。
 ぼくは政治には全くの素人だからこの方面でピリッとしたことは言えないけ
れど、福祉重視であれば財源をどうするのかは大問題だし、アメリカから距離
を取った独自外交を繰り広げるのであれば、防衛はどうするのかという問題に
ぶち当たる。
 小沢は、かなり前のことだが確か消費税の税率を大幅にアップしようと発言
していたと記憶している。彼は、日本を軍隊を持つ「普通の国」にしようとい
う主張の持ち主でもある。ぼくは、透明性を以て公正に使われるのであれば、
増税には反対ではない。だが、軍隊の問題は微妙だな。自衛隊がアメリカの都
合で簡単にどこへでも駆り出されるのが明らかになってしまった今、絶対に護
憲というのが得な立場かどうかわからない。自衛隊を「軍」として規定し直し
て、その代わり海外に派兵する条件を厳密に制限したほうがいいのかもしれな
い。
 とにかく、小沢さんは余り国民に向かってはっきり自分の意見を喋る人では
ないイメージがあるので、この機会にテレビで基本的な考えを全て喋って欲し
いなと思う。
 
 マイルス・デーヴィスの初期の作品を納めたCD10枚分のBOXがタワー
レコードで何と1500円以下で売られていたので思わず買ってしまった。解
説も演奏者名の記載もない、CDが10枚入っているだけのBOXだが、十分
楽しんでいる。マイルスは、トランペットで歌うということをものすごく真剣
に考えた人なんだな、と改めて感じた。聞き手を圧倒させるのではなくて、歌
いまわしの妙で感動させることに重点を置いている。その感動の核心には「孤
独」の姿があるんですね。「孤独」をエンターティメント音楽の中心に位置さ
せた最初期の音楽家の一人だったと言えるのではないかと思う。
 それと非常にモダンな面があって、テンションノートの独自な強調により、
現代音楽すれすれのような、無調的な響きを作ることがある。歌で酔わせる部
分と、酔いを覚ます部分の両方を狙った演奏だということ。自分が作る音楽に
対して、相当に批評的な目を持っていないとこうはならないだろう。マイルス・
デーヴィスという人は、自分の中に何人もの聴衆を囲って自己批評を繰り返し
てきた人なのだろうな、と感じたのだった。


4月23日(日)  ちょっと疲れ気味なので余りお出かけはせず、家でゆっくり過ごすことに。 買ってきたブラジルの女性ヴォーカリスト・ジョイスの「フェミニーナ/水 と光」を聞く。80年代のジョイスの2大名作をカップリングしたアルバムだ が、今聞いても本当に新鮮だ。  潤いのあるなじみやすいメロディーを、ジョイスはおおらかに情緒たっぷり に歌い上げるのだが、よく聞くと転調も多いし、アレンジも凝っている。かな り、というより、演奏するのがすごく難しい曲ばかりなのだ。特にリズムは、 聞く分にはとても快いけれど日本人にあのノリを出すのは余程入れ込んだ人じ ゃないと無理だろうな。タイトでありながら、うねうね揺れ動くようなリズム なのだ。揺れ動きながら、絶対走らず、遅れない。このタイム感覚は、この土 地で育った人間でないと見につかないものなのだろうなと思わせる。  ブラジルのポップスは、「洗練」ということと「土俗性」ということが分か ち難く結びついていて羨ましい。言わば、近代化に成功した音楽なのだ。日本 は故郷の音楽を捨ててしまって、これからどこへ行くのだろうか。今、日本で ダンスをやりたい人は、ヒッピホップか、サンバやサルサなどの中南米系のダ ンスを踊るしかない。日本土着のダンスは、お稽古事になってしまった。  ジョイスの音楽を聞いていると、日本は本当は近代化に失敗した国ではない かとの不安が浮かんでしまう。  そう言えば「ときの忘れもの」の「アンディ・ウォーホール展」にも足を運 んだ。彼の作品でなく、彼に関する記事やポスターなどを、60年代から生涯 をかけて集め続けた人がいて、そのコレクションが展示されているのだ。世の 中にはいろいろな人がいるけれど、こんなにヘビーなウォーホールのファンが 日本にいるとは思ってもみなかった。彼が日本ではまだ「美術家」として扱わ れていなかった頃、ベルヴェット・アンダーグラウンドの関係者程度にしか考 えられていなかった頃からのファンだったようだ。  所狭しと展示されたコレクションを一つ一つ眺めていると、芸術家扱いされ ていない、いかがわしい「日本でのウォーホール」の像が浮かび上がってくる。 このことは決して悪いことだと思わない。ダダの継承者としての側面も重要か もしれないが、美術史と切れた、ダサかっこいいコメディアンとしてのウォー ホールの顔が見られたことはかなり新鮮だった。80年代における大々的な紹 介以後、遂に日本でもウォーホールは「現代美術の帝王」になってしまったが、 本当は、個々人が勝手に面白がっていたそれ以前の受容のほうが、ウォーホー ルの芸術によりふさわしいような気がしてくる。 さて、4月もあと一週間。GWはイメージフォーラムフェスティバル通いと いうことになりそうです。
4月16日(日)  憂鬱な状態というヤツが続いている。  最近仕事や生活について疑念が芽生えだしているところ。知人が週いちでマ スターをつとめているゴールデン街の店で偶然、大学時代の先輩に会い、日本 人はもともとはよく転職を繰り返す、ラテン的な気質の民族だったんじゃない かという話をする。終身雇用制が崩壊したことは、深刻な失業問題も引き起こ しているけれど、ぼくにとっては歓迎すべきこと。同じ会社をつとめあげなけ れば一人前ではない、というプレッシャーがなくなっただけでも気が楽になる。 しかしもちろん、この気楽さは不安の裏返しでもあるのだ。    オペラシティギャラリーで「武満徹 Visions in Time」を見 る。自筆のスコア、彼に関わった芸術家たちの数多くの作品や手紙、彼が音楽 を手がけた映画のポスター、彼自身が描いた絵など盛りだくさんの内容だった。 武満徹という人が、とにかく多岐にわたる方面に関心を持っていたことがわか り面白かった。戦後の極貧の状態で作曲の勉強をはじめ(ピアノもないほどだ った)、当時の前衛芸術の推進者たちの知遇と評価を得て、国家や企業から創 作の予算を引き出すところまでいく。「文化」というものを心から信じていて、 いわゆる生活が希薄で、生活自体を「文化」で覆いつくしていこうとする考え が見られる。武満が私淑した瀧口修造が、表現が「文化」として扱われること に抵抗を示した挙句、一時表現や評論活動自体が困難になってしまったのとは 大違いだ。武満にも生活の苦労はたくさんあったはずなのに、その苦労の部分 をきれいに削除して「文化」から「文化」を創る作風を確立し世界的評価を得 た。このことが幸福なのか不幸なのかはよくわからないが彼が精魂こめて作っ た音楽に胸を打たれるのは事実だ。それは夢のように複雑で美しく、夢のよう に希薄な音楽なのだ。    イメージフォーラムで坪田義史の映画「夜明け」を見る。「夜明けの音を探 しませんか」というサウンドクリエーターの呼びかけで集まった、風変わりな 若い男女の生活を描いた作品。無秩序で無感動な生活の描写の中に、イラク戦 争の報道が時々混入する。人生を支える物語が消滅してしまった中で生きなけ れば辛さを表現しているように思えるが、やや主張がストレートで素朴に過ぎ ているようにも感じられた。彼らが作っている音がもっと前面で出ればいいの になあ、と思っていたら何とこの映画のライブバージョン(演奏つき)もある と知って、来る日を間違えたなあと感じてしまった。  先週はサルサバンドで、結婚パーティでの仕事と六本木ボデギータでのライ ブを一日でこなした。中身の濃い3ステージの演奏で、さすがにちょっとへば りましたね。ボデギータでの客の入りは良くはなかったけれど、聞きに来てく れたパナマ大使館の人はたいそう喜んでくれた。お客さんが楽しんでいる顔を 見ながら演奏するのはすごく楽しい。結婚パーティではフルーティストの赤木 りえさんも演奏し、力強い表現に感銘を受けた。  
4月2日(日)  雨が降っている。桜の季節も今日で終わりだろうか。会社の近くの公園では 3月20日頃から桜が咲き始めていたから、10日くらいは桜を楽しんだこと になるのかな?   先週、新宿ゴールデン街振興のための催し「桜フェスティバル」に、サルサ バンドで出演した。場所はキャバレーのクラブハイツ。結構大きめの会場だっ たが、たくさんの人が来て満杯の入りだった。バンドのトランペッターである 天神さんがゴールデン街の店で週2回、雇われマスターをつとめている関係で きた話だが、なかなか楽しかったですね。5000円でほぼ飲み放題だから、 良心的な価格でもあったし。コンセプトは「昭和」の再現といった感じで、横 浜銀蝿を真似たバンド「新宿金蝿」が出たり、高取英もどきの演劇があったり、 ムード歌謡があったり、ストリップショーがあったり、だった。中でもすごか ったのが、沢田王子による沢田研二のモノマネ。電飾の衣装を着て、本人にな りきって会場を走り回ったり、女性のお客さんとダンスをしたりするのだ。い やあ、すごい熱演でした、参りました。  うちのサルサバンドも、曲は70−80年代のプエルトリコ・サルサのナン バーが中心。総じて昭和後期の雰囲気を楽しむだらだらした宴会といった趣き でしたね。実は若い女の子たちも結構きていて、リアルタイムでは知らないは ずのムード歌謡の演奏をゴキゲンで楽しんでいたりしたから、昭和を楽しむと いうコンセプトはあながち一定の世代の中だけで閉じるものでもないらしい。 安い値段で飲めて、誰でも受け入れてくれて、上品ではないが文化的な香りも あるというゴールデン街の良さをうまくアピールできた催しではなかったかと 思った。  今日は雨だったので、喫茶店に行って本を読んでいた。  中村葉子の写真詩集『夜、ながい電車に乗って』(ポプラ社)は、個人的な 心の体験をほとんど歌謡曲のように情で訴えかけるところがあって、うまいな あ、と思った。もともとは独立した詩作品として書かれたものではないらしい が、上手に編集が施されていて(多少演出があざとい、と感じさせられるとこ ろもあったが)楽しめた。中村さんの作品は、自分に対しても外部に対しても、 表現が即物的で細かい部分によく観察が行き渡っているところが特徴的だ。情 に溺れないクールさがベースになっているから、情をあえて前面に押し出した 時でも客観性が保たれていてベタベタした感じがしない。つまり甘え上手の表 現なのだ。この人の詩は、意外と大衆の心を掴むことができるようになるんじ ゃないかと思った。  大谷良太の詩集『薄明行』(詩学社)は、ナイーブな心の動きを気取らずに 等身大で表現している点に好感を持った。等身大というのは、素朴な実感主義 で書いているということではなくて、「等身大の自分」というものをしっかり イメージして言葉で造形しているということである。経済的に自立しきれてい ないことへの肩身の狭い想いが結構切々と書かれているが、男性のフリーター の心情がよく出ているなあと感じた。成人したら何が何でも自立しなければな らないという強迫観念は、現在でも男性の方により重くのしかかっているもの だろう。こんな言い方をしたら失礼にあたるのかもしれないが、著者は男性に 生まれて損をした人ではないか。自立しなければという焦りと、詩人としての 人生を貫きたいというプライドの衝突が、虚飾なく繊細に描かれていて気持ち 良かった。  帰りに代官山のお茶の専門店ルピシアに行き、梅の香りつきウーロン茶を購 入。ここは知り合いの女性が店長をつとめている。挨拶代わりに買い物してみ たら値段の割りにモノがすごく良かったのでそれ以来たびたび足を運んでいる のだ。家でさっそくお湯を沸かして飲んでみたら、期待にたがわぬ優雅な味わ いで、すっかりくつろいだ気分になってしまいましたね。いいお茶を飲むこと って、自分に時間をプレゼントすることなのかもね。